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「相良寺」の版間の差分

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|本尊 = [[千手観音]]坐像
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
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[[朱雀天皇]]の時<ref>相良観音縁起による。『肥後鹿本吾平山相良寺』4頁は「朱雀天皇の[[天慶]]年中」と書き、相良寺オフィシャルページや、『熊本・観光文化検定 公式テキストブック』188頁も朱雀天皇と書く。例えばオフィシャルページ「相良寺の縁起と由来」では、「61代朱雀天皇の時代、皇后さまが子宝に恵まれなかったのか、ご出産で苦しんでおられたのか定かではございませんが、当時、皇室の勅使がご来山になり、7日間本堂にこもられ一心にご祈願されたところ、無事に62代の[[村上天皇]]さまがお生まれになられた」と説明されている。もっとも、村上天皇の出生は[[延長 (元号)|延長]]4年([[926年]])であるが、朱雀天皇は延長元年([[923年]])の出生で、この時まだ幼児で即位もしていない。朱雀天皇は村上天皇の兄で、延長4年当事の天皇は、村上天皇らの父である[[醍醐天皇]](在位897~930年)である。</ref>、あるいは、[[後朱雀天皇]]の時<ref>『肥後国誌』は「後朱雀帝ノ皇后当寺ノ観音ニ祈リ給ヒ皇子御降誕ト云リ」との伝を載せる。その他、後朱雀天皇と記すものに『鹿本郡誌』604頁、『くまもと』66-67頁、『熊本県大観』鹿本郡案内5-6頁、『熊本県の地名』164頁など。</ref><ref>朱雀天皇の在位は930~946年、後朱雀天皇の在位は1036~1045年と、両者には約100年の開きがある。</ref>というが、[[皇后]]の安産祈願のため[[勅使]]が下向し、この寺に参籠したところ、無事に[[皇子]]が誕生したと伝えられ<ref>朱雀天皇に皇女([[昌子内親王]])はあるが皇子はない。昌子内親王の出生も朱雀天皇退位後、村上天皇の[[天暦]]4年([[950年]])である。</ref>、安産や子育てに霊験があるとされる。
[[朱雀天皇]]の時<ref>相良観音縁起による。『肥後鹿本吾平山相良寺』4頁は「朱雀天皇の[[天慶]]年中」と書き、相良寺オフィシャルページや、『熊本・観光文化検定 公式テキストブック』188頁も朱雀天皇と書く。例えばオフィシャルページ「相良寺の縁起と由来」では、「61代朱雀天皇の時代、皇后さまが子宝に恵まれなかったのか、ご出産で苦しんでおられたのか定かではございませんが、当時、皇室の勅使がご来山になり、7日間本堂にこもられ一心にご祈願されたところ、無事に62代の[[村上天皇]]さまがお生まれになられた」と説明されている。もっとも、村上天皇の出生は[[延長 (元号)|延長]]4年([[926年]])であるが、朱雀天皇は延長元年([[923年]])の出生で、この時まだ幼児で即位もしていない。朱雀天皇は村上天皇の兄で、延長4年当事の天皇は、村上天皇らの父である[[醍醐天皇]](在位897~930年)である。</ref>、あるいは、[[後朱雀天皇]]の時<ref>『肥後国誌』は「後朱雀帝ノ皇后当寺ノ観音ニ祈リ給ヒ皇子御降誕ト云リ」との伝を載せる。その他、後朱雀天皇と記すものに『鹿本郡誌』604頁、『くまもと』66-67頁、『熊本県大観』鹿本郡案内5-6頁、『熊本県の地名』164頁など。</ref><ref>朱雀天皇の在位は930~946年、後朱雀天皇の在位は1036~1045年と、両者には約100年の開きがある。</ref>というが、[[皇后]]の安産祈願のため[[勅使]]が下向し、この寺に参籠したところ、無事に[[皇子]]が誕生したと伝えられ<ref>朱雀天皇に皇女([[昌子内親王]])はあるが皇子はない。昌子内親王の出生も朱雀天皇退位後、村上天皇の[[天暦]]4年([[950年]])である。</ref>、安産や子育てに霊験があるとされる。

2020年8月26日 (水) 05:44時点における版

相良寺
所在地 熊本県山鹿市菊鹿町相良370
位置 北緯33度4分19.6秒 東経130度46分11.4秒 / 北緯33.072111度 東経130.769833度 / 33.072111; 130.769833 (相良寺)座標: 北緯33度4分19.6秒 東経130度46分11.4秒 / 北緯33.072111度 東経130.769833度 / 33.072111; 130.769833 (相良寺)
山号 吾平山
宗旨 天台宗
本尊 千手観音坐像
創建年 (伝)弘仁5年(814年
開山 (伝)最澄または俊芿
正式名 吾平山 医王院 相良寺
別称 相良観音
札所等 九州四十九院薬師霊場第31番札所、肥後西国観音霊場第33番札所、山鹿三十三観音霊場第33番札所
公式サイト <相良観音>相良寺オフィシャルページ
法人番号 7330005003272 ウィキデータを編集
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相良寺(あいらじ)は、熊本県山鹿市菊鹿町相良にある天台宗の寺院。九州四十九院薬師霊場第31番札所。肥後西国観音霊場第33番札所。山鹿三十三観音霊場第33番札所。通称は相良観音

歴史

比叡山延暦寺の末寺で、弘仁5年(814年)、伝教大師最澄の開基と伝えられるが、開基は肥後出身の僧・俊芿との説もある[1]

朱雀天皇の時[2]、あるいは、後朱雀天皇の時[3][4]というが、皇后の安産祈願のため勅使が下向し、この寺に参籠したところ、無事に皇子が誕生したと伝えられ[5]、安産や子育てに霊験があるとされる。

治承・寿永の乱(源平合戦)の際、平氏方であった菊池隆直の兵が相良の地に籠もり、これを攻めた源氏方の緒方惟栄が寺を焼き討ちにしたため、本堂や多くの坊舎を焼失した。 寺の付近に自生する天然記念物アイラトビカズラの名は、寺が焼き討ちにあった際、千手観音カズラに飛び移ったという伝説に由来する。

正平年間、菊池武光が寺を再興。以後、菊池氏歴代の帰依を受け、菊池氏没落後は国人・隈部氏の信仰を受けた。

現在の本尊は、室町時代後期の作で、山鹿市指定文化財となっている丈六坐像の千手観音像。高さ約3.4メートル、檜の寄木造りで、永正14年(1517年)作の胎内銘がある。木彫座像としては国内最大である。 なお、この観音像は生首を提げているが、緒方惟栄が寺に火をかけたことを怒り、惟栄の首を取ったものと伝えられる。

明治に入り廃寺となったが、明治10年(1877年)、再興されて現在に至る。

行事

  • 1月1日 新年祈願会
  • 2月節分当日 星祭節分会
  • 3月15~18日 春季大祭
  • 4月8日 花祭り
  • 7月10日 四万六千日祈願祭
  • 毎月18日 観音縁日

所在地

  • 熊本県山鹿市菊鹿町相良370

交通

注釈

  1. ^ 『肥後国誌』による。なお、最澄(767~822年)と俊芿(1166~1227年)では、活動時期に約400年の開きがある。
  2. ^ 相良観音縁起による。『肥後鹿本吾平山相良寺』4頁は「朱雀天皇の天慶年中」と書き、相良寺オフィシャルページや、『熊本・観光文化検定 公式テキストブック』188頁も朱雀天皇と書く。例えばオフィシャルページ「相良寺の縁起と由来」では、「61代朱雀天皇の時代、皇后さまが子宝に恵まれなかったのか、ご出産で苦しんでおられたのか定かではございませんが、当時、皇室の勅使がご来山になり、7日間本堂にこもられ一心にご祈願されたところ、無事に62代の村上天皇さまがお生まれになられた」と説明されている。もっとも、村上天皇の出生は延長4年(926年)であるが、朱雀天皇は延長元年(923年)の出生で、この時まだ幼児で即位もしていない。朱雀天皇は村上天皇の兄で、延長4年当事の天皇は、村上天皇らの父である醍醐天皇(在位897~930年)である。
  3. ^ 『肥後国誌』は「後朱雀帝ノ皇后当寺ノ観音ニ祈リ給ヒ皇子御降誕ト云リ」との伝を載せる。その他、後朱雀天皇と記すものに『鹿本郡誌』604頁、『くまもと』66-67頁、『熊本県大観』鹿本郡案内5-6頁、『熊本県の地名』164頁など。
  4. ^ 朱雀天皇の在位は930~946年、後朱雀天皇の在位は1036~1045年と、両者には約100年の開きがある。
  5. ^ 朱雀天皇に皇女(昌子内親王)はあるが皇子はない。昌子内親王の出生も朱雀天皇退位後、村上天皇の天暦4年(950年)である。

参考文献

  • 渡辺桜水『肥後鹿本吾平山相良寺』(文明堂書林,1912)1-14頁
  • 後藤是山編『肥後国誌 校訂 上』(九州日日新聞社印刷部,1916)534-535頁
  • 『鹿本郡誌』(鹿本郡,1923)604頁
  • 『くまもと』(新興熊本大博覧会協賛会,1935)66-67頁
  • 『熊本県大観』(警醒社,1935)鹿本郡案内5-6頁
  • 『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会,1969)熊本県-10頁
  • 『日本歴史地名大系 第44巻 熊本県の地名』(平凡社,1985)164頁
  • 『熊本・観光文化検定 公式テキストブック』(熊本商工会議所,2006)188頁
  • 山鹿市観光振興課・山鹿市教育委員会文化課ほか発行「山鹿三十三観音めぐり」パンフレット

外部リンク