「中臣名代」の版間の差分
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[[天平]]4年([[732年]])[[遣唐使|遣唐副使]]に任ぜられる(大使は[[多治比広成]]、判官は[[平群広成]]ら)。天平5年([[733年]])3月に従五位上に昇叙され、4月に[[難波津]]から4隻の船に分かれて出国し、8月に4隻とも[[呉州 (江蘇省)|蘇州]]の沿岸に漂着。天平6年([[734年]])[[洛陽市|洛陽]]に入って[[皇帝]]・[[玄宗 (唐)|玄宗]]への拝謁を果たす。のち蘇州から帰路につくが、この際には留学生[[吉備真備]]や[[玄ボウ|玄昉]]が帰国に応じた。しかし、[[東シナ海]]上で俄かに悪風が起こり4隻は互いに離れ離れになってしまう。11月に大使・広成の乗る第一船は[[種子島]]に無事漂着するが、副使・中臣名代の乗る第二船は[[福建省|福建]]方面に漂着し、一行は天平7年([[735年]])3月に[[長安]]に送り返された<ref>『冊府玄亀』</ref>。同年閏11月に副使一行は長安を発ち、唐朝の援助で船を修理し、天平8年([[736年]])8月に[[平城京]]に帰着した。なお、第三船で遭難漂流して崑崙国([[チャンパ王国]]か)に漂着した上で軟禁されるが、脱出に成功し唐の[[欽州]]に滞在していた平群広成に関し、その知らせを受けた唐の宰相・[[張九齢]]が起草した勅書『勅日本国王書』<ref>『全唐文』巻287「広成等飄至林邑国」</ref>を名代一行が持ち帰っており、広成生存の情報を日本側が把握している。 |
[[天平]]4年([[732年]])[[遣唐使|遣唐副使]]に任ぜられる(大使は[[多治比広成]]、判官は[[平群広成]]ら)。天平5年([[733年]])3月に従五位上に昇叙され、4月に[[難波津]]から4隻の船に分かれて出国し、8月に4隻とも[[呉州 (江蘇省)|蘇州]]の沿岸に漂着。天平6年([[734年]])[[洛陽市|洛陽]]に入って[[皇帝]]・[[玄宗 (唐)|玄宗]]への拝謁を果たす。のち蘇州から帰路につくが、この際には留学生[[吉備真備]]や[[玄ボウ|玄昉]]が帰国に応じた。しかし、[[東シナ海]]上で俄かに悪風が起こり4隻は互いに離れ離れになってしまう。11月に大使・広成の乗る第一船は[[種子島]]に無事漂着するが、副使・中臣名代の乗る第二船は[[福建省|福建]]方面に漂着し、一行は天平7年([[735年]])3月に[[長安]]に送り返された<ref>『冊府玄亀』</ref>。同年閏11月に副使一行は長安を発ち、唐朝の援助で船を修理し、天平8年([[736年]])8月に[[平城京]]に帰着した。なお、第三船で遭難漂流して崑崙国([[チャンパ王国]]か)に漂着した上で軟禁されるが、脱出に成功し唐の[[欽州]]に滞在していた平群広成に関し、その知らせを受けた唐の宰相・[[張九齢]]が起草した勅書『勅日本国王書』<ref>『全唐文』巻287「広成等飄至林邑国」</ref>を名代一行が持ち帰っており、広成生存の情報を日本側が把握している。 |
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天平8年([[736年]])帰朝の挨拶をするために唐人3人とペルシャ人1人<ref group="注釈">『[[続日本紀]]』天平8年。唐人は[[唐楽]]の専門家でのちに貴族となった[[皇甫東朝]]。唐の僧侶で日本から伝戒師を委嘱された[[ |
天平8年([[736年]])帰朝の挨拶をするために唐人3人とペルシャ人1人<ref group="注釈">『[[続日本紀]]』天平8年。唐人は[[唐楽]]の専門家でのちに貴族となった[[皇甫東朝]]。唐の僧侶で日本から伝戒師を委嘱された[[道璿]]、のちに[[音博士]]となる唐出身の[[袁晋卿]]。ペルシャ人の[[李密翳]]は、[[松本清張]]の[[歴史小説]]『[[眩人]]』でも知られる人物で、2016年に出土した[[木簡]]にその名が確認された[[破斯清道]]との関連を推測する説がある。</ref>を率いて拝朝し、[[聖武天皇]]に謁した<ref>『続日本紀』天平8年8月23日条</ref>。同年11月に渡唐の功労により三階昇進して[[従四位|従四位下]]に叙される。のち、[[神祇官|神祇伯]]に任ぜられ、天平10年([[738年]])には[[右大臣]]・[[橘諸兄]]らと共に神宝を奉るために[[伊勢神宮|伊勢大神宮]]に派遣されている。 |
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天平12年([[740年]])[[藤原広嗣の乱]]が発生すると、名代は乱に[[連座]]して[[流罪]]となり、天平13年([[741年]])[[塩屋吉麻呂]]・[[大和長岡|大養徳小東人]]らと共に配所に移された。 |
天平12年([[740年]])[[藤原広嗣の乱]]が発生すると、名代は乱に[[連座]]して[[流罪]]となり、天平13年([[741年]])[[塩屋吉麻呂]]・[[大和長岡|大養徳小東人]]らと共に配所に移された。 |
2020年8月25日 (火) 01:10時点における版
時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天平17年9月19日(745年10月18日) |
官位 | 従四位下・神祇伯 |
主君 | 元正天皇→聖武天皇 |
氏族 | 中臣氏 |
父母 | 父:中臣島麻呂 |
兄弟 | 人足、名代、形見 |
子 |
伊賀麻呂、鳥長、鷹養、鷹主、松成、 竹成、田給、辛多太 |
中臣 名代(なかとみ の なしろ)は、奈良時代の貴族。小錦上・中臣垂目の孫で、小山中・中臣島麻呂の子。官位は従四位下・神祇伯。
経歴
神亀5年(728年)従六位下から四階昇進して外従五位下に叙せられる。これは中央貴族に対して初めて外位への叙位がなされた例であり、同時に巨勢少麻呂・阿倍帯麻呂らの中央貴族が同じく外従五位下に叙せられている。またこの叙位にあたって、この位階に留まるべきでないこと、勤務の状況に応じて内位に叙するので努力を怠らないこと、についての勅が出されている[1]。翌神亀6年(729年)長屋王の変の後に行われた叙位において、先の外位叙位者と共に内位の従五位下に叙せられた。
天平4年(732年)遣唐副使に任ぜられる(大使は多治比広成、判官は平群広成ら)。天平5年(733年)3月に従五位上に昇叙され、4月に難波津から4隻の船に分かれて出国し、8月に4隻とも蘇州の沿岸に漂着。天平6年(734年)洛陽に入って皇帝・玄宗への拝謁を果たす。のち蘇州から帰路につくが、この際には留学生吉備真備や玄昉が帰国に応じた。しかし、東シナ海上で俄かに悪風が起こり4隻は互いに離れ離れになってしまう。11月に大使・広成の乗る第一船は種子島に無事漂着するが、副使・中臣名代の乗る第二船は福建方面に漂着し、一行は天平7年(735年)3月に長安に送り返された[2]。同年閏11月に副使一行は長安を発ち、唐朝の援助で船を修理し、天平8年(736年)8月に平城京に帰着した。なお、第三船で遭難漂流して崑崙国(チャンパ王国か)に漂着した上で軟禁されるが、脱出に成功し唐の欽州に滞在していた平群広成に関し、その知らせを受けた唐の宰相・張九齢が起草した勅書『勅日本国王書』[3]を名代一行が持ち帰っており、広成生存の情報を日本側が把握している。
天平8年(736年)帰朝の挨拶をするために唐人3人とペルシャ人1人[注釈 1]を率いて拝朝し、聖武天皇に謁した[4]。同年11月に渡唐の功労により三階昇進して従四位下に叙される。のち、神祇伯に任ぜられ、天平10年(738年)には右大臣・橘諸兄らと共に神宝を奉るために伊勢大神宮に派遣されている。
天平12年(740年)藤原広嗣の乱が発生すると、名代は乱に連座して流罪となり、天平13年(741年)塩屋吉麻呂・大養徳小東人らと共に配所に移された。
天平17年(745年)9月19日卒去。最終官位は散位従四位下。
官歴
以下、『続日本紀』の記載に従う。
- 時期不詳:従六位下
- 神亀5年(728年) 5月21日:外従五位下
- 神亀6年(729年) 3月4日:従五位下
- 天平4年(732年) 8月17日:遣唐副使
- 天平5年(733年) 3月14日:従五位上
- 天平8年(736年) 11月3日:従四位下(越階)
- 天平10年(738年) 5月24日:見神祇伯
- 天平13年(741年) 正月22日:流罪
- 天平17年(745年) 9月19日:卒去(散位従四位下)
系譜
「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。