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『宋高僧伝』では、大師号を、弘済大師<ref group="注釈">[[北宋]]の宣祖[[趙弘殷]]を避諱して、大師号を'''洪'''済大師と書かれる。</ref>としている。髪塔は帰真塔といい、[[会昌の廃仏]]時に廃毀されたが、後に法嗣の者が重建したとする。
『宋高僧伝』では、大師号を、弘済大師<ref group="注釈">[[北宋]]の宣祖[[趙弘殷]]を避諱して、大師号を'''洪'''済大師と書かれる。</ref>としている。髪塔は帰真塔といい、[[会昌の廃仏]]時に廃毀されたが、後に法嗣の者が重建したとする。


後に弟弟子に当たる[[石頭希遷]]が慧能の死後に、[[首座|第一座]]の勧めで来訪して弟子となり、その法を発展させ、その弟子筋からは、[[曹洞宗]]、[[雲門宗]]、[[法眼宗]]が派生し、[[臨済宗]]、[[イ仰宗|潙仰宗]]を派出した同じ慧能門下の[[南嶽懐譲]]と共に、後世、禅の二大祖師として並び称されるようになった。
後に弟弟子に当たる[[石頭希遷]]が慧能の死後に、[[首座|第一座]]の勧めで来訪して弟子となり、その法を発展させ、その弟子筋からは、[[曹洞宗]]、[[雲門宗]]、[[法眼宗]]が派生し、[[臨済宗]]、[[潙仰宗]]を派出した同じ慧能門下の[[南嶽懐譲]]と共に、後世、禅の二大祖師として並び称されるようになった。


== 思想 ==
== 思想 ==

2020年8月25日 (火) 00:26時点における版

青原行思
673年? - 740年
『仏祖正宗道影』(1880年)の木版画像
諡号 弘済禅師
生地 吉州安復県
宗派 禅宗
寺院 青原山浄居寺
六祖慧能
弟子 石頭希遷
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青原行思(せいげん ぎょうし、生年不詳 - 740年開元28年)12月13日)は、中国代の弘済禅師。俗姓は劉。吉州安復県(『宋高僧伝』では廬陵)の出身。

一説には生誕年を673年としているが、定かではない。

生涯

子供の頃に寺に入り、暫く修行した後に曹渓(広東省韶関市曲江区)の慧能を尋ねて師事した。

その後、故郷に帰って青原山に浄居寺(江西省吉安市青原区)を開いて布教した。

『宋高僧伝』では、大師号を、弘済大師[注釈 1]としている。髪塔は帰真塔といい、会昌の廃仏時に廃毀されたが、後に法嗣の者が重建したとする。

後に弟弟子に当たる石頭希遷が慧能の死後に、第一座の勧めで来訪して弟子となり、その法を発展させ、その弟子筋からは、曹洞宗雲門宗法眼宗が派生し、臨済宗潙仰宗を派出した同じ慧能門下の南嶽懐譲と共に、後世、禅の二大祖師として並び称されるようになった。

思想

青原の仏法は、師の慧能の頓悟禅を受け継ぎつつも、相手が納得するまで論じる丁寧さを持ち合わせ、比喩を用いて教えるなど、後世の禅宗三派の思想の発端が見られる。

伝記

脚注

注釈

  1. ^ 北宋の宣祖趙弘殷を避諱して、大師号を済大師と書かれる。

出典

師:慧能禅宗弟子:石頭希遷