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2020年8月24日 (月) 09:44時点における版
孝武帝 劉駿 | |
---|---|
宋 | |
第4代皇帝 | |
王朝 | 宋 |
在位期間 | 453年5月20日 - 464年7月12日 |
姓・諱 | 劉駿 |
字 | 休龍 |
諡号 | 孝武皇帝 |
廟号 | 世祖 |
生年 |
元嘉7年8月16日 (430年9月19日) |
没年 |
大明8年閏5月23日 (464年7月12日) |
父 | 文帝 |
母 | 路淑媛 |
后妃 | 王皇后 |
陵墓 | 景寧陵 |
年号 |
孝建 : 454年 - 456年 大明 : 457年 - 464年 |
孝武帝(こうぶてい)は、南朝宋の第4代皇帝。姓は劉、名は駿。字は休龍、小字は道民。
生涯
430年8月、文帝(劉義隆)の三男として生まれた。436年9月、武陵王に封じられた。439年、都督湘州諸軍事・征虜将軍・湘州刺史となった。440年、使持節・都督南豫豫司雍并五州諸軍事・南豫州刺史に転じた。444年、撫軍将軍の号を受けた。445年、寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。448年、安北将軍・徐州刺史に任じられ、彭城に駐屯した。450年、汝陽の敗戦の罪に連座して鎮軍将軍に降格された。451年2月、北魏の侵入を許した罪で、北中郎将に降格された。3月、南兗州刺史となり、山陽に駐屯した。6月、南中郎将・江州刺史に転じた。
453年1月、長兄にあたる皇太子劉劭が文帝を殺害すると、劉駿は兄を討つべく江州で起兵した。4月、新亭に進軍して、皇帝に即位した。5月、建康を陥落させ、劉劭を殺害した。
459年4月、異母弟の劉誕が叛乱を起こすと、車騎大将軍の沈慶之に討伐させた。
在位中、中央集権を推し進め、側近に寒門を登用するなどの政策を行う一方で、数人の兄弟の一族を殺害した上に一般市民などを虐殺し、暴虐さとともに奢侈を好む一面もあった。また、実母の路恵男に甘いとの噂も立った。そのため、財源確保のために租税を厳しくするなど、宋の衰退の端緒となった。
464年閏5月、玉燭殿で死去した。
妻子
后妃
子
- 前廃帝 劉子業 - 母は王皇后
- 豫章王 劉子尚(孝師)- 母は王皇后
- 晋安王 劉子勛(孝徳)- 母は陳淑媛
- 安陸王 劉子綏(宝孫)
- 劉子深(早逝)
- 尋陽王 劉子房(孝良)- 母は何淑儀
- 臨海王 劉子頊(孝列)- 母は史昭華
- 始平孝敬王 劉子鸞(孝羽)- 母は殷淑儀
- 永嘉王 劉子仁(孝和)- 母は徐昭容
- 劉子鳳(早逝)
- 始安王 劉子真(孝貞)- 母は謝昭容
- 劉子玄(早逝)
- 邵陵王 劉子元(孝善)- 母は史昭儀
- 斉敬王 劉子羽(孝英)- 母は殷淑儀
- 劉子衡(早逝)
- 淮南王 劉子孟(孝光)- 母は楊婕妤
- 劉子況(早逝)
- 南平王 劉子産
- 晋陵孝王 劉子雲(孝挙)- 母は殷淑儀
- 劉子文(早逝)
- 廬陵王 劉子輿(孝文)- 母は楊婕妤
- 南海哀王 劉子師(孝友)- 母は殷淑儀
- 淮陽思王 劉子霄(孝雲)- 母は江婕妤
- 劉子雍(早逝)
- 劉子趨
- 劉子期
- 東平王 劉子嗣(孝叔)- 母は謝昭容
- 劉子悦
女
- 山陰公主 劉楚玉
- 安固公主
- 臨汝公主
- 安吉公主
- 臨淮公主 劉楚珮
- 皇女劉楚琇
- 康楽公主 劉修明
- 県公主
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