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文帝 (陳)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文帝 陳蒨
第2代皇帝
陳文帝(閻立本筆、ボストン美術館蔵)
王朝
在位期間 永定3年6月29日 - 天康元年4月27日
559年8月17日 - 566年5月31日
都城 建康
姓・諱 陳蒨
子華
諡号 文皇帝
廟号 世祖
生年 普通3年(522年)(諸説ある)
没年 天康元年4月27日
566年5月31日
陳道談
后妃 沈皇后
陵墓 永寧陵
年号 天嘉 : 560年 - 565年
天康 : 566年

文帝(ぶんてい)は、南朝の第2代皇帝。初代皇帝・武帝(陳霸先)の甥。姓は。側近の韓子高と男色関係にあったことで知られている。

生涯

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陳霸先の長兄の陳道談の長男として生まれた。叔父に従って侯景の乱の討伐に従軍し、呉興郡太守となった。宣城郡から紀機郝仲らが侵入してくると、これを討って平定した。

承聖2年(553年)、信武将軍の位を受け、監南徐州を務めた。

承聖3年(554年)、陳霸先が北伐して広陵を攻撃すると、先鋒として活躍した。

天成元年(555年)、陳霸先が王僧弁を討つにあたって、王僧弁の娘婿の杜龕が呉興郡に拠っていたため、陳蒨は陳霸先の命を受けて郷里の長城県に帰り、杜龕の進攻に備えた。陳蒨はわずかな兵で杜龕の部将の杜泰と対峙し、撃退に成功した。陳霸先が周文育を派遣して杜龕を討たせると、陳蒨は周文育に合流した。陳蒨は将軍の劉澄蒋元挙に杜龕を攻撃させて撃破した。東揚州刺史張彪臨海郡太守の王懐振を包囲し、王懐振が救援を求めてくると、陳蒨は周文育とともに会稽に赴いて張彪を攻撃した。張彪の部将の沈泰が開門して陳蒨を迎えたため、陳蒨はその兵を併呑して張彪を撃破した。功績により使持節・都督会稽等十郡諸軍事・宣毅将軍・会稽郡太守に任じられた。また少数民族の山越の乱を討った。

永定元年(557年)に陳霸先が南朝陳を建国すると、臨川郡王に立てられ、侍中・安東将軍の位を受けた。周文育と侯安都が沌口で王琳に敗れると、陳蒨は武帝のもとで軍事を委ねられた。まもなく兵を率いて南皖に築城した。

永定3年(559年)6月に武帝が崩御すると、章太后の命により南皖から召し出されて即位した。在位中は北周とのあいだに和平を結び、王琳を郢州から追放して、北斉の介入を退けた。また、各地に割拠する周迪留異陳宝応らの独立勢力を撃破して、江南における陳の支配を確立した。その後は賦役の減免・奴婢の解放・倹約令の奨励など、内政に力を注いで陳の国力基盤を固めた。

566年に崩御。

妻子

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后妃

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  • 文皇后沈妙容
  • 厳淑媛
  • 潘容華
  • 劉昭華
  • 王充華
  • 張修容
  • 韓修華
  • 江貴妃
  • 孔貴妃

男子

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  • 廃帝 陳伯宗(奉業)- 母は沈皇后
  • 始興王 陳伯茂(鬱之)- 母は沈皇后
  • 鄱陽王 陳伯山(静之)- 母は厳淑媛
  • 新安王 陳伯固(牢之)- 母は潘容華
  • 晋安王 陳伯恭(粛之)- 母は厳淑媛
  • 衡陽王 陳伯信(孚之)- 母は劉昭華
  • 廬陵王 陳伯仁(寿之)- 母は王充華
  • 江夏王 陳伯義(堅之)- 母は張修容
  • 武陵王 陳伯礼(用之)- 母は韓修華
  • 永陽王 陳伯智(策之)- 母は江貴妃
  • 桂陽王 陳伯謀(深之)- 母は孔貴妃

女子

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  • 豊安公主(留異の子の留貞臣の妻)
  • 富陽公主(侯瑱の子の侯浄蔵の妻、柳敬言の弟の柳盼に再嫁した)
先代
武帝
皇帝
第2代:559年 - 566年
次代
廃帝