殷淑儀
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殷 淑儀(いん しゅくぎ、? - 462年)は、南朝宋の孝武帝の淑儀(側室)。諱は知られていない。
経歴
[編集]南郡王劉義宣(宋の武帝の六男で、孝武帝の叔父)の娘として生まれた。
孝建元年(454年)、劉義宣が敗死すると、殷琰の家人であると称し、姓を殷氏と改めて、孝武帝の後宮に入り、淑儀に立てられた。劉子鸞・劉子羽・劉子雲・劉子文・劉子師および第12皇女を産んだ(劉子羽・劉子雲・劉子文は夭折した)。大明6年(462年)4月に死去し、貴妃の位を追贈され、諡は宣といった。孝武帝は殷氏の死を悲しんで、漢の武帝の『李夫人賦』を模して賦を詠んだ。
後に即位した前廃帝(孝武帝の嫡長子)は、自身の廃太子を画策した殷氏への恨みを忘れず、殷氏の墓を暴き、殷氏の子女をみな殺害した。