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[[229年]]、孫権が[[皇帝]]になったとき、張昭は自分が高齢で病気がちだとして、官位・領地・兵を返上した。孫権は、改めて張昭を[[三公]]に次ぐ輔呉将軍に任命し、婁侯に封じ、一万戸の食邑を与えた。一説には、孫権が帝位につき百官を呼び集めた席で、帝位に即位できたのは周瑜のおかげだと述べた後、同意して周瑜を称賛しようとした張昭に対し「もしあの時、張公の(赤壁の戦いで曹操に降伏する)進言を聞いていたら、私は帝位に即位するどころか、今頃は乞食になっていた」と皮肉ると、張昭は酷く恥じ入ったという(『江表伝』)。 |
[[229年]]、孫権が[[皇帝]]になったとき、張昭は自分が高齢で病気がちだとして、官位・領地・兵を返上した。孫権は、改めて張昭を[[三公]]に次ぐ輔呉将軍に任命し、婁侯に封じ、一万戸の食邑を与えた。一説には、孫権が帝位につき百官を呼び集めた席で、帝位に即位できたのは周瑜のおかげだと述べた後、同意して周瑜を称賛しようとした張昭に対し「もしあの時、張公の(赤壁の戦いで曹操に降伏する)進言を聞いていたら、私は帝位に即位するどころか、今頃は乞食になっていた」と皮肉ると、張昭は酷く恥じ入ったという(『江表伝』)。 |
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ある時、孫権は[[厳畯]]に幼い頃に覚えた書を暗誦するよう求めた。厳畯は求めに応じ『[[孝経]]』の冒頭を暗誦したが、張昭はその場に割って入り、より主君の前の場で適当だと考える部分を暗誦し、孫権に示した。人々は張昭を称賛した。 |
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妻を亡くした長男のために、[[諸葛瑾]]の娘を後添えとして迎えてやった。また、甥が[[歩騭]]の推薦で軍務に就いたときは、これを喜ばなかった。 |
妻を亡くした長男のために、[[諸葛瑾]]の娘を後添えとして迎えてやった。また、甥が[[歩騭]]の推薦で軍務に就いたときは、これを喜ばなかった。 |
2020年8月21日 (金) 08:50時点における版
張昭 | |
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呉 輔呉将軍・婁侯 | |
出生 |
156年 徐州彭城国 |
死去 | 236年 |
拼音 | Zhāng Zhāo |
字 | 子布(しふ) |
諡号 | 文侯 |
別名 | 張公 |
主君 | 孫策→孫権 |
張 昭(ちょう しょう、156年-236年)は、中国後漢末期から三国時代の呉にかけての政治家・武将。字は子布。諡は文侯。徐州彭城国の人。妻は孫氏[1]。子は張承・張休・他一名。孫は張震。曾孫は張闓[2]。玄孫は張混[2]。甥は張奮。
経歴
若き日
若い頃から学問に励み、隷書に巧みで、智謀に長けていた。白侯子安という人物から『左氏春秋』を教授され、その他広く書物を読んだ。やがて王朗・趙昱と並んで高い名声を得て、互いに親しく交友した。
20歳前後で孝廉に推挙されたが、都に出仕しなかった。王朗と旧君の諱についての議論を交わし、陳琳ら同郷の人々の注目を集めた。その議論は『風俗通』という書籍に記録されていたという。
陶謙から、官途に就くよう茂才に推挙されたことがあるが、張昭はこれを拒絶した。そのため、陶謙にこれを恨まれて投獄されたが、趙昱の弁護によって助けられた。
後に陶謙が死去すると、張昭は陶謙のために弔辞を書いたという(「陶謙伝」が引く『呉書』)
孫策に仕える
董卓の専横などで中央が乱れると、その混乱を避けて江南に移住する。孫策が揚州で挙兵したとき、その参謀として招かれた。孫策は張昭を得たことを喜び、上奏して校尉に任命し、師友として遇したという(『呉書』)。長史・撫軍中郎将に任じられた。孫策からの信任は厚く、孫策は張昭の家に赴いて母親に挨拶するなど、家族同然の付き合いをした。
当時まだ張昭は、北方の士大夫等との手紙のやり取りを続けていた。孫策はその行動を心配していたが、改めて張昭への信頼を示し、自分の覇業を補佐してくれるよう要請した。
孫策は張昭に政治・軍事の一切の裁断を任せた。孫策は参謀として張昭の他、張紘・秦松・陳端といった人物を登用していたが、出陣するときは、張昭か張紘のどちらか一人を伴い、どちらか一人には留守を任せたという(「討逆伝」・「張紘伝」が引く『呉書』)。部将の鄧当が死去すると、張昭は後任として呂蒙を推挙した(「呂蒙伝」)。
200年、孫策が急死した時その枕元に呼ばれ、弟の孫権を補佐するよう委任された。この時、孫策は孫権に「内政のことは張昭に相談せよ」と命じ、また張昭に「もし仲謀(孫権の字)が仕事に当る能力がないようならば、あなた自身が政権を執ってほしい」と述べたという(『呉歴』)。
孫権を補佐する
孫策の死後、後漢朝に孫権が跡を継いだことを上表した。張昭は孫権が配下の将や城を統率したものの、その死を悲しみしばらく政治を執ろうとしなかった事を叱咤し、馬に乗らせて兵士を率いさせた。この事で人々は、孫権が後継者になったことを認知するようになったという。
202年(又は207年、「呉夫人伝」が引く『志林』)、孫策と孫権の生母である呉夫人も死去した。その時、張昭は呉夫人に召し出されて「我が子の仲謀をよろしく頼みます」と彼女に委託されたという。
孫権自身が出陣したときは留守を守り、幕府の事務を処理した。また、孫権が当主になったばかりの時は、孫氏の勢力が不安定なものになっていたので、張昭は兵士・豪族・民の気持ちを安定させるとともに、ときには自身が軍勢を率いて反乱平定や賊討伐に赴いた。(『呉書』)。
孫権政権下では引き続き長吏を務めた。孫権には「張公」と呼ばれ信頼されたという(「張紘伝」が引く『江表伝』)。
呉の成立
207年、劉表軍の黄祖陣営から甘寧が投降してきた。甘寧は孫権に西上して黄祖を討つことを勧めた。張昭は反対したが、甘寧に反論され、孫権もまた甘寧の意見に賛同した(「甘寧伝」)。
208年の赤壁の戦いでは、曹操軍の圧倒的兵力の前に秦松ら多くの家臣達とともに、孫権に降伏を進言している。赤壁の戦いの直後に、孫権の合肥攻撃に連動して、九江の当涂に侵攻したが、孫権は張昭に命じて別動隊を率いて匡琦を討たせた。さらに部将たちを率いて豫章郡の賊頭の周鳳を南城に攻め、これを打ち破った。それ以降は張昭がみずから軍を指揮することは稀になり、常に孫権の傍にあり策謀を用いて貢献した。
曹操を退けた後に、孫権が劉備の推薦で車騎将軍に任命されると、その軍師となった。周瑜の死後、孫権は魯粛を重用するようになった。しかし張昭は魯粛を嫌い、信任しないよう孫権に忠告した(「魯粛伝」)。
218年に孫権は虎狩が好きで、騎馬に乗り虎を射ることを好んでいたが、ある時虎に反撃され馬の鞍に飛びつかれた。それを見た張昭は「君主は優秀な群臣を使いこなすもので、野原で獣と勇を競うものではない」と孫権を叱責した。これ以後、孫権は馬上で虎を射るのではなく、箱に穴を開けた車(木製の装甲車のようなもの)から虎を射て遊んだという。ただし、獣が車に近づいてきたときは、孫権手ずから倒すことを好んだため、張昭はまたもこれを諌めたが、孫権は笑って答えなかった。
221年、孫権が魏により呉王に封じられると、使者の刑貞が呉を訪問した。邢貞は尊大な態度で臨んだが、張昭は強くこれを咎めた。張昭は綏遠将軍となり、由拳侯に封じられた。張昭は孫紹・滕胤・鄭礼と共同して、朝廷の儀礼制度を整備したという(『呉録』)。 孫権が呉王となったとき、群臣は張昭を初代丞相に推した。しかし孫権は、丞相職は百官の取りまとめなど責務が重要であり、張昭を丞相にすることは彼を優遇することにはならないとして、孫邵を丞相に任命した。
孫権は太子の孫登のために、張昭に命じて『漢書』を講義させようとしたが、考え直して子の張休に講義をさせることにした。
この間、張温という人物が評価を集め、顧雍や蜀漢の諸葛亮など多くの者達が彼を称賛した。張昭は張温のことを、自分の後を引き継げる人材として期待をかけたが、丞相の孫邵は張温と曁艶に讒言され失脚した(「張温伝」)。
225年に孫邵が死去すると、再び張昭が推されたが、孫権はこれを退け顧雍を後任とした。この時、孫権は「張昭は剛直な性格なので、感情的な行き違いが起こるだろうから、張昭を丞相にすることは彼のためにならない」と、張昭を丞相に任命しない理由を述べた。
孫権は酒宴を催し、張昭もそれに同席した。ある時に武昌での宴会で、孫権は酔いつぶれた配下に水を被せ、彼らを目覚めさせた。台から転げ落ちるまで飲ませようとしたが、張昭はものも言わず立ち去った。孫権が後を追い「皆で一緒に楽しもうとしているだけなのに、なぜ腹を立てるのか」と言うと、張昭は「昔紂が糟丘酒池を作り、長夜の飲(さかもり)をいたしましたが、その時にも楽しみのためにやっているのだと考え、悪事を考えているなどとは考えておりませんでした」と反論した。孫権は恥じて宴会を中止させた。その他、孫権と神仙についての話をしているところを虞翻にからかわれた逸話や(「虞翻伝」)、諸葛恪にその弁舌で手玉に取られた逸話もある(「諸葛恪伝」)。
229年、孫権が皇帝になったとき、張昭は自分が高齢で病気がちだとして、官位・領地・兵を返上した。孫権は、改めて張昭を三公に次ぐ輔呉将軍に任命し、婁侯に封じ、一万戸の食邑を与えた。一説には、孫権が帝位につき百官を呼び集めた席で、帝位に即位できたのは周瑜のおかげだと述べた後、同意して周瑜を称賛しようとした張昭に対し「もしあの時、張公の(赤壁の戦いで曹操に降伏する)進言を聞いていたら、私は帝位に即位するどころか、今頃は乞食になっていた」と皮肉ると、張昭は酷く恥じ入ったという(『江表伝』)。
ある時、孫権は厳畯に幼い頃に覚えた書を暗誦するよう求めた。厳畯は求めに応じ『孝経』の冒頭を暗誦したが、張昭はその場に割って入り、より主君の前の場で適当だと考える部分を暗誦し、孫権に示した。人々は張昭を称賛した。
妻を亡くした長男のために、諸葛瑾の娘を後添えとして迎えてやった。また、甥が歩騭の推薦で軍務に就いたときは、これを喜ばなかった。
孫権との対立
張昭は参内し孫権と面会する毎に、断固とした意見を述べたため、あるとき孫権の機嫌を損ね、目通りすることができなくなったことがあった。すると、蜀の使者がやってきて蜀の素晴らしさを吹聴した時、呉の群臣達が皆言い返せないという事が起きてしまった。孫権は、張昭がいればこのようなことはなかったと残念がり、次の日に使者を直々に送り、張昭との対面を求めた。孫権と張昭はお互いに謝罪し、張昭は再び目通りが許されたことを感謝しつつも、今後も孫権に対し直言していくことは止めないと述べた。
232年、公孫淵が呉への服属を願い出ると、孫権は使者として張弥・許晏を派遣して、公孫淵を燕王に封じようとした。張昭は、公孫淵が本心から呉に従おうとしている訳ではないと反対した。孫権は張昭の態度に怒り、剣に手をかけたが、張昭は孫策と呉夫人の遺言を理由にあくまで反対し、孫権をじっと見つめ涙を流した。孫権は剣を捨て、御座から降りて張昭と向かい合い泣いたが、結局は使者を出発させた。張昭は意見が容れられなかったことに腹を立て、病と称して家に引きこもり、朝議への参加を断った。孫権は土で張昭の屋敷の門を塞いだが、張昭も負けずに内側から土で門を塞いだ。
果たして公孫淵は張弥・許晏を殺し、魏にその首を送った。孫権は自らの誤りを悟り、何度も詫びを入れたが、張昭は家に引きこもったままだった。さらに、孫権が直接門前から声を掛けても、重病を理由に面会を断った。このため、沈黙の孫権は、家門の前に火をつけて脅したが、張昭はますます扉は固く閉ざす。孫権がその火を消させた後もしばらくその門の前で待っていたのを見かねた張昭の息子らが張昭をかかえて連れだした。孫権は張昭を自分と同じ車に乗せて宮中に帰り、張昭に深く謝罪した。ここまでされたら、と張昭も氷解し、以後通常通りに朝議に参加した。(「襄陽記」や「漢晋春秋」の作者である習鑿歯は張昭の行動を「張昭は頑固が過ぎ、孫権が折れてもなお臍を曲げるは、臣下としての道を踏み外している」と痛烈に批判した[3]。)
236年に死去した。飾り気のない棺を用い、普段着のまま葬るよう遺言していた。葬儀には孫権も立ち会ったが、素服(平服のことか)で臨んだとある。文侯と諡された。長男は既に爵位を得ていたので、爵位は少子が継いだ。
陳寿は「張昭は勲功を立派に立て、真心をもって直言し、正しい道を守った。ただ、厳格な態度が理由で孫権に煙たがられ、宰相(丞相)に任命されなかった」と評している。
人物
張昭の名声は高く、容姿も謹厳で堂々としていた。軍政両道の能力を持った人物、武将としての一面を垣間見せている。 孫権は常に張公と呼び、諱を避けることで敬意を示した。国中で彼は恐れ憚られたという。
張昭は参内することも稀になったことから、家において著作に励み、『左氏春秋解』や『論語注』などを著したという。
三国志演義
小説『三国志演義』においても呉の参謀筆頭の扱いをされ、張紘と共に「江東の二張」と呼ばれる在野の賢者で、孫策の度重なる説得を受けて仕える事となった。赤壁の戦いの前に諸葛亮との討論に敗れる重臣の一人として登場している。関羽の死後、張昭は孫権にその禍を魏に転化するよう進め、関羽の首の塩漬けは曹操の元へと送られた。
正史では、一度官位と領地を返上した後も政治に関わっているが、演義では完全に隠退したことになっている。
相関
婁湖は、張昭が家の前に掘った池、これに婁湖(張昭の爵位・婁侯に由来)とも称される。張昭によって婁湖の灌漑工事が行なわれたことがみえる[4]。
家系図
● ┣━━━━━━━━┓ 張昭 ● ┣━━┓ ┃ 張承 張休 張奮 ┣━━━┳━━━┓ 張震 孫和妻 陸抗妻