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[[劉備]]の使者として弟が都を訪問した時、孫権に諸葛亮を説得して仕えさせられないかと言われると、「私が我が国を裏切らないように、弟もまた劉備を裏切らないでしょう」と言ったという。孫権はこの言葉に感銘を受け、その後、諸葛瑾に絶大な信頼を示すようになったという<ref>『[[江表伝]]』</ref>。
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諸葛瑾は孫権の性格を良くつかんでおり、戒める時も直接言う事はなく、諭すような様子で取り成し、孫権と不仲になった呉郡[[太守]]の[[朱治]]や、校尉の[[殷模]]との関係を上手く取り持った。また、孫権に疎まれた[[虞翻]]の弁護を懸命に行い、虞翻に感謝された。
諸葛瑾は孫権の性格を良くつかんでおり、戒める時も直接言う事はなく、諭すような様子で取り成し、孫権と不仲になった呉郡[[太守]]の[[朱治]]や、校尉の[[殷模]]との関係を上手く取り持った。また、孫権に疎まれた[[虞翻]]の弁護を懸命に行い、虞翻に感謝された。


[[張承 (孫呉)|張承]]・[[歩騭]]・[[厳シュン|厳畯]]とは古くからの付き合いがあり親友であった。歩騭・厳畯とは、[[江東]]に避難してきた時に同行して以来の親友であり、また張承の後妻として娘を嫁がせている。[[潁川郡|潁川]]の[[周昭]]はこの4名と[[顧邵]]について、書物を著し立派な振る舞いをした人物として、賞賛したという<ref>『三国志』呉志 歩騭伝</ref>。
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妻の死去した後も再婚することはなく、寵愛する妾はいたものの、その子を育てなかったという。当时は慎重な行いと褒められた<ref>『呉書』</ref>。
妻の死去した後も再婚することはなく、寵愛する妾はいたものの、その子を育てなかったという。当时は慎重な行いと褒められた<ref>『呉書』</ref>。

2020年8月21日 (金) 08:49時点における版

諸葛瑾

大将軍・左都護・豫州牧・宛陵侯
出生 熹平3年(174年
徐州琅邪郡陽都県
死去 赤烏4年(241年
荊州南郡公安県
拼音 Zhūgĕ Jǐn
子瑜
別名 諸葛使君(官称)
主君 孫権
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諸葛 瑾(しょかつ きん、174年 - 241年)は、中国後漢末期から三国時代政治家武将。字は子瑜徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)の出身。子は諸葛恪諸葛喬諸葛融張承妻。

生涯

呉書』によると若い頃に首都に出て、『毛詩』・『尚書』・『左氏春秋』などを読み学問を修め、実母が死ぬと継母に孝養を尽くしたという。後漢末の戦乱を避けて揚州に移り住んだ。この頃孫策が亡くなり孫権が跡を継いだ頃で、彼の非凡さを見抜いた孫権の姉婿である、曲阿の弘咨が諸葛瑾を孫権に推挙した。孫権の諸葛瑾への評価は高く、魯粛と同じく賓客として遇され、後に長史・中司馬とされた。

建安6年(201年)、諸葛瑾は歩騭厳畯と倶に呉中に游び、共に声名を著わし、当時の英俊とされた[1]

劉備の使者として弟が都を訪問した時、孫権に諸葛亮を説得して仕えさせられないかと言われると、「私が我が国を裏切らないように、弟もまた劉備を裏切らないでしょう」と言ったという。孫権はこの言葉に感銘を受け、その後、諸葛瑾に絶大な信頼を示すようになったという[2]

建安20年(215年)、劉備が益州を手に入れたのに伴い、荊州返還を要求する孫権の使者となる。この時、劉備に仕えた弟とは公私の立場をはっきり区別し、公式の場で顔を合わせても、私的に面会する事はなかった。劉備が「涼州を手に入れたらお返しする」と返答したため、返還が実現せずに失敗している。このため、孫権が怒り呂蒙に荊州を奪取させると、劉備も自ら兵を派遣し同盟関係が拗れかけた。しかし魯粛の尽力(単刀赴会)と、さらに曹操漢中を平定したことにより、劉備から和解が申し込まれた。諸葛瑾は同盟関係確認のため、再び使者として益州に赴いた[3]

建安24年(219年)、関羽討伐に参加して功績を挙げると、綏南将軍となり、宣城侯に封じられた。呂蒙の死後は南郡太守となる。劉備が東征の軍を進めると、呉蜀講和のために劉備に書簡を寄せている。諸葛瑾は、劉備の報復に対する気持ちを推察し、主次と利害を説いて、劉備には受け入れられなかった。諸葛亮の兄ということで内通を疑われたが、陸遜はそのようなことはないとしつつも、孫権に判断を任せるため使者を送った。孫権は「瑾が私を裏切らないのは、私が瑾を裏切らないのと同じだ」と言い、先の諸葛亮との関係を述べた発言を引いて、再び絶大な信頼を示し、陸遜にもそのつもりでいるよういい含めたという[4]

黄武元年(222年)、夷陵の戦いの直後にとの関係が悪化し、曹真夏侯尚の大軍に江陵朱然が包囲されると(江陵の戦い)、潘璋と江陵救援に駆けつけて[5]、魏軍の浮橋に攻撃をかけて夏侯尚軍を苦しめ、長江の中州に軍を進めたが、夏侯尚の火計を受けた[6]。推理によって作戦計画を立てる行動ぶり、曹真や夏侯尚に一進一退で戦い続けます。孫権は、諸葛瑾の用兵が臨機応変を欠くものであったため、当初は不満を持ったが、後に浮橋に攻撃をかけて魏軍を撤退に追い込むと、兵力を失わなかったことを賞したという、国土を守る手柄を立てた[7]。この年、左将軍に昇進し公安督となり、宛陵侯に封じられた。

黄武5年(226年)、孫権の江夏攻撃に連動して、張覇とともに襄陽に侵攻したが、魏の司馬懿に敗れ張覇は斬られた[8]

の同盟関係が復活した後は、弟とも連絡は取り合う関係になっていたようで、長らく子がいなかった弟のために、次男の諸葛喬を弟諸葛亮の養子として蜀に送り込んでいる。蜀の建興5年(227年)諸葛亮に実子の諸葛瞻が誕生し、この年の出陣の直前、弟から実子の成長を心待ちにする内容の手紙をもらっている[9]

黄龍元年(229年)、孫権が皇帝を号すると大将軍に任じられ、左都護・豫州を兼任した。

嘉禾3年(234年)には合肥襄陽祁山攻略を期した孫権は諸葛亮と連絡して共に北伐を行い、孫権の命令で、陸遜と共に襄陽に進軍している。作戦の途中で、連絡の使者が敵に捕らえられるという事件が勃発したため、諸葛瑾は動揺し、陸遜に撤退すべきではないかと意見を求めたが、陸遜はすぐには返事をせず、ただ泰然自若としていた。諸葛瑾は陸遜には考えがあるのだと察した。諸葛瑾が陸遜の元を訪れると、陸遜が冷静に退却策を示したため諸葛瑾はそれに従い、損害を出さずに撤退することに成功した[10]。陸遜と諸葛瑾は襄陽から撤退の途上、白囲まで来たところで、表向きは狩猟をすると偽って奇襲の準備をし、将軍の張梁と周峻に命じて江夏の新市・安陸・石陽を急襲させ、魏軍千余人を斬った。特に石陽の人々は油断していたため、動揺した魏の将は城内に避難しようと殺到する多くの民を殺害した上でやっとのことで城門を閉ざすことが出来た有り様であり、数千人が斬られる大損害を受けた。

しばらくして、呂壱のような酷吏が台頭するようになった。孫権は後に過ちに気づき陳謝し、重臣達に向けて国政に対する意見を求めた。諸葛瑾は自分が武官であることを理由に、一時は孫権の要請を黙殺したが、孫権が詔勅により自分の誤まりを正すよう必死に要請したため、諸葛瑾はすぐさま具体的に回答を示した[11]

赤烏2年(239年)に歩騭を中心に、周瑜の次男で黄龍元年(229年)に失脚していた周胤の復帰を求める運動が起きると、諸葛瑾もその運動の中心となって孫権に嘆願を続けた。全琮や朱然の協力も得て、孫権の気持ちを動かすことも出来たが、ちょうど周胤が没したため、周家の復権は果たせなかった[12]

赤烏4年(241年)の夏4月、孫権が魏に大規模な攻勢をかけた時(芍陂の役)、全琮や朱然の率いた軍が芍陂・樊城を攻め、一方で諸葛瑾や歩騭も荊州方面に軍を展開させ、魏呉の緩衝地域である柤中に占領し、柤中の資源を奪い取った。5月に皇太子である孫登が死去するという大事件が起こっており、6月に戦果を挙げた呉軍が撤兵し、諸葛瑾も損害を出さずに一斉に撤兵した[13]。この直後の閏6月に、諸葛瑾は死去した[14]。68歳であった。白木の棺に普段着のままで埋葬し、葬儀は質素にするよう遺言したという。

人物

諸葛瑾の顔は面長な顔立ち、人となりはりっぱ気品な容貌にくわえて思慮と器量があり、同時代の人間はその寛容さと奥ゆかしさに敬服していた。孫権は大事があると必ずと言っていいほど諸葛瑾の元を訪ね、意見を求めた。孫権と諸葛瑾の関係は「神交」(意気投合した交際)であったという[15]。何度も損害を出さずに撤退することを孫権に褒められている。

諸葛瑾は孫権の性格を良くつかんでおり、戒める時も直接言う事はなく、諭すような様子で取り成し、孫権と不仲になった呉郡太守朱治や、校尉の殷模との関係を上手く取り持った。また、孫権に疎まれた虞翻の弁護を懸命に行い、虞翻に感謝された。

張承歩騭厳畯とは古くからの付き合いがあり親友であった。歩騭・厳畯とは、江東に避難してきた時に同行して以来の親友であり、また張承の後妻として娘を嫁がせている。潁川周昭はこの4名と顧邵について、書物を著し立派な振る舞いをした人物として、賞賛したという[16]

妻の死去した後も再婚することはなく、寵愛する妾はいたものの、その子を育てなかったという。当时は慎重な行いと褒められた[17]

公式の場で弟の諸葛亮と面会することも多かったが、会談を終えても私的に会う事は無かった。蜀には弟の諸葛亮、魏には一族の諸葛誕がそれぞれ名声高く重職を占めていたため、天下の評判を博したという。世間では「蜀はその龍(諸葛亮)を得、呉はその虎(諸葛瑾)を得、魏はその狗(諸葛誕)を得たり」と評されたという[18]

子孫

子の諸葛恪は、名は当世に盛んで、孫権は深くこれを器異としたが、諸葛瑾は常にこれを嫌い、家を保つ子ではないと謂った。諸葛恪は既に功績を上げ爵位を得ていたので、諸葛瑾の爵位は諸葛融が継承し、公安の督の任務も引き継いだ。

諸葛瑾が大将軍となった時、既に諸葛恪と諸葛融は兵の指揮を執る立場に成長していたが、諸葛恪が驕慢になり建興2年(253年)に誅殺されると、諸葛融も公安で追討軍に包囲され自害し、諸葛瑾の子孫は悉く滅ぼされた。諸葛喬の子の諸葛攀だけが蜀にいたため生存し、その後諸葛瑾の子孫として身分を回復する、呉に呼び戻されて、家の再興が許されたという。諸葛攀の子の諸葛顕は蜀に残り、蜀の滅亡後に諸葛京らとともに河東へ移住している。

一族

先祖や諸葛姓の由来については、諸説あり明確ではない。前漢諸葛豊の子孫であるといわれる。父は諸葛珪、叔父に諸葛玄がいる。子には諸葛恪諸葛喬諸葛融がいる。同母弟は蜀漢丞相諸葛亮で、次男の諸葛喬は諸葛亮の養子となっている。系図も参照。

三国志演義

小説では謀略と観察眼を兼備しており、知将としての一面を垣間見せている。魯粛の推薦で孫権に仕える(正史では孫権の姉婿である弘咨という人物に才を見出され、孫権に推挙された。孫権は諸葛瑾と魯粛を同時起用した)。合肥の戦いで諸葛瑾が張遼の待ち伏せ攻撃であると見抜いたが 、太史慈が諸葛瑾の忠告に聞き入れず、戦死した。荊州の領有などを巡って、孫権の使者として劉備や関羽との交渉に当たった。後に曹操の使者は呉に行き、孫権に、荊州の関羽を連合で攻撃することを要請した。孫権は臣下に相談し、諸葛瑾は「関羽は荊州出身の女子を娶り、妻との間に最初に息子を授かり、後に娘を授かりました。しかしその娘はまだ幼く、婚約者もおりません。主君の若君の縁組を結んでくるので、関羽が承知すれば曹操を破り、承知しなければ曹操と結ぶのがよいでしょう」と進言した。孫権はこの策略を受け入れ、諸葛瑾を荊州へ使者として遣わした。麦城の戦いで関羽に降伏を勧告した。夷陵の戦いの直後、曹丕が呉を攻めた際、曹真と夏侯尚の軍勢を陸遜(正史では朱然)と共に挟撃して撃退した。

家系図

諸葛豊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛珪諸葛玄龐徳公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛瑾諸葛亮諸葛均
 
龐山民龐統龐林諸葛誕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛恪諸葛喬諸葛融諸葛瞻諸葛懐諸葛望龐宏諸葛靚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛攀諸葛尚諸葛京諸葛質諸葛恢
 
 
諸葛顕

参考文献

脚注

  1. ^ 三国志』呉志 歩騭伝 が引く『呉書
  2. ^ 江表伝
  3. ^ 『三国志』呉志 呉主伝
  4. ^ 『江表伝』
  5. ^ 呉録』・『三国志』呉志 潘璋
  6. ^ 『三国志』魏志 董昭伝・夏侯尚
  7. ^ 『呉録』
  8. ^ 『三国志』魏志 明帝
  9. ^ 『三国志』蜀志 諸葛亮伝
  10. ^ 『三国志』呉志 陸遜
  11. ^ 『三国志』呉志 呉主伝
  12. ^ 『三国志』呉志 周瑜
  13. ^ 『三国志』呉志 呉主伝
  14. ^ 『三国志』呉志 呉主伝
  15. ^ 『江表伝』
  16. ^ 『三国志』呉志 歩騭伝
  17. ^ 『呉書』
  18. ^ 世説新語