諸葛顕
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諸葛 顕(しょかつ けん、生没年不詳)は、中国三国時代の蜀漢、のちに東晋の人物。益州の出身で、本貫は徐州琅邪郡陽都県。曽祖父は諸葛瑾。祖父は諸葛喬。父は諸葛攀。
生涯
[編集]祖父の諸葛喬は、孫呉に仕えた諸葛瑾の子であったが、いまだ子の産まれていなかった蜀漢の諸葛亮の養子となり、以降蜀漢に仕えた。父の諸葛攀は、叔父の諸葛恪の一族が処刑されたために、諸葛瑾の家を継ぐために呉に帰ったが、諸葛顕は蜀に残った。景元4年(263年)に蜀が滅びると、翌年に諸葛京と共に河東に移った。
その後長く事跡は不明だが、後年に東晋の王羲之と建康で面会した。王羲之に蜀中の事を問われ、「成都の城壁や濠、城門や建物、高楼等は全て秦の時代に司馬錯が築いたものである」[1]と答える様が『十七帖』に残っており、河東に移った諸葛顕が、八王の乱や永嘉の乱の兵禍を逃れて江南に安住したことが分かる。
家系図
[編集]諸葛豊 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
? | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
諸葛珪 | 諸葛玄 | 龐徳公 | ? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
諸葛瑾 | 諸葛亮 | 諸葛均 | 女 | 龐山民 | 龐統 | 龐林 | 諸葛誕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
諸葛恪 | 諸葛喬 | 諸葛融 | 諸葛瞻 | 諸葛懐 | 諸葛望 | 龐宏 | 諸葛靚 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
諸葛攀 | 諸葛尚 | 諸葛京 | 諸葛質 | 諸葛恢 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
諸葛顕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 往在都 見諸葛顕 曽具問蜀中事 云「成都城池、門屋楼観、皆是秦時司馬錯所修」
参考文献
[編集]- 『三国志』諸葛亮伝
- 『十七帖』王羲之