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江戸時代初期の京文化(「[[稲庭うどん]]」から「[[京焼]]」のルーツまで)はもとより、政治・経済を知る上で貴重な資料となる『[[隔蓂記]]』を記した。 |
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2020年8月17日 (月) 10:05時点における版
鳳林 承章(ほうりん じょうしょう、文禄2年1月22日(1593年2月23日) - 寛文8年8月24日(1668年9月30日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての臨済宗の僧。
経歴
准大臣・勧修寺晴豊の六男。母は、刑部卿兼陰陽頭・土御門有脩の娘。兄弟に、権大納言・勧修寺光豊、蔵人頭・甘露寺経遠、参議・坊城俊昌、右京亮・阿部致康など。
禅僧となり、北山鹿苑寺(金閣寺)住持となる。寛永2年(1625年)、万年山相国寺に入り、のちに第九十五世と昇る。
後水尾上皇の出家に際し「唄師」を務め、その後も上皇との親交を深めた。
江戸時代初期の京文化(「稲庭うどん」から「京焼」のルーツまで)はもとより、政治・経済を知る上で貴重な資料となる『隔蓂記』を記した。