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幼少の頃から新潟町で育ち、寺の住職に[[書道|書]]の手ほどきを受けた。母親が他界した後、19歳で[[江戸]]へ行き、書家の[[亀田鵬斎]]に師事して書と[[詩]]を学んだ。以後、[[楷書体|楷書]]を[[欧陽詢]]・[[褚遂良]]、[[行書体|行書]]を[[李邕]]・[[王羲之]]、[[草書体|草書]]を『[[賀知章#孝経|孝経]]』・『[[孫過庭#書譜|書譜]]』・『[[王羲之#十七帖|十七帖]]』・『[[李懐琳#絶交書|絶交書]]』、[[隷書体|隷書]]を『[[隷書体#曹全碑|曹全碑]]』に範をとり、[[東晋|晋]][[唐]]以前の[[書法]]に傾倒した。 |
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29歳の時、『十体源流』を著し、[[日本の私塾一覧|書塾]]「蕭遠堂」を開く。53歳の時、[[近衛家]]にあった賀知章の『孝経』を見て驚倒したという。[[漢詩]]も能くし、酒を好み、天保14年(1843年)67歳で没した。 |
29歳の時、『十体源流』を著し、[[日本の私塾一覧|書塾]]「蕭遠堂」を開く。53歳の時、[[近衛家]]にあった賀知章の『孝経』を見て驚倒したという。[[漢詩]]も能くし、酒を好み、天保14年(1843年)67歳で没した。 |
2020年8月17日 (月) 07:30時点における版
巻 菱湖(まき りょうこ、安永6年(1777年) - 天保14年4月7日(1843年5月6日))は、江戸時代後期の書家。越後国巻(現在の新潟市西蒲区)に生まれる。姓は池田、後に巻を名襲名。名は大任、字は致遠または起巌、菱湖は号で、別号に弘斎。通称は右内と称した。
業績
明治政府及び宮内庁の官用文字・欽定文字は御家流から菱湖流に改められ、菱湖の門下生は1万人を超えたと伝えられている。市河米庵、貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と並び称された。石碑の揮毫も手がけており、現在全国に30基ほどの石碑が確認されている[1]。
略歴
幼少の頃から新潟町で育ち、寺の住職に書の手ほどきを受けた。母親が他界した後、19歳で江戸へ行き、書家の亀田鵬斎に師事して書と詩を学んだ。以後、楷書を欧陽詢・褚遂良、行書を李邕・王羲之、草書を『孝経』・『書譜』・『十七帖』・『絶交書』、隷書を『曹全碑』に範をとり、晋唐以前の書法に傾倒した。
29歳の時、『十体源流』を著し、書塾「蕭遠堂」を開く。53歳の時、近衛家にあった賀知章の『孝経』を見て驚倒したという。漢詩も能くし、酒を好み、天保14年(1843年)67歳で没した。
菱湖流
菱湖は篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名のすべてに巧みで、特に楷書を得意とした。平明で端麗な書体は、千字文などにより、世に広く書の手本として用いられ、「菱湖流」と呼ばれた書風は幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えた。
菱湖書体
現在でも将棋の駒においては、銘駒と呼ばれる書体の1つが菱湖体である。タイトル戦などで使用される高級な駒などによく用いられており、中原誠などこの書体を好む棋士も多い。なお、菱湖自身が駒の書体を確立したわけではなく、大正時代頃に将棋の専門棋士で、坂田三吉の弟子だった高濱禎(たかはま てい)が菱湖の書体を駒字に作り替えたものである。
門弟
門弟に菱湖四天王(萩原秋巌・中沢雪城・大竹蒋塘・生方鼎斎)や巻鴎洲(-おうしゅう、1814年 - 1869年)、中根半仙などがある。鴎洲は菱湖の子で、優れた才能を持ちながら病弱のため早世した。巻菱潭(-りょうたん、1846年 - 1886年)は鴎洲の門人で、鴎洲没後、養子となり跡をついだ。[2]
脚注
参考文献
- 「図説日本書道史」(『墨スペシャル』第12号 芸術新聞社、1992年7月)
- 藤原鶴来 『和漢書道史』(二玄社、2005年8月)ISBN 4-544-01008-X
- 飯島春敬 『書道辞典』(東京堂出版、1975年4月)
- 林淳 『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』(勝山城博物館 2017年4月)
関連項目
外部リンク
- 巻菱湖記念時代館(運営元の養玲社は印刷物を対象として「巻菱湖」を商標登録している(登録番号第4754786号))
- 駒の詩 書体への誘い2~菱湖