中沢雪城
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中沢 雪城(なかざわ せつじょう、文化7年(1810年)[1] - 慶応2年2月1日(1866年3月17日))は、江戸時代後期に活躍した書家。名は俊卿、字は子国、通称を行蔵という。雪城は号で雪生とも号した。堂号は蕭間堂。
業績
[編集]巻菱湖(幕末の三筆の一人)の高弟で、流麗な書風をもって大いに流行し、菱湖四天王の一人に数えられた[2]。雪城の門下から巖谷一六・西川春洞・金井金洞の大家が輩出した。
略歴
[編集]越後長岡(現在の新潟県長岡市)藩士・中沢俊福の二男として生まれた。天保7年(1836年)巻菱湖の門に入り、よく師風を継いだ。資性は豪放磊落であったという。三重県津藩の藤堂侯に仕え、両国薬研堀(現在の東日本橋)に住した。肥前蓮池藩主・鍋島直与からも目をかけられ、天保10年(1839年)10月に同藩の江戸藩邸に招かれたほか、弘化2年(1845年)9月には蓮池を訪れ直与に対面を果たしている。安政4年(1857年)49歳のとき、斎藤拙堂と『三体筆陣雋語』(さんたいひつじんしゅんご)を著し、慶応2年(1866年)57歳で没した。
菱湖四天王の中では萩原秋巌に次いで手がけた石碑の数が多く、全国に28基を確認できる[3]。
師弟関係
[編集]→詳細は「日本の漢字書家一覧」を参照
参考文献
[編集]- 西川寧ほか 「書道辞典」(『書道講座』第8巻 二玄社、1969年7月)
- 飯島春敬ほか 『書道辞典』(東京堂出版、1975年4月)
- 林淳 『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』(勝山城博物館 2017年4月)
- 小松茂美 『二玄社版 日本書道辞典』(二玄社、新版2011年(初版1987年))ISBN 978-4-544-01226-2
脚注
[編集]- ^ 文化5年生まれとする資料もあるが、雪城自身の墓にある記載からは文化7年生まれとなる。林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』勝山城博物館 2017年 P10
- ^ 小松 p.328
- ^ 林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「中沢雪城石碑一覧表」(勝山城博物館 2017年)