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「春秋時代」の版間の差分

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文公と前後して活躍したのが、西の大国・秦の[[穆公 (秦)|穆公]]である。穆公は西の[[西戎|戎]]と戦って勝利し、[[百里奚]]などの他国出身者を積極的に起用し、小国を併合して領土を広げた。また驪姫の乱で混乱した晋に[[恵公 (晋)|恵公]]を擁立し、後に恵公が背信を繰り返すとこれを韓の地で大破し、その死後、今度は恵公の兄を即位させ晋の文公とした。秦の穆公と晋の文公の関係は良好であったが、文公の死後に再び両国の関係は悪化し、穆公はまたもや晋を大いに破っている。だが穆公死去後、家臣のほとんどが[[殉死]]したため秦は大きく後退した。
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次に覇権を握るのが、南の大国・楚の[[荘王 (楚)|荘王]]である。もともと周から封建された国ではなく、実力により[[湖北省|湖北]]・[[湖南省|湖南]]を押さえて立国した経緯の為、王として認知されていなかった。のちに子爵の位を周より授かったが、国力に対して位が低すぎるとして自ら王を名乗るようになったのである。荘王は今まで朝廷にはびこっていた悪臣たちを一挙に排除し、有能な人材を登用した。国内を治めた荘王は豊富な兵力をもって北上して周辺の小国を威服させ、洛陽近くで大閲兵式を行って周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋軍を[[ヒツの戦い|邲]](ひつ)で大破した。この勝利により中原の小国は楚に服従した。
次に覇権を握るのが、南の大国・楚の[[荘王 (楚)|荘王]]である。もともと周から封建された国ではなく、実力により[[湖北省|湖北]]・[[湖南省|湖南]]を押さえて立国した経緯の為、王として認知されていなかった。のちに子爵の位を周より授かったが、国力に対して位が低すぎるとして自ら王を名乗るようになったのである。荘王は今まで朝廷にはびこっていた悪臣たちを一挙に排除し、有能な人材を登用した。国内を治めた荘王は豊富な兵力をもって北上して周辺の小国を威服させ、洛陽近くで大閲兵式を行って周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋軍を[[の戦い|邲]](ひつ)で大破した。この勝利により中原の小国は楚に服従した。


=== 中期・小国外交の時代 ===
=== 中期・小国外交の時代 ===

2020年8月17日 (月) 04:18時点における版

春秋時代の諸国

春秋時代(しゅんじゅうじだい)(中国語: 春秋時期拼音: Chūnqiū shíqī)は、古代中国における周王朝の後半期に位置する時代であり、が東西に分裂した紀元前770年から、現在の山西省一帯を占めていた大国「」が三国に分裂した紀元前5世紀までの、およそ320年に渡る期間を指す。この春秋時代の呼称は、周代に成立した儒家経典の一つである歴史書「春秋」から取られている。

紀元前771年に発生した反乱から周王朝は東周洛邑)と西周鎬京)に分裂し、その二十年後に東周が西周を下して王権を一本化するも往年の勢力はほぼ失われていた。周王朝の下での秩序が喪失した事で、中国全土に割拠する大小合わせて二百以上の諸侯は独立状態となり、自国の存続と他国の克服を目指して互いに争うようになった。なお、周王の権威は依然重視されていたので、周王の名代として諸国を束ねる「覇者」の座に就く事が諸侯たちの目標となった。

春秋時代と戦国時代を合わせて春秋戦国時代と一括して扱われる事も多い。洛邑を都にした紀元前770年以降の周王朝を東周と呼ぶ事から東周時代とも別称される。春秋時代と戦国時代の境目を何時とするかには諸説あり、が三国に分裂した紀元前453年か、その三国が正式に諸侯となった紀元前403年とするのが最も広く採用されている。

概略

前期・覇者の時代

春秋時代概念地図

自らの悪政により、不満を募らせた諸侯に背かれた周の幽王が、紀元前771年に殺されると、翌年に幽王の息子は武公らの力を借りて洛邑に周を再興する。これが平王であり、以降の周は東周と呼ばれ、これからが春秋時代の始まりである。

周の東遷に大きく貢献した鄭の武公はこの後、権勢を振るったが、大きすぎる功績により周王から、かえって疎んじられた。武公の子の荘公の代で、周の桓王による討伐を受けるも、撃退に成功した(繻葛の戦い)。この時に追撃するべきとの家臣の言葉に荘公は「天子に対してそのようなことは良くない」と答えた。この逸話は、周王の大幅な権威失墜を表す一方、それでも諸侯は周王への敬意を未だ抱いていたことも表している。ただ、その鄭の国威も荘公以降はあまり振るわなくなる。鄭は王室の卿士(王室直属)の家柄であったが、その統治所領は狭く、国力自体は中の下という程度であった為である。一方、周の東遷後も周王に対して敬意を払ってきた諸侯は、周王が一諸侯である鄭公に敗北した現実を目の当たりにして独自の政治的・軍事的動きを始めるようになった。現在の湖北省随州市付近にあった中国語版の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている[1]。さらに周王室内では幾度も王位継承争いが発生し、周の力は弱体化していった[2]

鄭に代わって覇権を握るのが東方の大国・である。周建国の大功臣・太公望を始祖とする斉は東の未開地帯を大きく広げ、国力を充実させていた。14代目襄公の死後に後継争いで国内が混乱するが、内乱を収めた桓公とその宰相管仲の活躍により、大きく飛躍する。当時、南方で周辺小国を呑み込んでいた新興国・が大きく勢力を伸ばし、さらに中原の小国への侵攻の気配を見せていた。本来頼るべき周は小さくなった王室の中でなお権力争いを続けている有様であり、楚の威圧に怯えた小国は仕方なく服従していた。しかし斉に桓公が登場し、楚に対抗したことでこれら小国は斉に助けを求めるようになった。楚と対決した桓公は、召陵において楚の周に対する無礼を咎め、楚の侵攻を抑えた。これにより諸侯間の盟主と成った桓公は、紀元前651年に葵丘(現在の河南省商丘市民権県)において会盟を開き、周王に代わって諸侯の間の取り決めを行った。この業績により桓公は覇者と呼ばれ、春秋五覇の第一に数えられる。もっとも、斉の覇権は中原を中心とした黄河流域に留まり、敗れたとはいえ楚が長江流域に勢力圏を形成するのを止める力はなく、以後も中原の最大勢力(斉・宋・晋)と南方の楚の争いは続くことになる。

しかし管仲の死後、人が変わったように堕落した桓公により国政は乱れ、さらに桓公死後の後継争いで斉は一気に覇権の座から転落した。これに代わって覇者になろうとしたのが襄公である。の遺民たちの国で、国力は中程度という宋だったが、襄公は桓公の後を継いで天下を治めんという高い志を抱いていた。まず斉の後継争いに介入、元より太子とされて宋に預けられていた昭を位に就けて孝公とした。さらに諸侯の盟主となるべく盂(現在の河南省商丘市睢県)にて会盟を開いた。しかし、この会盟で宋に主導権を握られることを嫌っていた、参加国の楚の重臣に監禁されてしまった。襄公はいったん帰国して楚と決戦に及ぶ(泓水の戦い)が、敵に情けをかけた結果大敗(宋襄の仁)し、覇権の獲得は成らなかった。

桓公に続く第二の覇者となるのが北の大国・文公である。晋は武公献公の2代に亘って周辺諸国を併合して大きく伸張したが、献公の愛妾・驪姫が起こした騒動により、文公たち公子は国外へ逃亡した。文公は異国にあること10数年に亘り、苦労の果てに隣国・の助力を借りて晋公の座に就いた。君主に就いた文公は後に周王室の内紛を収め、楚との城濮の戦いで大勝し、践土(現在の河南省新郷市原陽県)に周の襄王を招き、会盟を開いて諸侯の盟主となった。文公は桓公と並んで春秋五覇の代表であり、斉桓晋文と称される。

文公と前後して活躍したのが、西の大国・秦の穆公である。穆公は西のと戦って勝利し、百里奚などの他国出身者を積極的に起用し、小国を併合して領土を広げた。また驪姫の乱で混乱した晋に恵公を擁立し、後に恵公が背信を繰り返すとこれを韓の地で大破し、その死後、今度は恵公の兄を即位させ晋の文公とした。秦の穆公と晋の文公の関係は良好であったが、文公の死後に再び両国の関係は悪化し、穆公はまたもや晋を大いに破っている。だが穆公死去後、家臣のほとんどが殉死したため秦は大きく後退した。

次に覇権を握るのが、南の大国・楚の荘王である。もともと周から封建された国ではなく、実力により湖北湖南を押さえて立国した経緯の為、王として認知されていなかった。のちに子爵の位を周より授かったが、国力に対して位が低すぎるとして自ら王を名乗るようになったのである。荘王は今まで朝廷にはびこっていた悪臣たちを一挙に排除し、有能な人材を登用した。国内を治めた荘王は豊富な兵力をもって北上して周辺の小国を威服させ、洛陽近くで大閲兵式を行って周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋軍を(ひつ)で大破した。この勝利により中原の小国は楚に服従した。

中期・小国外交の時代

春秋時代の諸国

この邲の戦い以降は諸侯同士の争いは少なくなる。その理由は、諸侯の下にいた大夫(たいふ)・士(し)と呼ばれる中級から下級の貴族階級が勃興して、彼らに諸国の実権が移り、他国との争いよりも国内での同格の貴族たちとの争いに忙しくなったからである。

これら諸国の実権を握った貴族としては、晋の六卿、斉の六卿、魯の三桓、鄭の七穆などがいる。彼らは互いに争うこともあれば、同盟を結んで他の貴族と対立することもあり、時には君主とも対立し、君主を殺害するようなこともあった。これらの現象は伝統的な身分体制の崩壊も表している。この時期に儒教を起こした孔子もこのような伝統体制の崩壊に対する憤慨がその学の源となったと考えられている。

こういった背景から国同士の対立をあまり望まれなくなり、紀元前546年に弭兵の会が晋と楚の間で行われた。弭兵(びへい)とは戦いを止めるということである。

貴族たちの伸張はそれまであまり国政の座に就くことのなかった出自の者たちを国政の舞台に押し上げ、この時期には名宰相と呼ばれる者が多く出る。代表的なものに斉の晏嬰・鄭の子産・晋の羊舌肸などがいる。また大国同士が直接ぶつかりあうことが避けられたため、鄭の子産や魯の孔子などの活躍する小国外交が活発になった。子産は中国初の成文法を制定したことで有名である。この子産の行動についても、法律はそれまで上流階級の中で暗黙の了解で行われていたが、新しく勃興してきた層階級の人間たちにはそれが不満であったので、法律を形に残るようにしなければいけなくなったと考えられる。

この頃になると君主は貴族たちの顔色を窺わなければ立ち行かなくなり、斉ではかつてより亡命してきた田氏の力が非常に大きくなり、楚では有力貴族と王族との争いで国政は混乱した。

後期・呉越抗争

春秋時代の諸国

一方、南の長江流域ではという2つの新興勢力が興っていた。呉は闔閭夫差の2人の君主と名臣孫武伍子胥、越は君主勾践と名臣范蠡の力により急速に勢力を拡大した。呉は楚の首都を陥落させ、滅亡寸前に追い込むほどの力を見せる。さらに越を撃破して服属させ、黄河流域に進出して諸侯の盟主の座を晋と争った。しかし、一旦屈服した越の入念な準備に基づいた反撃により、呉は滅亡する。越も勾践の死後は振るわず、後に楚に滅ぼされた。

完全な異民族が中原の覇者となったことで周王朝を中心とする秩序が無意味化したこと、呉越は製鉄の先駆地でこの頃から本格的に鉄器時代に入ること等から、呉越抗争の直後から戦国時代とする説もある。

また晋では、紀元前453年に智氏が魏・韓・趙の3氏の連合により滅ぼされる(晋陽の戦い)。智氏の旧領を分け取りにしたことでさらに力をつけた3氏はそれぞれの国を建てた。この3つを合わせて三晋とも呼ぶ。その後、魏・韓・趙の三国は紀元前403年に周王室より正式に諸侯として認められた(もっとも、この段階では晋も小諸侯に没落した形で紀元前376年まで存続している)。この時点をもって春秋時代は完全に終わり、戦国時代に入る。

前後して、斉ではほぼ完全に田氏に国政を牛耳られ、紀元前386年田和により簒奪され、太公望以来の斉は滅びた。これ以降の斉をそれまでと区別して田斉とも呼ぶ。

軍制・戦

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春秋時代は「宗法」に基づく軍制が基本で、一軍を12,500人として、大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍と定められており、これを大きく抜き出ることはなかった。三軍を有したのはぐらいのもので、しかも斉の場合は一軍は1万人の兵を指している。六軍を有してよいのは周王だけだが、は春秋時代から急速に衰え六軍は形成できなかった。晋では文公の時、新たに三軍を加え六軍としたがほどなく廃止されている。

軍が巨大化しなかったのは、周王を形式上尊ぶことから「宗法」を遵守したこと、この頃まだ鉄は使われておらず武器の質が低かったこと、鉄製農具がなく生産性が低いため人口も次の戦国時代よりかなり少なく、長期間の戦争は著しく国力を減退させることなどが挙げられる(は戦国時代から使われ出す)。

この頃の主な戦争は兵車戦であり、騎馬はほぼ存在しなかった。この頃の中華思想は、車(馬車・兵車)という高等な乗り物を使用するのが中華圏の人であり、馬に直に騎乗するのは狄戎(異民族)と変わりがないと思われていた。大夫は兵車に乗り戦争指揮をし、兵車を核として歩兵を配置した。

また、まだこの時代は戦を前にして占いをする風習も残っていた。

春秋時代以降見られない戦争形式が、この時は見受けられる。つまり、野天での開戦時に一方の使者が相手陣地に乗り込み、戯言を言う・武勇を示すといったことをする。相手方がこの戯言に戯言で返答する、または武勇を示した相手を追いかけ出したら戦争開始となった。これは、この時代中期まではしっかりと見られ、奇襲は非礼とされていた。

それに、この時代特有の光景も見られる。たとえば、「鄢陵の戦い」でのことである。晋の大夫・郤至が敵国である楚の共王を発見した。郤至は共王を見ると兵車を降り、冑を脱ぎ、走り去った。共王は好感を抱き郤至に弓を贈らせたが、受け取らず自分の無事を告げて粛という礼を3回した。また、晋の君主厲公の車右である欒鍼は、敵軍の子重(公子嬰斉)の旗を見つけると、晋軍の勇を見せるため厲公に頼み込み酒樽を送ってもらった。という風に「礼」を重んじた戦が展開されたのがこの時代である。戦国時代からは、この光景は見られず戦における「礼」は消失した。

脚注

  1. ^ 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』中公新書 2016年 ISBN 978-4-12-102396-4 p.146
  2. ^ 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.166-169

関連項目