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2020年8月16日 (日) 15:22時点における版

ジェノヴァと軍港ラ・スペツィア(2004年時点) 両都市を含むリグーリア州はイタリア北西部に広がり、フランスとも接している

グロッグ作戦 (Operation Grog) は第二次世界大戦中の1941年2月9日に実施されたイギリス海軍H部隊による軍港ジェノヴァを中心としたイタリア本土への攻撃である。1940年の連合国とイタリア艦隊間のカラブリア沖海戦、イギリス海軍によるイタリアの港湾攻撃タラント空襲の結果、イタリア海軍は消極的になっていた。また、1940年にフランス海軍による成功例もあったので、可能と思われた[要出典]

この作戦よりも少し前にジェノヴァ攻撃であるリザルト作戦 (Operation Result) とその牽制作戦のサルデーニャ島のダム攻撃であるピケット作戦 (Operation Picket) が実行されたが、前者は天候不良のため中止されていた。

グロッグ(Grog)とはイギリス海軍が船員に支給していたラム酒水割りである。

背景

リザルト作戦とピケット作戦

1941年1月31日、イギリス艦隊は以下の3つのグループでジブラルタルから出撃した[1]

出撃後、グループ2およびマレーヤとその護衛のエンカウンターとジュピターは分離され、それぞれの合流地点へ向かい、残りのアーク・ロイヤル以下の艦艇はサルデーニャ島のティルソダムに対する攻撃隊の発進場所へと向かった[1]

2月2日、アーク・ロイヤルから魚雷を搭載したソードフィッシュ雷撃機8機が発進しダム攻撃へと向かったが、悪天候のため攻撃は失敗に終わり、ダムに命中した魚雷は無かった[1]。また、対空砲火により1機が撃墜された[1]

攻撃隊の収容後、マレーヤと合流してリザルト作戦の実行に向かったが、悪天候のため駆逐艦では被害も出始め[1]、グループ2と合流後艦隊は反転し2月4日にジブラルタルに帰投した[2]

実施されなかったジェノヴァへの攻撃はグロッグ作戦として数日後に再び実行に移された。

グロッグ作戦

2月6日、部隊は二つに分かれて再び出撃、洋上で合流して発見されないようにしながらジェノヴァへ向かった(グロッグ作戦)。2月9日早朝、アーク・ロイヤルから攻撃隊が発進した。攻撃隊はリヴォルノピサを攻撃しラ・スペツィア港入り口に機雷を投下した。7時14分、ジェノヴァ沖に到達した戦艦マレーヤ、巡洋戦艦レナウンはジェノヴァ砲撃を開始した。さらに軽巡洋艦シェフィールドも砲撃に参加し、3隻はドックや造船所などを砲撃した。1時間半にわたる攻撃後部隊は退避を開始した。この砲撃で5隻の船が沈み、18隻が損傷した[3]。人的被害は死者144人[3]、負傷者272人であった。このときジェノヴァでは戦艦「カイオ・ドゥイリオ」の修理が行われていたが、そちらには被弾は無かった[4]

2月8日にバレアレス諸島の南で空母から発進したはずのイギリス戦闘機の目撃情報があり、イギリス艦隊は未発見であったがイタリア海軍はイギリス艦隊が出撃中であると判断して[5]ラ・スペツィアメッシーナからイアッキーノ提督率いる艦隊を出撃させた[6]。ラ・スペツィアからは戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」、「カイオ・ジュリオ・チェザーレ」、「アンドレア・ドーリア」と駆逐艦8隻が、メッシーナからは重巡洋艦「トレント」、「トリエステ」、「ボルツァーノ」と駆逐艦2隻が出撃した[6]。両部隊は2月9日朝にボニファシオ海峡の西で合流した[7]。ジェノヴァ砲撃の報とイギリス艦隊の帰路を遮断せよとの命令は遅れて届き、それまでイアッキーノは敵がいると考えた南西へと向かっていた[8]。命令を受け取るとイタリア艦隊は北上し、カップ・コルスの西に空母を発見との報告が届くとそちらへと向かった[8]。しかしこれは誤報で実際はフランスの船団であり[8]、攻撃直前になってイタリア側はそれに気づいた[4]。その後、実際にイギリス艦隊が通ったフランスのプロヴァンス沿岸へ向かうも、すでに手遅れであった[4]

H部隊は2月11日にジブラルタルに帰投した。イギリス側の損害はソードフィッシュ1機のみであった。

脚注

  1. ^ a b c d e The Battle-Cruiser HMS Renown 1916-1948, p.121
  2. ^ The Battle-Cruiser HMS Renown 1916-1948, p.122
  3. ^ a b The Naval War in the Miditerranean, p.137
  4. ^ a b c The Italian Navy in World War II, p.67
  5. ^ The Italian Navy in World War II, p.64
  6. ^ a b Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.58
  7. ^ The Italian Navy in World War II, pp.64-66
  8. ^ a b c The Italian Navy in World War II, p.66

参考文献

  • Peter C. Smith, The Battle-Cruiser HMS Renown 1916-1948, Pen & Sword Maritime, 2011, ISBN 978-1-84884-520-6
  • Marc'Antonio Bragadin, The Italian Navy in World War II, 1957, Naval Institute
  • Jack Greene and Alessandro Massignani, The Naval War in the Miditerranean, Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2
  • Jurgen Rohwer, Chronology of the War at Sea 1939-1945, Naval institute press, 2005, ISBN 1-59114-119-2

関連項目