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MC4作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

MC4作戦(MC4さくせん)は、第二次世界大戦地中海攻防戦英語版において、1941年(昭和16年)1月上旬に連合国軍地中海で実行したギリシャ英領マルタ英語版への補給作戦英語版[1]。 エクセス船団 (Convoy Excess) 、MW5 1/2船団、ME5 1/2船団、ME6船団の護衛が含まれる。エクセス作戦 (Operation Excess) と呼ばれることもある[2]。 本作戦では、ドイツ空軍 (Luftwaffe) が初めて地中海戦域に登場した[3]第10航空軍団に所属するJu-87 スツーカ (Junkers Ju 87 Stuka) の急降下爆撃により1月10日イギリス軍装甲空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) が撃破され、11日に軽巡サウサンプトン (HMS Southampton, C83) が沈没する[4][5]。 さらに枢軸国空軍がマルタ島に空襲を敢行した[6][注釈 1]。 連合国軍は航空戦で損害を受けつつも、作戦目標を達成した。

背景

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1940年(昭和15年)10月下旬[8]イタリア王国ギリシャに侵攻によりバルカン戦線が形成された[9][10]。イギリス海軍がギリシャへの増援輸送を開始したので、イタリア王立海軍 (Regia Marina) は主力艦イタリア半島南部のターラントに集結させて存在感を示す(現存艦隊主義)。 そこをイギリス地中海艦隊の装甲空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) が襲撃し[11]11月11日深夜から12日未明にかけてのタラント空襲[12]、イタリア戦艦3隻を一挙に戦闘不能とする[13][注釈 2]。地中海の戦力バランスは連合国軍側に傾き、制海権はイギリス海軍の手中にあった[15][注釈 3]

イタリア王立空軍 (Regia Aeronautica) も地中海の制空権を握っておらず、同盟国を支援するためドイツ空軍 (Luftwaffe) が助っ人として登場した[3]ハンス・ガイスラー中将が率いる第10航空軍団英語版ドイツ語版[注釈 4]、1940年末にシチリア島の航空基地に展開を完了した[5][注釈 5]。第10航空軍団の主任務は、イラストリアス撃沈であったという[18]

輸送船団

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1941年(昭和16年)1月上旬、ジブラルタルアレクサンドリアからマルタ島エーゲ海にむけて、複数の船団が出発することになった[1]。ジブラルタル発のMC4船団のうち、輸送船エセックス (Essex) はマルタへ、輸送船クラン・カミングス (Clan Cumming) 、クラン・マクドナルド (Clan MacDonald) 、エンパイア・ソング (Empire Song) はギリシャのピレウスにむかう[19]。 MC4船団をF部隊 (Froce F) の護衛艦艇(軽巡ボナヴェンチャー、駆逐艦ジャガーヒーローヘイスティヘレワード)が直接護衛する。 間接支援として、サマヴィル中将が指揮するH部隊 (Froce H) がついていた[20]。その戦力は、巡洋戦艦レナウン (HMS Renown) 、戦艦マレーヤ (HMS Malaya) 、空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) 、軽巡洋艦シェフィールド (HMS Sheffield, C24) 、駆逐艦複数隻であった[注釈 6]

これと同時にアレクサンドリアからもマルタ行きの船団(MW5 1/2船団)輸送船ブレコンシャー (Breconshire) 、クラン・マッコリー (Clan Macaulay) が出発し、同地を根拠地とする地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) も護衛のために出撃した[20]。直接護衛部隊としてC部隊 (Force C) の3隻(軽巡カルカッタ、駆逐艦ディフェンダーダイアモンド)が付随する。 地中海艦隊司令長官カニンガム提督は戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) に将旗を掲げ、同提督が直接指揮するA部隊 (Force A) は、Q.E級戦艦2隻(ウォースパイト、ヴァリアント)と装甲空母イラストリアス[21]および駆逐艦複数隻(ヌビアンモホークデインティギャラントグレイハウンドグリフィンジャーヴィス)から成る[22]

B部隊 (Force B) の軽巡2隻(グロスターサウサンプトン)と駆逐艦2隻(アイレクスジェーナス)は先行してマルタ輸送を行ったあと、シチリア海峡でエクセス船団と合流予定である[22]。他に軽巡エイジャックス (HMS Ajax, 22) やパース (HMAS Perth, D29) 、駆逐艦スチュアート (HMAS Stuart) なども合流する手筈であった[22][注釈 7]

空母イーグル (HMS Eagle) と随伴駆逐艦は、ドデカネス諸島の爆撃をおこなって作戦を支援する[22]

荷役終了後、空船となってマルタで待機中の輸送船団もあった。

作戦経過

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1941年(昭和16年)1月6日、MC4船団はジブラルタルを出発した。陽動で大西洋に出たあと、反転して地中海を東進し、マルタへむかう。イタリア王立海軍アデュア級潜水艦2隻(アダラム英語版イタリア語版アスクム英語版イタリア語版)が攻撃に向かったが、連合軍船団を発見できなかったという[23]

1月7日[20]、カニンガム提督が指揮する地中海艦隊“A部隊”(ウォースパイト、ヴァリアント、イラストリアス、随伴駆逐艦)はエジプトアレキサンドリアを出撃した[24]。A部隊は、マルタ島に向かうMW5船団を護衛する[20]1月9日、マルタ西方で地中海艦隊とH部隊および輸送船団が合流する[25]。アーク・ロイヤルによるソードフィッシュ艦上攻撃機マルタ空輸も完了。H部隊は西進してジブラルタルに戻っていった[23]。MC4船団の上空直衛は、イラストリアスの艦上戦闘機フルマー (Fairey Fulmar) 担当していた[26]

1月10日朝、シチリア海峡でイタリア王立海軍潜水艦ルジェーロ・セッティモ (Ruggiero Settimo) と水雷艇2隻(キルケ―ヴェガ)がエクセス船団を攻撃した。だがH部隊の反撃により、イタリア水雷艇ヴェガ (Vega) が英軽巡洋艦ボナヴェンチャー (HMS Bonaventure, 31) と英駆逐艦ヘレワード (HMS Hereward, H93) によって沈められた[注釈 8][注釈 9]

イタリア水雷艇の攻撃を撃退したあとの午前8時34分、パンテッレリーア島付近で英駆逐艦ギャラント (HMS Gallant, H59) が触雷して航行不能となる[22]。僚艦モホーク (HMS Mohawk, F31) が曳航を開始、マルタにむかう[23]。軽巡3隻(サザンプトン、グロスター、ボナヴェンチャー)が掩護のために輸送船団から離れ、イギリス側の防空能力が低下した[28]

正午以降、シチリア島から飛来した枢軸国空軍機が英地中海艦隊に対する空襲を開始した[29]。12時20分より、イタリア王立空軍のサヴォイア・マルケッティ SM.79(魚雷装備)小数機が攻撃を敢行する[30]。戦艦ヴァリアント (HMS Valiant) は辛うじて魚雷を回避した[28]。直掩のフルマー5機はイタリア雷撃隊を迎撃するため高度を下げ、また空中戦で機銃弾を消耗する[28]。イラストリアスでは、フルマー6機の発艦準備にはいった[28]

第10航空軍団は、第1急降下爆撃航空団英語版第1飛行隊(指揮官ホッツェル大尉)と第2急降下爆撃航空団英語版第2飛行隊(指揮官エンネッツル少佐)を出撃させた[6]。彼等のJu 87シュトゥーカはR型で、搭載量が250kg爆弾1発に制限されたかわりに、燃料タンクの増設により航続距離が延長されていた[31]

12時30分、第10航空軍団のスツーカ 合計43機が英地中海艦隊を捕捉し、10機が英戦艦に、33機がイラストリアスを攻撃する[28]。イラストリアスの直衛機は補給のため母艦に着艦しようと低空に位置し、また直衛機の緊急発進も間に合わず、高度4,000メートルで飛来したドイツ空軍機を阻止できなかった[32]。第10航空軍団は、Ju87を1機喪失した[6]。イギリス側の被害は甚大であった。イラストリアスに爆弾6発が命中し、至近弾は3発であったという[33]。ウォースパイトには爆弾1発が命中したが、右舷艦首の錨だったので損害軽微[34]。ヴァリアントは至近弾を受けた。 イラストリアスは大きな損傷をうけて炎上する[35]。操舵装置も破壊されたが機関は無事であり、退避を開始した[36]。枢軸空軍の第三次攻撃、第四次攻撃は機数が減っていたこともあり、イギリス地中海艦隊に深刻な被害はなかった[37]。同日夜、イラストリアスはマルタに到着した[38]

1月11日朝、第3巡洋艦隊司令官のレヌフ少将 (Edward de F. Renouf) は麾下艦艇(軽巡グロスター〈旗艦〉、サウサンプトン、駆逐艦ディフェンダーダイヤモンド)を率いてマルタのバレッタ港を出発、東進して地中海艦隊との合流を目指した[39]。シチリア島を基地とするスツーカ部隊の行動圏外に出たとイギリス側は思っていたが、第2急降下爆撃航空団第2飛行隊のスツーカ12機はHe-111 (Heinkel He 111) 爆撃機に誘導されてB部隊を捕捉、奇襲をかける[40]。急降下爆撃で軽巡サウサンプトン (HMS Southampton, C83) が大破したあと失われ[注釈 10]、軽巡グロスター (HMS Gloucester, C62) が艦橋への不発弾で小破した[41][38]

ヘルマン・ゲーリング空軍元帥は[38]、修理中のイラストリアスを葬ろうと尽力した[42]。枢軸国空軍の空襲に、第10航空軍団のスツーカも参加した[6]。1月16日、メッサーシュミットに護衛されたJu-87“スツーカ”44機がマルタ島を空襲する[38]。イラストリアスに爆弾が命中した[37]。他にもグランド・ハーバー在泊の輸送船エセックス、軽巡パース (HMAS Perth, D29) が被弾して損傷した[43]18日、スツーカ 51機がマルタの二カ所の飛行場を爆撃し、使用不能とする[37]19日、スツーカ 42機は本命のイラストリアスを襲撃する[37]ハリケーン戦闘機の迎撃もあり[38]、至近弾2発で済んだがスクリューに損傷をうける[37]23日夕刻、護衛部隊や出迎えにきた地中海艦隊と共にマルタを離れ、25日アレクサンドリアに戻ることが出来た[37]

マルタ到着後積荷を下ろした空の船団はME5 1/2船団としてアレクサンドリアに戻った。

前述のように、曳航されてマルタ島に到着した駆逐艦ギャラント (HMS Gallant, H59) であったが、バレッタで修理中の1942年(昭和17年)4月5日に空襲を受け、修理不能と判定されて放棄された。

結果

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エクセス作戦で連合国軍側商船の損失はなかったが、イギリス海軍は巡洋艦1隻と駆逐艦1隻を失い、正規空母1隻が大破して長期修理を余儀なくされた[44]バトル・オブ・ブリテン (Battle of Britain) で連合国軍はドイツ空軍に勝利をおさめたが、この戦闘で、ドイツ空軍とJu-87の脅威を再び思い知られたことになる[45]。イラストリアスの大修理は、中立を表明していたアメリカ合衆国で実施された[42]。イラストリアスの代艦として姉妹艦フォーミダブル (HMS Formidable, R67) が地中海艦隊に配備され、同艦は3月下旬のマタパン岬沖海戦で大戦果をあげる[46]。だが5月下旬のクレタ島攻防戦でJu-87の急降下爆撃を受けて大破、姉妹艦同様に戦列を離れることになった[47][48]

出典

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注釈

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  1. ^ 第二三、英伊トブルグ海空戰[7] 北阿リビア戰線で頑張つてゐたイタリー軍は、一個師團の寡兵を以て能く味方に三倍する濠洲軍、シリア佛軍を向ふに廻してトブルク港死守してゐたが、港内にあつた沿岸防備艦サン・ジヨルジオ號(九,二三二トン)の自沈を最後として本年一月廿三日陥落した。これに先立つこと一ヶ月即ち一九四〇年十二月廿二日、イタリー海軍はイギリスの護送船團をトブルク港外で攻撃した。當時イタリー海軍は海上より陸戰に協力して英佛の歩兵、砲兵、機械化部隊等に砲撃を加へてゐたのであるが、偶々イギリス護送船團を發見、こゝぞとばかり挑みかゝり五隻の商船と巡洋艦一隻を撃沈したが、イタリーも舊式巡洋艦一隻を失つた。アフリカ戰線は當時極めてデリケートな状態だった爲かイタリー、イギリス共にその詳細の經過を公表してゐない。今年に入つてからの海戰らしい海戰の行はれたのは一月十日イタリー海軍の爆撃機編隊がシシリー島沖にイギリスの大艦隊を發見、熾烈な防空砲火を冒して大擧これに襲ひかゝり主力艦一隻に命中彈を浴びせたといふ海空戰である。イタリーの發表では之と同時に他の編隊がマルタ島を空襲して海空基地に銃爆撃を加へ、地上の敵機五機を爆碎し、船舶二隻に命中彈を與へたといふが、イギリスは之については一言も發表してゐないところを見ても大した戰果が擧らなかつた様子だ。
  2. ^ 大破着底3隻(リットリオカイオ・ドゥイリオコンテ・ディ・カブール)、健在3隻(ヴィットリオ・ヴェネトジュリオ・チェザーレアンドレア・ドーリア[14]
  3. ^ イタリア王立海軍は艦隊根拠地をナポリに変更した。
  4. ^ 第10航空兵団や、第10航空艦隊と表記する場合もある[16]
  5. ^ 第10航空軍団には、第1急降下爆撃航空団の第1飛行隊と第3飛行隊、第2急降下爆撃航空団の第2飛行隊が含まれていた[6]。全体の保有機数は、中型爆撃機(He111Ju88)120、単座戦闘機(Bf109)40、偵察機(Fw190)20、急降下爆撃機(Ju-87)150であったという[17]
  6. ^ 駆逐艦フォークナー (HMS Faulknor, H62) 、フューリー (HMS Fury, H76) 、フォレスター (HMS Forester, H74) 、フォーチュン (HMS Fortune, H70) 、ファイアドレーク (HMS Firedrake, H79) 。
  7. ^ アメリカ海軍のクレムソン級駆逐艦 (Clemson-class destroyer) スチュワート (USS Stewart, DD-224) とは別艦。オーストラリア海軍のいわゆる屑鉄戦隊 (Scrap Iron Flotilla) 。
  8. ^ イタリア水雷艇キルケ― (Circe) は逃げ切ったあと、姉妹艦が沈んだ海域に戻ってきて救助をおこなった。ヴェガの生存者は数名しかおらず、フォンターナ艇長ふくめ100名以上が戦死した。
  9. ^ ヴェガを沈めたのは、英軽巡2隻(サウサンプトン、ボナベンチャー)とする資料がある[27]
  10. ^ 生存者を僚艦に収容したあと、軽巡オライオン (HMS Orion, 85) が自沈処理した。

脚注

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  1. ^ a b 撃沈戦記(II) 1988, pp. 246a-249エクセス作戦
  2. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 93a-94飛んで火に入る夏の虫
  3. ^ a b 撃沈戦記(II) 1988, pp. 245a-246ドイツ空軍援助に登場
  4. ^ 呪われた海 1973, p. 231.
  5. ^ a b Ju87シュツーカ 1983, pp. 42a-44地中海と北アフリカ(1941年1月~1943年5月)
  6. ^ a b c d e Ju87シュツーカ 1983, p. 42b.
  7. ^ 列強の臨戦態勢 1941, p. 128原本232-233頁
  8. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 38–39(五)ギリシャ進攻
  9. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 86–89イタリアのギリシャ侵攻
  10. ^ 呪われた海 1973, p. 229.
  11. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 244–245「イラストリアス」地中海へ
  12. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 71–72二、一九四〇年十一月十一日~十二日のタラント港夜間攻撃
  13. ^ ウォースパイト 1998, pp. 172–173カニンガムの池
  14. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 242–247(1)タラント港奇襲
  15. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 91–92追随を許さぬ英地中海艦隊の威力
  16. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 97.
  17. ^ 撃沈戦記(II) 1988, p. 250.
  18. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 92–93地中海に目をむけたヒトラー
  19. ^ スミス、Stuka 1974, p. 93b.
  20. ^ a b c d 撃沈戦記(II) 1988, p. 247.
  21. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 242–244装甲空母の誕生
  22. ^ a b c d e スミス、Stuka 1974, p. 94b.
  23. ^ a b c 撃沈戦記(II) 1988, p. 248.
  24. ^ ウォースパイト 1998, pp. 176–178ルフトバッファ(ドイツ空軍)の参戦
  25. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 94a-95英船団の前途にかかる暗雲
  26. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 249a-251船団を阻止せよ
  27. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 111第二期/一九四一年一月~六月の年表、A.イタリア海軍の艦艇の損失
  28. ^ a b c d e スミス、Stuka 1974, p. 95b.
  29. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 95a-97「スツーカ」の鮮やかな手ぎわ
  30. ^ 撃沈戦記(II) 1988, p. 249b.
  31. ^ Ju87シュツーカ 1983, p. 22長距離型“リハルト”
  32. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 251a-254不沈の「イラストリアス」
  33. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 97–99致命傷を受けた「イラストリアス」
  34. ^ ウォースパイト 1998, p. 178.
  35. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 98–100「イラストリアス」ドックへの苦難の道
  36. ^ スミス、Stuka 1974, p. 99.
  37. ^ a b c d e f スミス、Stuka 1974, p. 100b.
  38. ^ a b c d e 撃沈戦記(II) 1988, p. 253.
  39. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 101a-103殴り込みをかけた「スツーカ」
  40. ^ スミス、Stuka 1974, p. 102.
  41. ^ スミス、Stuka 1974, p. 103b.
  42. ^ a b スミス、Stuka 1974, pp. 100a-101巨艦を救った血と汗の記録
  43. ^ スミス、Stuka 1974, p. 101b.
  44. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 113第二期/一九四一年一月~六月の年表、B.イギリス海軍の艦艇の損失
  45. ^ スミス、Stuka 1974, p. 103a地中海にとどろく「スツーカ」の勇名
  46. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 98–103マタパン岬沖海戦
  47. ^ スミス、Stuka 1974, pp. 117–118.
  48. ^ Ju87シュツーカ 1983, pp. 44–45クレタ島(1941年5月20日~6月1日)

参考文献

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  • ピーター・スミス 著「5 地中海にとどろく凱歌」『ユンカース急降下爆撃機 STUKA AT WAR ドイツ空軍の電撃兵器』野田昌宏 訳、サンケイ新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス59〉、1974年6月。 
  • V.E.タラント「第八章 カニンガムの池」『戦艦ウォースパイト 第二次大戦で最も活躍した戦艦』井原祐司 訳、光人社、1998年11月。ISBN 4-906631-38-X 
  • 永井喜之、木俣滋郎「第3部 第二次世界大戦 - 外国編(20)イギリス空母「イラストリアス」」『新戦史シリーズ撃沈戦記・PARTII』朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17223-1 
  • アレックス・バナグス-バギンスキス ALEX VANAGS-BAGINSKIS、横森周信(訳)、渡辺利久(イラスト)『Ju 87 STUKA Ju87シュツーカ』株式会社造形者ジャパン(原著作権所有者)、株式会社河出書房新社〈世界の偉大な戦闘機(8)〉、1983年6月。 
  • カーユス・ベッカー「第4部 地中海の戦い」『呪われた海 ドイツ海軍戦闘記録』松谷健二 訳、フジ出版社、1973年7月。 
  • 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 


関連項目

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