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オトラント海峡海戦 (1940年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オトラント海峡海戦
戦争第二次世界大戦
年月日:1940年11月12日
場所オトラント海峡
結果連合国の勝利
交戦勢力
イギリス、オーストラリア イタリア王国
指導者・指揮官
ヘンリー・プリダム・ウィッペル フランチェスコ・デ・アンジェリス
ジョバンニ・バルビーニ
戦力
軽巡洋艦3、駆逐艦2 水雷艇1、仮装巡洋艦1、商船4
損害
無し 商船4沈没、水雷艇1損傷。戦死36、戦傷42。
地中海の戦い

オトラント海峡海戦 (オトラントかいきょうかいせん、英語: Battle of the Strait of Otrantoイタリア語: battaglia del Canale d'Otranto) は、第二次世界大戦地中海戦域において、1940年(昭和15年)11月12日地中海オトラント海峡で生起した海戦イギリス海軍を基幹とする地中海艦隊タラント港奇襲を敢行するにあたり[1]、その一部艦艇が陽動を兼ねてアドリア海に進出した(MB8作戦[2]。連合国軍巡洋艦部隊は、オトラント海峡で遭遇した枢軸国軍イタリア王立海軍)の輸送船団を夜戦で撃滅して勝利した[3]

経過

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1940年(昭和15年)6月のイタリア王国参戦により地中海攻防戦英語版が始まったとき、イタリア王立海軍 (Regia Marina) は新鋭戦艦2隻と高速戦艦4隻が出撃準備を整えており、旧式戦艦を主軸とするイギリス海軍に対し優位に立っていた[4][注釈 1]。 同年10月下旬、イタリア軍がギリシャに侵攻し、連合国軍も対応を迫られる (バルカン戦線) [5]。またイタリア軍も本土からバルカン半島へ増援輸送をおこない、オトラント海峡を輸送船団が頻繁に往復していた[6]。イタリア軍輸送船団の安全を確保するため、カンピオーニ提督が指揮する王立海軍の主力艦イタリア半島タラント港に集結した[7]現存艦隊主義[8]

イギリス海軍は、地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) [注釈 2]に所属する装甲空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) の艦上攻撃機でタラント港のイタリア戦艦部隊を奇襲する“ジャッジメント作戦” (Operation judgement) を発動し[10]、同作戦と並行して各地 (マルタ島クレタ島ギリシャ) への兵員・物資輸送をおこなうMB8作戦を実施した。イタリア軍も潜水艦部隊や水雷艇部隊を派遣し、さらに王立空軍の爆撃機がイギリス地中海艦隊攻撃にむかう[11]。だが接敵できなかったり、イラストリアスの艦上戦闘機に撃退されたりして、戦果をあげられなかった[11]

11月11日午後、地中海艦隊(カニンガム提督、旗艦ウォースパイト)は麾下戦力から偵察部隊を編成し、イタリア半島東岸のアドリア海に派遣する[注釈 3]。地中海艦隊から分派されたX部隊はヘンリー・プリダム・ウィッペル中将が率いており、リアンダー級軽巡洋艦オライオン (HMS Orion, 85) とエイジャックス (HMS Ajax) 、豪州海軍パース級軽巡洋艦2番艦シドニー (HMAS Sydney) 、トライバル級駆逐艦ヌビアン (HMS Nubian, G36) とモホーク (HMS Mohawk, G-31) で構成されていた。X部隊は、地中海艦隊によるタラントに対する攻撃からイタリア軍の目をそらすことを目的としていた[3]

そのころ、イタリア貨客船4隻 (Antonio LocatelliPremudaCapo VadoCatalani) からなるイタリアの輸送船団が、イタリアブリンディジからアルバニアヴロラへ向けて航行していた。この船団は旧式駆逐艦を改造した水雷艇ファブリッツィイタリア語版 (艇長ジョバンニ・バルビーニ戦列中尉) と、仮装巡洋艦 (補助巡洋艦) 「ラム3世」 (RAMB III) によって護衛されていた[3]。ラム3世をフランチェスコ・デ・アンジェリス (Francesco De Angelis) 大尉が指揮していた。

11日夜、連合国艦隊(軽巡3隻、駆逐艦2隻)は北に向かって進んだ。12日午前1時にはバーリドゥラスを結ぶ線まで達し、X部隊は南へと針路を変えた。20分後、X部隊は6隻の敵艦船(上記のイタリア船団)を発見し、それを駆逐艦2隻と商船4隻と判断した。輸送物件を卸して空船となったイタリア船団は、X部隊の前を横切るようにしてイタリア本土へ向かっていた。1時27分、モホークが砲火を開き、戦闘が開始された。

混乱した夜戦の中、軽巡シドニー(艦長コリンズ大佐)は先頭の貨物船に対して11kmの距離で攻撃をおこない、火災を発生させた。その後23分で残り3隻の商船も沈没するか損傷し炎上した。水雷艇ファブリッツィ (Nicola Fabrizi) も被弾して損傷し[12]、11人の死者と17人の負傷者を出してヴロラへ退却した[注釈 4]。ラム3世は交戦後、無傷で撤退した[12][注釈 5]

この小規模海戦で、イタリア側は水雷艇1隻が撃破され、輸送船4隻すべてを失った[12]。イタリア海軍の人的損害は、戦死36人、負傷42人であった。一方、連合国側の死傷者は皆無であった。ただ、1時40分にはシドニーの艦尾近くを魚雷が通過していた。

海戦後

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イタリア空軍機が連合国艦隊の捜索に向かったが、艦隊を発見した飛行艇カントZ.501は撃墜された。イタリア海軍はヴロラの北に魚雷艇部隊を展開させ、巡洋艦や駆逐艦をブリンディジ港タラント港から出撃させたが、イギリス地中海艦隊を捕捉することは出来なかった[注釈 6]

海戦後、イタリア水雷艇2隻 (ソルフェリーノクルタトーネ) が沈没船の生存者約140人を救助した。負傷しながらファブリッツィが港に戻るまで指揮をとりつづけたバルビーニ中尉は、その功績により勲章を授与された。

出典

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注釈

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  1. ^ 新鋭戦艦2隻(リットリオヴィットリオ・ヴェネト)が出撃可能になったのは同年8月で、他にも近代化工事中のアンドレア・ドーリア (Andrea Doria) がいた。
  2. ^ 地中海艦隊司令長官カニンガム中将、旗艦ウォースパイト (HMS Warspite) [9]
  3. ^ 地中海艦隊本隊も、カニンガム提督直率の戦艦部隊と、リスター少将の空襲部隊に分離した[2]
  4. ^ 負傷者の中にはバルビーニ中尉も含まれていた。
  5. ^ ラム3世はブリンディジ港に入港した。
  6. ^ ブリンディジから軽巡ムツィオ・アッテンドーロ (Muzio Attendolo) 、エウジェニオ・ディ・サヴォイア (Eugenio di Savoia) 、エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ (Emanuele Filiberto Duca d'Aosta) および駆逐艦部隊、タラント港から軽巡ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ (Luigi di Savoia Duca degli Abruzzi) 、ジュゼッペ・ガリバルディ (Giuseppe Garibaldi) および駆逐艦部隊が出撃した。

脚注

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  1. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 68–72英空母機、タラント軍港を奇襲
  2. ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 117.
  3. ^ a b c ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 123.
  4. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 32–35.
  5. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 86–89イタリアのギリシャ侵攻
  6. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 114.
  7. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 115.
  8. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 82–85タラント夜襲
  9. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 112.
  10. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 242–247(1)タラント港奇襲
  11. ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 116.
  12. ^ a b c ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 124.

参考文献

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  • 木俣滋郎『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7 
  • ドナルド・マッキンタイヤー 著、寺井義守 訳「3 独・伊の主力艦、英空母に散る」『空母 日米機動部隊の激突』株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫23〉、1985年10月。ISBN 4-383-02415-7 
  • 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 
  • Coulthard-Clark, Chris (1998). Where Australians Fought: The Encyclopaedia of Australia's Battles. St Leonards: Allen and Unwin 
  • Gill, G Hermon (1957). Royal Australian Navy, 1939–1942. Australia in the War of 1939-1945 (1st ed.). Canberra: Australian War Memorial. http://www.awm.gov.au/histories/chapter.asp?volume=24 

関連項目

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