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トレント (重巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

初期のトレント
艦歴
発注:
起工: 1925年2月8日
進水: 1927年10月4日
就役: 1929年4月3日
退役:
その後: 1942年6月15日に戦没
除籍:
性能諸元
排水量: 基準 13,110トン
全長: 196.6 m
全幅: 20.6 m
吃水: 6.7 m
機関:
最大速: 35ノット (63 km/h)
兵員: 723名
兵装:

トレント (Incrociatore pesante Trento) は、イタリア王立海軍 (Regia Marina) が戦間期に建造し、第二次世界大戦で運用した巡洋艦[注釈 1]トレント級重巡洋艦ネームシップ[2]。 姉妹艦はトリエステ (Incrociatore pesante Trieste) [注釈 2]

艦歴

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戦間期

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オルランド造船所で建造。1925年(大正14年)2月8日、起工[4]。1927年(大正15年)10月4日、進水[4]。1929年(昭和4年)4月3日、竣工[4]

竣工後、南アメリカ大陸への航海をおこなった[4]ブラジル[注釈 3]ウルグアイを訪問した[注釈 4]

1931年(昭和6年)、艦橋および前檣の改装工事をおこなう[注釈 5]

1932年(昭和7年)1月下旬、上海市第一次上海事変が発生する。軍艦2隻(トレント、エスペロ)は居留民保護のため[注釈 6]カヴァニャーリ英語版イタリア語版提督の指揮下で極東へ派遣された[4]。2月中旬、イタリアを出発する[9]上海では、アメリカ合衆国アジア艦隊の重巡ヒューストン (USS Houston, CA-30) が、本艦と伊駆逐艦エスペロ (Espero) の写真を撮影している[10]。 上海の状況が小康状態になった4月中旬、イタリア政府からヨーロッパに帰国するよう命じられた[注釈 7]。その直前に、トレントは大日本帝国を訪問する[注釈 8]4月26日[13]九州長崎港に到着した[14][注釈 9]4月29日、上海の魯迅公園上海天長節爆弾事件が発生する[16]。負傷した第三艦隊司令長官野村吉三郎中将や重光葵上海公使などを見舞うため、5月1日、予定を繰り上げ長崎を出航して上海にむかった[17]

第二次世界大戦

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1939年(昭和14年)9月、第二次世界大戦が勃発する[18]。1940年(昭和15年)6月10日、イタリア王国枢軸陣営として参戦し、地中海戦線が形成された(地中海攻防戦[19]。本級2隻(トレント、トリエステ)と準同型艦ボルツァーノ (Incrociatore pesante Bolzano) は行動を共にし[20]、第3戦隊 (III Divisione Incrociatori) を編制していた[4]。同月、トレントはシチリア海峡への機雷敷設を支援する。7月、カラブリア沖海戦でイギリス地中海艦隊と交戦する[4]。トレントはカッタネオ提督旗艦であった。10月12日、パッセロ岬沖海戦で沈没したイタリア駆逐艦アルティリエーレ (Artigliere) 救援のため第3戦隊(トレント、トリエステ、ボルツァーノ)が出動するが、イギリス艦隊と接敵しなかった。11月のタラント空襲で不発弾1発が命中。同月、スパルティヴェント岬沖海戦に参加[4]

1941年(昭和16年)2月、ジェノヴァ砲撃のために出撃してきたイギリス艦隊(H部隊)迎撃のために出撃したが、空振りに終わった。3月ナポリからトリポリへ向かう兵員輸送船団を支援。同月、ラスター作戦邀撃にともなうマタパン岬沖海戦に参加[4]。この海戦でザラ級重巡洋艦3隻が沈没し[21]、生き残った同級3番艦ゴリツィア (Incrociatore pesante Gorizia) が、本級と行動を共にするようになった[22]。8月、ミンスミート作戦で出撃してきたイギリス艦隊(H部隊)の迎撃のため出撃する。9月、マルタ攻囲戦にともなう英領マルタへの補給作戦ハルバード作戦)が行われ、その迎撃にトレントも出撃した。11月、トリポリへ向かう北アフリカ戦線むけ枢軸国補給船団の遠距離護衛に従事する。この枢軸船団を、イギリス海軍の軽快艦艇部隊(K部隊)が襲撃する。夜戦で輸送船7隻と駆逐艦1隻が沈没、さらにイギリス潜水艦アプホルダー (HMS Upholder, N99) の雷撃でイタリア駆逐艦リベッチオ (Libeccio) が沈没した[23]デュースブルク船団の戦い)。 11月21日、姉妹艦トリエステが英潜水艦アトモスト (HMS Utmost) の雷撃で大破、戦線を離脱した[4]。12月、第1次シルテ湾海戦に参加。

1942年(昭和17年)1月、M43作戦に参加、北アフリカへ向かう補給船団の支援に従事する。2月、イギリスはマルタへの補給作戦を実施、その迎撃にトレントも出撃したが成果はなかった。同月トリポリ行きの船団の遠距離護衛に従事。3月、第2次シルテ湾海戦に参加[24]

同年6月、イギリス軍は東西からマルタへ補給船団を向かわせた。西側はハープーン作戦、東側はヴィガラス作戦と称した。6月14日午後、イオニア海南部で敵船団を捕捉すべく、タラントより戦艦「リットリオ」、「ヴィットリオ・ヴェネト」、重巡洋艦「トレント」、「ゴリツィア」などが出撃した[25]。15日朝、マルタより発進したイギリス空軍沿岸軍団第217飛行隊英語版ブリストル ボーフォート9機がイタリア艦隊を攻撃[26]。この攻撃で「トレント」は前部ボイラーの場所に被雷した[27]。航行不能となり炎上する「トレント」には駆逐艦「Pigafetta」と「Saetta」がつけられた[28]。ボーフォートによる攻撃が行われているころ、イギリス潜水艦もイタリア艦隊を発見[29]。「トレント」から立ち上る煙はイギリス潜水艦を呼び寄せた[29]。最初の被雷からおよそ4時間後、「P35」が距離4000ヤードで「トレント」に対して魚雷2本を発射[30]。1本が2番砲塔付近に命中し、弾薬庫の誘爆により「トレント」は爆沈した[31]。406名が死亡し、581名が「Pigafetta」と「Saetta」によって救助された[32]。または、出撃時には1151名が乗っており、駆逐艦によって602名が救助された[29]

1946年10月18日、除籍[33]

出典

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注釈

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  1. ^ 巡洋艦トレント(一九二八年九月竣工)[1] 基準排水量一〇〇〇〇噸、時速三五節半。同年十二月竣工のトリエステと同型。一九二三 ― 四年度計畫に依り二五年八月に起工。前方艦檣にカタパルトを装着す。
  2. ^ 一等巡洋艦 “トレント Trento[3] 全要目{排水量10,000噸 速力35.5節 備砲20糎砲8門 魚雷發射管(53糎)8門 起工1925年2月 竣工1929年4月 建造所 オルランド造船所} 同型艦“トリエスト Trieste
    要目一切は“トリエスト”と同じである。建造中に於て種々の變更が行はれ、最初は煙突間にカタパルトが装備される筈であつたのが艦首に装備されることゝなつたり、司令塔附近には對空防禦のため装甲其他が新に加工される等幾多の改善が施され又超えて1931年には更に改装が施されたのである。この2隻は英國“ケント級重巡洋艦に對抗する意味で建造されたもので“ケント”よりは高速力を得んために餘程苦心して輕く設計されてゐる。伊國重巡の最新艦はボルザーノ Bolzano(33-8竣工)で、外に舊型ピサ Pisa” “サン・ギオルギオ San Giorgio” “サン・マルコ San Marco”がある。重巡總計10隻97,342噸である。
  3. ^ サントスに寄港の伊國新型巡洋艦[5] 海軍々縮協約の速力規定に反するとて一時列強の問題となつた伊國新型一等巡洋艦トレント號が同國海軍省の命で伯國を公式訪問 最初にリオ港に投錨、任務を終へて去る十八日サントス港に入港したが、ビニー艦長は多數士官を伴ひ來聖、聖市伊國總領事の案内で州政廰に大統領を訪問敬意を表して後市内の見物を爲し十九日夜は伊太利倶樂部の晩餐會に招かれ、また昨廿一日夜は聖市に於ける領事團の招待を受け到る處好感を以て迎へられてゐる(記事おわり)
  4. ^ 伊國戰艦トレント號 十七日サントス入港[6] 伊太利戰艦トレント號はウルグワイ百年祭祝典参列の途次訪伯去十七日サントス着乗組将卒は十八日以來半舷づつ上聖した。聖市は同國人の多い所とて水兵ども恰も故郷に歸つた様だとの話は左もあるべきこと十九日は水兵どもマタラゾ商會のカミニヨンに分乗して市内見物、夜に入つて伊太利シルコの歡迎あり 二十一日はホテル・テルミナスに於て領事協會の歡迎夜會あり 二十二日モンテビデオ向け出發の筈。(記事おわり)
  5. ^ 一等巡洋艦 “トレント Trento[7] 全要目{排水量10,000噸 速力35節 備砲20糎砲8門 魚雷發射管(53糎)8門 起工1925年2月 竣工1929年4月 建造所 オルランド造船所} 要目一切は“トリエスト”と同じである。建造中に於て種々の變更が行はれ、最初は煙突間にカタパルトが装備される筈であつたのが艦首に装備されることゝなつたり、司令塔附近には對空防禦のため装甲其他が新に加工される等幾多の改善が施され又超えて1931年には更に改装が施されたのである。この2隻は英國“ケント級重巡洋艦に對抗する意味で建造されたもので“ケント”よりは高速力を得んために餘程苦心して輕く設計されてゐる。伊國重巡の最新艦は“ボルツアノ Bolzano(33-8竣工)で、(ポラと殆ど全く同じ)外に舊型巡洋艦に“ピザ Pisa”“サン・ギオルヂオ San Giorgio”がある。重巡總計10隻97,342噸である。
  6. ^ 伊太利よりも軍艦二隻を派遣 居留民保護の目的で[8]【ローマ二日聯合】ムツソリニ首相は二日一萬噸級巡洋艦トレント號および驅逐艦エステロ號に軍隊を搭載して上海に派遣した、右につき伊太利政府は聲明を發表し右は居留民保護のためである旨を明かにした(記事おわり)
  7. ^ 伊軍艦引揚[11](十八日ローマ發)上海の状態平穏に赴きつゝある爲めムツソリーニ氏は曩に上海へ派遣せる巡洋艦トレント號及驅逐艦エスぺロ號に對し歸國命令を發した(記事おわり)
  8. ^ (1932年4月20日、伊國大使館附武官)[12]〔 拝啓本日午後貴海軍大臣副官ニ通知候件ニ付上海伊國極東艦隊司令官ハ本國ヨリ次ノ電報ヲ受領致候條及通知候 「トレントヲ率ヒ直ニ伊國ニ歸投セヨ」 同司令官ハ豫テ計畫中ナリシ日本巡航ノ不可能トナリシヲ遺憾トシセメテ其ノ歸國ノ途次數日間トレントヲ率ヒ長崎ニ寄港シ度キ希望ナリ尚長崎入港日程ハ承知次第御通知可申候 敬具 〕
  9. ^ 当時、三菱長崎造船所では重巡洋艦鳥海を建造中だった(竣工、昭和7年8月)[15]

脚注

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  1. ^ 世界海軍大写真帖 1935, p. 52.
  2. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 118a-119トレント級重巡洋艦/航洋性能に秀でたイタリア初の条約型重巡
  3. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 172(原本326-327頁)一等巡洋艦トレント
  4. ^ a b c d e f g h i j イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 119.
  5. ^ Burajiru Jihō, 1929.08.22”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月5日閲覧。 p.11
  6. ^ Nippaku Shinbun, 1929.08.22”. Hoji Shinbun Digital Collection. 2023年8月5日閲覧。 p.2
  7. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 149(原本280-281頁)一等巡洋艦トレント
  8. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nippu Jiji, 1932.02.03、p.1、2023年8月5日閲覧
  9. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nichibei Shinbun, 1932.02.06、p.1、2023年8月5日閲覧 〔 伊軍艦上海へ(上海五日電通)伊太利巡洋艦トロント號は水曜日夜上海に向つて出發(記事おわり)〕
  10. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 118b.
  11. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Singapōru Nippō, 1932.04.20、p.3、2023年8月5日閲覧 (事件概要)
  12. ^ #公文書考、昭和8年D外事巻4の2 p.8
  13. ^ 海軍省年報、昭和7年 1935, p. 22昭和7年度 9.外國軍艦本邦沿岸出入一覧
  14. ^ 昭和7年4月28日(木)海軍公報 第1568号 p.35」 アジア歴史資料センター Ref.C12070332500 〔 ○伊國軍艦トレント來航豫定 地名:長崎 着:四月二十六日 發:未定 〕、#公文書考、昭和8年D外事巻4の2 p.4
  15. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 21(原本24-25頁)一等巡洋艦“鳥海 てうかい”
  16. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Burajiru Jihō, 1932.05.05、p.1、2023年8月5日閲覧 (事件概要)
  17. ^ #公文書考、昭和8年D外事巻4の2 p.5(宛略)〔 伊國軍艦「トレント」本日午前七時上海ニ向ケ出港セリ 司令官ハ深ク第三艦隊司令長官及ビ重光公使等ノ負傷ニ痛心シ其ノ見舞ノ爲特ニ豫定ヲ一日繰上ゲ出港セルモノナリ 〕
  18. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 18.
  19. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 52–55イタリアの戦争準備
  20. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 1221ps=重巡洋艦「ボルツァーノ」/快速軽装甲に立ち返った改トレント級.
  21. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 98–103マタパン岬沖海戦
  22. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 120–121ザラ級重巡洋艦
  23. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 120–122K部隊の栄光
  24. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 138–141第二次シルテ湾海戦
  25. ^ The Littorio Class, p. 223, In Passage Perilous, 5 OPERATION VIGOROUS, Table 5.3.
  26. ^ The Littorio Class, p. 224, In Passage Perilous, 5 OPERATION VIGOROUS, ATTACKS ON THE ITALIAN FLEET
  27. ^ The Littorio Class, p. 224
  28. ^ The Littorio Class, pp. 224-225
  29. ^ a b c In Passage Perilous, 5 OPERATION VIGOROUS, ATTACKS ON THE ITALIAN FLEET
  30. ^ The Littorio Class, pp. 224-225, In Passage Perilous, 5 OPERATION VIGOROUS, ATTACKS ON THE ITALIAN FLEET
  31. ^ The Littorio Class, p. 225, In Passage Perilous, 5 OPERATION VIGOROUS, ATTACKS ON THE ITALIAN FLEET
  32. ^ The Littorio Class, p. 225
  33. ^ Italian Heavy Cruisers of World War Two, p. 3

参考文献

[編集]
  • 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 
  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「イタリアの巡洋艦」『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3 
  • Erminio Bagnasco, Augusto de Toro, The Littorio Class: Italy's Last and Largest Battleships 1937-1948, Seaforth Publishing, 2011, ISBN 978-1-84832-105-2
  • Vincent P. O'Hara, In Passage Perilous: Malta and the Convoy Battles of June 1942, Indiana University Press, 2013 (電子版)
  • Gordon E. Hogg, Steve Wiper, Italian Heavy Cruisers of World War Two, Warship Pictorial 23, Classic Warships Publishing, 2004, ISBN 0-9710687-9-8
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『公文備考 D巻4の2 外事 海軍大臣官房記録 昭和8(防衛省防衛研究所)目次 公文備考 昭和8年D外事 巻4の2』。Ref.C05022742100。 
    • 『公文備考 D巻4の2 外事 海軍大臣官房記録 昭和8(防衛省防衛研究所)官房第1615号 昭和7.5.2 伊国軍艦「トレント」本邦来航に関する件』。Ref.C05022742200。 

関連項目

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