「スパダ岬沖海戦」の版間の差分
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*[http://digilander.libero.it/carandin/capospada.htm Lo scontro navale di Capo Spada](伊語) |
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2020年8月16日 (日) 15:20時点における版
スパダ岬沖海戦 | |
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戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1940年7月19日 | |
場所:地中海、クレタ島の北から西の海域 | |
結果:連合国の勝利 | |
交戦勢力 | |
連合国(イギリス、オーストラリア) | イタリア |
指導者・指揮官 | |
ニコルソン大佐、ジョン・コリンズ大佐 | フェルディナンド・カサルディ上級少将 |
戦力 | |
軽巡洋艦1、駆逐艦5 | 軽巡洋艦2 |
損害 | |
軽巡洋艦1小破 | 軽巡洋艦1沈没、1損傷、129名戦死 |
スパダ岬沖海戦[1][2]は、第二次世界大戦中の1940年7月19日に地中海のクレタ島北西沖で発生したイギリス海軍およびオーストラリア海軍とイタリア海軍との間で戦われた海戦である。海戦は最初イタリアの軽巡洋艦2隻とイギリスの駆逐艦4隻との間で始まり、その後オーストラリアの軽巡洋艦とイギリスの駆逐艦各1隻が加わった。戦闘の結果、イタリアの軽巡洋艦バルトロメオ・コレオーニが撃沈された。
経過
イギリスの小型タンカーの船団がルーマニアからギリシャ水域へと向かっているとの情報に基づき、イタリア軍は第2戦隊(フェルディナンド・カサルディ上級少将[3])の軽巡洋艦ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ(旗艦)とバルトロメオ・コレオーニの2隻の軽巡洋艦を攻撃に向かわせた。2隻は7月17日にトリポリから出撃し、ドデカネス諸島のレロス島へと向かった。
一方、イギリス軍も7月18日未明に以下の部隊を出撃させた。
A部隊の任務はクレタ島北方でのイタリア潜水艦掃討であり、クレタ島の東のカソ海峡からエーゲ海に入り、クレタ島西のアンティキティラ海峡から出て帰投する予定であった。B部隊の任務はA部隊の援護とアテネ湾でのイタリア船攻撃であった。両部隊は7月18日に夜にクレタ島の東のカソ海峡を通過してエーゲ海に入った。コリンズはA部隊の援護を優先しA部隊がクレタ島西のアンティキティラ海峡を通過する時間まではA部隊の近くにいることを決めた。カサルディは進路上でこれらの部隊が活動中であることは知らなかった。
7月19日7時17分[4]にアンティキラ海峡付近でイタリア側がイギリスのA部隊を発見した。アンティキティラ海峡へ向かっていたA部隊も7時22分にイタリアの軽巡洋艦を発見し、速度を上げて北東へ向かった。イタリア側は7時27分に距離19000ヤードで砲撃を開始。イギリス駆逐艦も7時32分に砲撃を開始したが、砲撃は届かなかった。カサルディは、敵駆逐艦が他の強力な部隊の護衛ではないかどうかわからなかったため、接近しようとしなかった。イギリスの駆逐艦は北東へ進み、イタリア側は北へ向かったため、両者の距離は次第に離れていった。イタリア側の砲撃は太陽に向かっての砲撃であったため不正確であった。さらに駆逐艦の煙幕も加わって砲撃はさらに困難になった。カサルディは7時48分に砲撃を中断し、7時50分に東へと進路をかえて敵への接近を図った。
一方、コリンズは7時33分にニコルソンからの敵発見の報告を受け取り、その方へと向かい始めた。この際、敵に存在を知られないよう通信は行わなかった。8時20分、南東へ向かっていた「シドニー」はイタリア軽巡洋艦の煙を発見。8時29分に距離20000ヤードで「ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ」に対して砲撃を開始した。「シドニー」が霧に隠されていたため、イタリア側は砲撃を受けるまでその存在に気づかなかった。イタリア側は8時32分まで南東へ針路をかえ、砲撃を開始した。また、イギリス駆逐艦4隻も反転し、敵へと向かい始めた。
8時35分、シドニーの砲撃がジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレに命中した。煙突を貫通して爆発し、死者4名負傷者4名を出した。イタリア側はハヴォックも軽巡洋艦だと誤認していた。敵とクレタ島との間に挟まれるのを避けるため、カサルディは煙幕を張り南西へと針路を変えた。8時58分にはイタリアの軽巡洋艦は南西へと向かい始めた。9時21分、シドニーの煙突右舷側に命中弾があり1名が負傷した。9時24分、または25分にシドニーからの6インチ砲弾がバルトロメオ・コレオーニに命中した。その直後にもさらに命中弾があり、バルトロメオ・コレオーニは航行不能となった。ハイペリオンとアイレクスがバルトロメオ・コレオーニに対して雷撃を行い、アイレクスからの魚雷が1本命中。続いてハイペリオンが2度目の雷撃を行い、さらに魚雷1本が命中し9時59分にバルトロメオ・コレオーニは沈没した。ハイペリオン、アイレクス、ハヴォックが生存者の救助を行った。また、ロドス島から飛来した爆撃機の攻撃を受けて至近弾でハヴォックに損害が生じ負傷者が出ている。
シドニーはヒーロー、ヘイスティとともにジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレの追跡を継続していった。9時58分にシドニーはジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレに命中弾を与えた(死者4名、負傷者12名)が、距離が開いたことなどからコリンズは10時37分に追跡を打ち切った。
ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレはトブルクへ行くと見せかけてからベンガジへと向かい、無事に到着している。ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレがトブルクにいると考えたイギリス軍はトブルク空襲を行い、駆逐艦ネンボやオストロを撃沈した。
参加艦艇
イタリア
- 軽巡洋艦バルトロメオ・コレオーニ(沈没、戦死121)、ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレ(損傷、戦死8)
連合国
参考文献
- Jack Greene and Alessandro, The Naval War in the Miditerranean, Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2
- G. HerMon Gill, Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy Volume I – Royal Australian Navy, 1939–1942, 1957
- Vincent P. O'Hara, Struggle for the Middle Sea, Naval Institute Press, 2009, ISBN 978-1-59114-648-3
- Naval Staff History Second World War: Selected Operations (Mediterranean), 1940
脚注
- ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』、光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、256ページ
- ^ 『世界の艦船 増刊第54集 イタリア巡洋艦史』海人社、2000年、158ページ
- ^ Ammirarlio di divisione。英訳はvice admiral。但し、注釈ではrear admiral upper half に相当するとの表記あり。
- ^ 時刻はイギリス側のもの。イタリア側より1時間遅い。以下同じ。