「縁覚」の版間の差分
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縁覚としての階位を'''辟支仏地'''と呼び、'''支仏地'''と略す<ref name="sb124" />。辟支仏地は、三乗を通じて10に分けた仏者の階位(通教の十地){{refnest|group="註"|いくつかある十地説のひとつ。[[摩訶般若波羅蜜経|大品般若経]]の所説で、大・小乗を包括する「共十地」であり{{sfn|岩波 仏教辞典|2002|loc=「十地」}}、天台宗では「通教の十地」という{{sfn|仏教学辞典|1995|loc=「十地」}}。{{harvnb|水野|2006}} によると以下の通り{{sfn|水野|2006|pp=237-240}}。1. 乾慧地、2. 種性地(性地)、3. 八人地、4. 見地、5. 薄地、6. 離欲地、7. 已弁地(已作地)、8. 辟支仏地、9. 菩薩地、10. 仏地。}}において第八に位するとする<ref name="sb124" />。 |
縁覚としての階位を'''辟支仏地'''と呼び、'''支仏地'''と略す<ref name="sb124" />。辟支仏地は、三乗を通じて10に分けた仏者の階位(通教の十地){{refnest|group="註"|いくつかある十地説のひとつ。[[摩訶般若波羅蜜経|大品般若経]]の所説で、大・小乗を包括する「共十地」であり{{sfn|岩波 仏教辞典|2002|loc=「十地」}}、天台宗では「通教の十地」という{{sfn|仏教学辞典|1995|loc=「十地」}}。{{harvnb|水野|2006}} によると以下の通り{{sfn|水野|2006|pp=237-240}}。1. 乾慧地、2. 種性地(性地)、3. 八人地、4. 見地、5. 薄地、6. 離欲地、7. 已弁地(已作地)、8. 辟支仏地、9. 菩薩地、10. 仏地。}}において第八に位するとする<ref name="sb124" />。 |
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[[天台宗|天台]]の教義では、十二因縁を観じて迷いを断ち理法をさとる縁覚を「仏の世」のことであるとし、飛花落葉(ひけらくよう)などの天地自然の変化といった外縁によってさとる縁覚を「無仏の世」のことであるとする<ref name="sb124" /><ref group="註">[[ |
[[天台宗|天台]]の教義では、十二因縁を観じて迷いを断ち理法をさとる縁覚を「仏の世」のことであるとし、飛花落葉(ひけらくよう)などの天地自然の変化といった外縁によってさとる縁覚を「無仏の世」のことであるとする<ref name="sb124" /><ref group="註">[[智顗]]説『妙法蓮華経文句』巻四</ref>。天台の教義では後者を独覚とする<ref name="sb124" />。 |
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== 脚注 == |
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2020年8月16日 (日) 12:12時点における版
縁覚(えんがく、サンスクリット:प्रत्येक बुद्ध pratyeka-buddha[1]、パーリ語:पच्चेकबुद्ध paccekabuddha[2])とは、修行者の性質や修行の階位を示す仏教用語で、性質としては仏の教えによらずに独力で十二因縁を悟り、それを他人に説かない聖者(無師独悟[3])を指す[1][4]。階位としては菩薩の下、声聞とされる[1][5]。縁覚は寂静な孤独を好むために、説法教化をしないとされる[6]。辟支仏(びゃくしぶつ)や鉢剌医迦仏陀と音写し、師なくしてひとりで悟るので独覚(どっかく)ともいう[4][6][5]。この名称の使用例はジャイナ教にもある[7](後述)。
縁覚の境地を縁覚地、十二因縁を観じてさとりを開く教えを縁覚乗、縁覚の道を説いた教えを縁覚蔵、縁覚の起こす菩提心を縁覚菩提という[2]。
仏典にみる縁覚
八千頌般若経などの般若経典では、声聞・独覚と呼ばれる修行者は菩薩大士と対置されるものとして言及されることが多く、その三つの教法を声聞乗・独覚乗・菩薩乗と呼ぶのが通例である[8]。
起源
辟支仏の起源はよくわかっていないが、仏教外部から取り込まれたものとの説がある[9]。これに関して藤田宏達は、ジャイナ教白衣派の聖典語であるアルダ・マガダ語[10]の辞書によると、ジャイナ教文献では patteya-buddha ないし patteka-buddha という語が仏教の辟支仏と類似した意味に用いられていることを指摘している[11]。仏教の辟支仏がジャイナ教の影響によるものだとは考えにくく、この語は当時のインドで広く用いられた、もしくは沙門の間で通用していたものであったかもしれないと藤田は推察している[11]。
部行と麟角喩
倶舎論巻第十二では、独覚には部行(ぶぎょう[6])独覚と麟角喩(りんかくゆ[6])独覚の2種があるとする[3]。部行独覚と麟角喩独覚は説一切有部の論書に説かれるもので[11]、前者は仲間を組んで修行する独覚、後者は修行の伴侶をもたずに独りでいる独覚を麒麟の一本の角に喩えたものである[12]。部行独覚は、先に声聞であった時に不還果までを得た人が阿羅漢果を証する時に仏の教導を離れて独り自ら覚るのをいう[6]。麟角喩独覚は、独居して100大劫の間に善根功徳を積んで独り覚る者をいう[6]。麟角喩独覚に相当するものはパーリ上座部にもある[11]。初期教典『スッタニパータ』の「犀の角」(33-75)では、独りで覚る人の生活がサイの角に譬えられ[12]、この詩頌の示すところは部派教典において辟支仏に結びつけられた[11]。
大乗仏教における位置づけ
縁覚と声聞をあわせて二乗という[4]。大乗仏教においては、声聞乗と縁覚乗の二乗は小乗の立場を表し、大乗(菩薩乗)よりも劣るとされる[4]。ただし、この三乗すべてが一乗(一仏乗)に帰すことも強調される[4][註 1]。縁覚と声聞はそれぞれ、天台教学で体系化された十界の一つにも数えられる[14]。
縁覚としての階位を辟支仏地と呼び、支仏地と略す[6]。辟支仏地は、三乗を通じて10に分けた仏者の階位(通教の十地)[註 2]において第八に位するとする[6]。
天台の教義では、十二因縁を観じて迷いを断ち理法をさとる縁覚を「仏の世」のことであるとし、飛花落葉(ひけらくよう)などの天地自然の変化といった外縁によってさとる縁覚を「無仏の世」のことであるとする[6][註 3]。天台の教義では後者を独覚とする[6]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 縁覚 - 学研全訳古語辞典 (weblio古語辞典)。
- ^ a b 中村元『広説仏教語大辞典』東京書籍、2001年6月、136-137頁。
- ^ a b 小川 1990, p. 732.
- ^ a b c d e “縁覚(えんがく)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年5月24日閲覧。
- ^ a b “辟支仏とは - 難読語辞典 Weblio辞書”. Weblio. 2017年5月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 総合仏教大辞典編集委員会(編)『総合仏教大辞典』(第一版)法蔵館、1988年1月、124頁。
- ^ 岩波 仏教辞典 2002, 「縁覚」.
- ^ 梶山 2002, p. 147.
- ^ 平岡 2015, pp. 127–128.
- ^ 山崎守一 『沙門ブッダの成立 原始仏教とジャイナ教の間』 大蔵出版、2010年、40頁。
- ^ a b c d e 藤田 1957.
- ^ a b 中村 1984, pp. 253–254.
- ^ 岩波 仏教辞典 2002, 「三乗」「方便」.
- ^ 岩波 仏教辞典 2002, 「十界」.
- ^ 岩波 仏教辞典 2002, 「十地」.
- ^ 仏教学辞典 1995, 「十地」.
- ^ 水野 2006, pp. 237–240.
参考文献
- 小川宏「独覚論考」『印度學佛教學研究』第38巻第2号、日本印度学仏教学会、1990年3月、doi:10.4259/ibk.38.732。
- 梶山雄一『般若経 空の世界』中央公論新社〈中公文庫〉、2002年(原著1976年)。
- 中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店〈岩波文庫〉、1984年。
- 平岡聡『大乗経典の誕生: 仏伝の再解釈でよみがえるブッダ』筑摩書房〈筑摩選書〉、2015年。
- 藤田宏達「三乘の成立について 辟支佛起源考」『印度學佛教學研究』第5巻第2号、日本印度学仏教学会、1957年、419-428頁、doi:10.4259/ibk.5.419。
- 水野弘元『仏教要語の基礎知識』(新版)春秋社、2006年(原著1972年)。
- 荻原雲来編纂、辻直四郎協力、鈴木学術財団編『漢訳対照 梵和大辞典 新訂版』山喜房佛書林、2012年。
- 中村元・福永光司・田村芳朗・今野達・末木文美士, ed. (2002-10). 岩波 仏教辞典 第二版. 岩波書店.
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は必須です。 (説明) - 多屋頼俊・横超慧日・舟橋一哉, ed. (1995-04). 新版 仏教学辞典. 法蔵館.
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