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[[書道|書]]における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って[[王羲之]]の[[王羲之#十七帖|十七帖]]、[[王献之]]、[[欧陽詢]]、[[褚遂良]]などの筆跡や[[法帖]]類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、{{独自研究範囲|清澄で品格が高い|date=2020年3月}}。真跡として現存するものには次のようなものがある。 |
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=== 久隔帖 === |
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2020年8月15日 (土) 00:29時点における版
最澄 | |
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神護景雲元年8月18日[1] - 弘仁13年6月4日(旧暦) (767年9月15日 - 822年6月26日〈新暦〉) | |
法名 | 最澄 |
法号 | 福聚金剛(ふくじゅこんごう) |
諡号 | 伝教大師(傳敎大師) |
生地 | 近江国滋賀郡古市郷(現:滋賀県大津市)もしくは坂本 |
没地 | 中道院(比叡山) |
宗派 | 天台宗 |
寺院 | 一乗止観院(現:根本中堂) |
師 | 道邃・行満・翛然・順暁 |
弟子 | 義真、円仁ほか |
最澄(さいちょう)は、平安時代の僧(766/767年 - 822年)[2][3]。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる[4]。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)もしくは生源寺(現在の大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった[5]。
生涯
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
なお、年齢は神護景雲元年出生説に基づく。[1]
- 神護景雲元年(767年)8月18日、近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市坂本の一帯)を統治する豪族の三津首百枝(みつのおびとももえ)を父として古市郷か現在の生源寺の地で誕生する。幼名は広野(ひろの)[6][7]。
- 宝亀9年(778年)、12歳のとき近江国分寺(現在の大津市石山)に入り、出家して行表の弟子となる。
- 宝亀11年〈780年)11月10日、近江国分寺僧闕(そうけつ、欠員の意)により得度し名を最澄と改めた[7]。
- 延暦2年(783年)1月20日、正式な僧侶の証明である度縁の交付を受ける[7][8][9]。
- 延暦4年(785年)4月6日、東大寺で具足戒を受け比丘(僧侶)となる[7]。同年7月に比叡山に登り山林修行に入り、大蔵経を読破。
- 788年、自刻の薬師如来を本尊とする草庵、後に延暦寺根本中堂となる一乗止観院を創建する[7][10]。
- 797年、桓武天皇の内供奉十禅師。
- 801年、比叡山一乗止観院で法華十講奉修。南都六宗の高僧10名に講師を依頼する(請十大徳書)。
- 802年、高雄山寺(神護寺)法華会(ほっけえ)講師。桓武天皇より入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれる。
- 804年7月、通訳に門弟の義真を連れ、九州を出発。9月上旬明州に到着[11]。9月下旬台州に到着、湛然の弟子の道邃から天台法門の書写を受け修学する[11][10]。10月天台山に登り、国清寺に入る[11]。湛然の弟子の行満(ぎょうまん)から付法82巻を受け、翛然(しゅくねん)から達磨禅を受法する[11]。
- 805年2月、台州龍興寺において道邃の付法相承を受ける[11]。3月、道邃より円頓大戒(大乗菩薩戒)を受け、4月、越州龍興寺の順暁より三部三昧耶の灌頂を受け、真言密教の「付法文」を受ける[11]。5月、帰路の途中和田岬(現在の神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創する。7月に上洛、滞在中に書写した経典類は230部460巻。帰国当時、桓武天皇は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒を祈る。9月、桓武天皇の要請で高雄山神護寺で日本最初の公式な灌頂が最澄により行われる。
- 大同元年(806年)1月、最澄の上表により、天台業2人(止観業1人、遮那(しゃな)業1人)が年分度者となる。これは南都六宗に準じる。これが日本の天台宗の開宗である。このころ、空海から、真言、悉曇(梵字)、華厳の典籍を借り、研究する。
- 弘仁3年(812年)の冬、弟子の泰範、円澄、光定らと高雄山寺におもむき、空海から灌頂を受ける。そのとき曼荼羅の宝幢如来の「密号」である「福聚金剛」が法号としてつけられた。
- 813年1月、泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山寺に留まった。しかし、このうち泰範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった[12]。
- 813年11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。
- 815年、和気氏の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争。その後東国へ旅立つ。関東で鑑真ゆかりの上野の緑野(みとの)寺(現在の群馬県浄法寺に位置する)や下野の小野寺を拠点に伝道を展開する。
- 法相宗の学僧会津徳一との間に、三一権実の論争。徳一が『仏性抄』(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は『照権実鏡』(しょうごんじっきょう)で反駁。論争は、比叡山へ帰った後も続き、『法華去惑』(こわく)『守護国界章』『決権実論』『法華秀句』などを著したが、決着が付く前に最澄も徳一も死んでしまったので、最澄の弟子たちが徳一の主張はことごとく論破したと宣言して論争を打ち切った。
- 818年、みずから具足戒を破棄。『山家学生式』(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づける。
- 南都の僧綱から反駁にこたえて『顕戒論』を執筆。『内証仏法血脈譜』を書いて正統性を説く。
- 弘仁13年6月4日(822年6月26日)、比叡山の中道院で遷化、享年56(満54歳没)。没後7日目、大乗戒壇設立は、弟子・光定と、藤原冬嗣、良岑安世の斡旋により勅許。
- 貞観8年(866年)、清和天皇より伝教大師(でんぎょうだいし)の諡号が贈られた。日本で初めての大師号である。以後「伝教大師最澄」と称される。
書
書における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って王羲之の十七帖、王献之、欧陽詢、褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、清澄で品格が高い[独自研究?]。真跡として現存するものには次のようなものがある。
久隔帖
『久隔帖』(きゅうかくじょう)は、弘仁4年(813年)11月25日付で書いた尺牘(書状)で、「久隔清音」の句で始まるのでこの名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは高雄山寺に派遣した最澄の弟子の泰範であるが、実質は空海宛である[12]。心が筆端まで行き届き、墨気清澄・品格高邁で、さながら王羲之の『集字聖教序』を肉筆化したような響きを放つ[13]。大きさは、29.2cm×55.2cm。奈良国立博物館蔵。国宝[12]。
文面は、「大阿闍梨(空海)の示された五八の詩(『中寿感興詩』)の序に、『一百二十礼仏』・『方円図』・『註義』という書名がある。その詩の韻に和して返礼の詩を作って差し上げたいが、私は『礼仏図』なるものをまだ知らない。どうかこの旨を阿闍梨(空海)に伝えられ、『方円図』・『註義』とその大意とをお知らせいただきたい。(以下省略)」という趣旨の内容である[12]。
請来目録(越州録)
『請来目録(越州録)』(しょうらいもくろく(えっしゅうろく))は、在唐中、最澄が越州(浙江)で蒐集または抄写した経疏、天台関係の文書、法具などの目録で、延暦24年(805年)に書かれたものである。楷書であるが久隔帖と同じく王羲之風の流麗な筆致である。延暦寺蔵。国宝。
羯磨金剛目録
『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、最澄が唐からの請来品を弘仁2年(811年)比叡山に奉納した目録の断片で、その初行の文字によってこの名がある。全紙に比叡山の印が捺されている。延暦寺蔵。国宝。
伝教大師童形像
伝教大師童形像は、生源寺(滋賀県大津市)、延暦寺(滋賀県大津市)、雙林寺(京都府京都市)、三千院(京都府京都市)、松尾寺(大阪府和泉市)、能福寺(兵庫県神戸市)、普光寺(兵庫県加西市)、長法寺(岡山県津山市)、天王院(神奈川県横浜市)、立石寺(山形県山形市)など天台宗の寺院に設置されている。
伝記研究・小説
- 塩入良道編 『最澄 日本名僧論集〈2〉』(吉川弘文館、1982年)
- 平川彰 『最澄 天に応える 高僧伝〈3〉』(集英社、1985年)
- 田村晃祐 『最澄』 (吉川弘文館〈人物叢書〉、新装版1988年)
- 佐伯有清 『伝教大師伝の研究』 (吉川弘文館〈日本史学研究叢書〉、1992年)
- 佐伯有清 『最澄とその門流』 (吉川弘文館、1993年)
- 佐伯有清 『若き日の最澄とその時代』(吉川弘文館、1994年)
- 佐伯有清 『最澄と空海 交友の軌跡』(吉川弘文館、1998年)
- 大久保良峻編 『山家の大師 最澄 日本の名僧〈3〉』(吉川弘文館、2004年)
- 立川武蔵 『最澄と空海 日本仏教思想の誕生』(講談社選書メチエ、1998年/角川ソフィア文庫、2016年)
- 高木訷(シン)元編著 『空海と最澄の手紙』(法蔵館 1999年、新版2015年)
- 『上山春平著作集第8巻 空海と最澄』(法蔵館、1995年)
- 永井路子 『雲と風と 伝教大師最澄の生涯』 (中公文庫、1990年)-小説
- 栗田勇 『最澄』 (全3巻:新潮社、1998年)-小説
脚注
- ^ a b なお、最澄自身の撰とされる『内証仏法相承血脈譜』では、13歳で弟子入りし、宝亀11年11月10日作成の「近江国府牒」に“三津首広野年拾五”との記述があり、天平神護2年出生説を採る学者もいる。
- ^ "The Sutra of the Sixth Patriarch." Dumoulin, Heinrich. Zen Buddhism: A History, India and China. New York: World Wisdom, 2005, p128.
- ^ 塩入良道、「最澄」 -日本大百科全書(ニッポニカ) 、小学館。
- ^ 最澄に対する称名は「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛」である。
- ^ 書家101 p.118
- ^ 天台宗HP.2018年6月1日閲覧。
- ^ a b c d e 京都国立博物館 2005, p. 366.
- ^ 当時は道鏡時代の僧侶の政治介入に対する反省から、僧侶の人数を抑制するために度縁の交付の制限を行っていた。
- ^ 『伝教大師度縁案並僧綱牒』(国宝・来迎院 (京都市左京区) 蔵)
- ^ a b 『叡山大師伝』
- ^ a b c d e f 京都国立博物館 2005, p. 367.
- ^ a b c d e 宮坂宥勝「風信帖と久隔帖」(「空海の風信帖」『墨』P.16 - 20)
- ^ 寺山旦中「弘法の展開と最も澄んだ書」(「空海の風信帖」『墨』P.54)
参考文献
- 仁忠(最澄の高弟)『叡山大師伝』: (伝教大師全集.第5巻所収、世界聖典刊行協会、復刻版1975年)
- 森田悌 『日本古代の政治と宗教』(雄山閣出版、1997年)
- 木村卜堂 『日本と中国の書史』(日本書作家協会、1971年)
- 「空海の風信帖」(『墨』 芸術新聞社、1993年9月)
- 石川九楊・加藤堆繋『書家101』(新書館、新版2007年(初版2004年))ISBN 978-4-403-25074-3
- 京都国立博物館、東京国立博物館『最澄と天台の国宝』読売新聞社、2005年10月8日。全国書誌番号:21040706。
関連項目
外部リンク
- 宗祖伝教大師最澄 天台宗公式ホームページ