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[[1992年]]はさらに記録を伸ばし韓国初のシーズン40本塁打と119打点で自分の持っていた記録を更新。2年連続最優秀選手に。
[[1992年]]はさらに記録を伸ばし韓国初のシーズン40本塁打と119打点で自分の持っていた記録を更新。2年連続最優秀選手に。


しかし、[[1993年]]のシーズン序盤、走塁途中で野手とぶつかり手首を骨折、97試合出場に止まると、翌年も故障で76試合しか出場できず、成績はさらに悪化した。[[1995年]]は22ホームランで復活したが、それ以降は成績が浮沈を繰り返し隔年選手のような働きぶりだった。<br>それでも、コンスタントに本塁打を記録して、[[2002年]]まで15年連続二ケタ本塁打の記録を樹立。これは現在も[[梁ジュン赫|梁埈赫]]と並ぶ韓国記録である。[[1999年]]はダン・ローマイヤー、ジェイ・デイビスとともに[[クリーンナップ]]を形成して、主砲としてチーム初の韓国シリーズ優勝に貢献。最終戦のなる第5戦で犠牲フライで決勝点をあげた。
しかし、[[1993年]]のシーズン序盤、走塁途中で野手とぶつかり手首を骨折、97試合出場に止まると、翌年も故障で76試合しか出場できず、成績はさらに悪化した。[[1995年]]は22ホームランで復活したが、それ以降は成績が浮沈を繰り返し隔年選手のような働きぶりだった。<br>それでも、コンスタントに本塁打を記録して、[[2002年]]まで15年連続二ケタ本塁打の記録を樹立。これは現在も[[梁埈赫]]と並ぶ韓国記録である。[[1999年]]はダン・ローマイヤー、ジェイ・デイビスとともに[[クリーンナップ]]を形成して、主砲としてチーム初の韓国シリーズ優勝に貢献。最終戦のなる第5戦で犠牲フライで決勝点をあげた。


[[2005年]]まで19年に掛けてチームの中心として後輩たちを率いながら、通算340本の本塁打を記録したが、これは[[梁ジュン赫|梁埈赫]]が[[2009年]][[5月]]に通算341本の新記録を更新するまで韓国プロ野球通算最多記録であった。実働19年も引退当時までは韓国最長記録だった(2014年シーズン終了時点で[[朴勍完]]の実働23年が最長記録)。
[[2005年]]まで19年に掛けてチームの中心として後輩たちを率いながら、通算340本の本塁打を記録したが、これは[[梁埈赫]]が[[2009年]][[5月]]に通算341本の新記録を更新するまで韓国プロ野球通算最多記録であった。実働19年も引退当時までは韓国最長記録だった(2014年シーズン終了時点で[[朴勍完]]の実働23年が最長記録)。


2005年シーズン限りで現役引退。大学、社会人、プロのどこからも呼んでくれなかったテスト生から始まって、アマチュア時代からエリートの道を歩んできた他の選手を抜き、通算打撃記録に関する数々の韓国プロ野球記録を残したため、韓国では彼の選手時代を「'''練習生神話'''」と呼ぶ。19年に渡る選手生活で残した数多くの功績を称えるため、チームは2005年[[9月15日]]に行われた彼の引退試合を無料でファンに開放。満員のファンが押し寄せて、彼の最後の花道を惜しみながら祝ってくれた。そして[[野球の背番号|背番号]]35はチーム史上初の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]となった。
2005年シーズン限りで現役引退。大学、社会人、プロのどこからも呼んでくれなかったテスト生から始まって、アマチュア時代からエリートの道を歩んできた他の選手を抜き、通算打撃記録に関する数々の韓国プロ野球記録を残したため、韓国では彼の選手時代を「'''練習生神話'''」と呼ぶ。19年に渡る選手生活で残した数多くの功績を称えるため、チームは2005年[[9月15日]]に行われた彼の引退試合を無料でファンに開放。満員のファンが押し寄せて、彼の最後の花道を惜しみながら祝ってくれた。そして[[野球の背番号|背番号]]35はチーム史上初の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]となった。

2020年8月13日 (木) 02:40時点における版

張鍾勲(チャン・ジョンフン)
Chang Jong-Hoon
ハンファ・イーグルス 打撃コーチ #35
基本情報
国籍 大韓民国の旗 大韓民国
出身地 忠清北道永同郡
生年月日 (1968-04-10) 1968年4月10日(56歳)
身長
体重
185 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手一塁手指名打者
プロ入り 1986年 ドラフト外でビングレ・イーグルスに入団
初出場 1987年
最終出場 2005年9月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

張 鍾勲(チャン・ジョンフン、ハングル장종훈1968年4月10日 - )はピングレ・イーグルス、ハンファ・イーグルスに在籍していた元プロ野球選手(遊撃手一塁手指名打者)。

経歴

1986年、世光高校からテスト生として入団。
当時の韓国プロ野球は、高校時代からスター選手として頭角を現して、大学・社会人時代にアマチュアの国家代表としての経歴を積んでプロ入りした者でなければ、一軍の枠入りすらままならなかった。高校時代からまったくの無名だったので、大学にも進学できず、プロからの掛け声もなかったが、高校卒業の時、年俸360万ウォン(当時のレートで約50万円)のテスト生としてビングレに入団した。

今の日本プロ野球で言えば、育成選手と同じ扱いだったが、そこで持ち前のパンチ力を見つけられ、1年目から一軍に昇格して打率2割7分、8本塁打を記録。翌年2けたの12本、1988年は18本の本塁打を記録してチームの韓国シリーズ進出に貢献。二遊間コンビといえば、小柄で器用な選手がほとんどだった当時、長打力を備えたショートとして注目を集める。

しかし、守備では動きが硬く、打球処理に不安を持って失策が多かった。1989年のヘテ・タイガースとの韓国シリーズでは初戦をものにしたものの、第2戦で1回に4点を先制して迎えた2回の守備で彼のエラーがきっかけで試合をひっくり返され、そのままシリーズの流れをヘテによこしてしまったのは、彼の守備力に対する印象を決定付けるものだった。

1990年は28本で最多本塁打のタイトルを獲得、期待された巨砲としての素質を開花。しかし、シーズン終盤は故障で出場できなかった。この故障をきっかけにポジションを負担の多いショートから打撃の専念できる一塁手および指名打者に転換。翌年の1991年は35本塁打、114打点でともにシーズン韓国記録を樹立。韓国プロ野球でシーズン100打点を記録した最初の選手だった。この成績を認められ、この年最優秀選手に選ばれた。長良川球場で行われた日韓スーパーゲームの第5戦で場外ホームランを放った。これは長良川球場が出来て初めてのことだった。

1992年はさらに記録を伸ばし韓国初のシーズン40本塁打と119打点で自分の持っていた記録を更新。2年連続最優秀選手に。

しかし、1993年のシーズン序盤、走塁途中で野手とぶつかり手首を骨折、97試合出場に止まると、翌年も故障で76試合しか出場できず、成績はさらに悪化した。1995年は22ホームランで復活したが、それ以降は成績が浮沈を繰り返し隔年選手のような働きぶりだった。
それでも、コンスタントに本塁打を記録して、2002年まで15年連続二ケタ本塁打の記録を樹立。これは現在も梁埈赫と並ぶ韓国記録である。1999年はダン・ローマイヤー、ジェイ・デイビスとともにクリーンナップを形成して、主砲としてチーム初の韓国シリーズ優勝に貢献。最終戦のなる第5戦で犠牲フライで決勝点をあげた。

2005年まで19年に掛けてチームの中心として後輩たちを率いながら、通算340本の本塁打を記録したが、これは梁埈赫2009年5月に通算341本の新記録を更新するまで韓国プロ野球通算最多記録であった。実働19年も引退当時までは韓国最長記録だった(2014年シーズン終了時点で朴勍完の実働23年が最長記録)。

2005年シーズン限りで現役引退。大学、社会人、プロのどこからも呼んでくれなかったテスト生から始まって、アマチュア時代からエリートの道を歩んできた他の選手を抜き、通算打撃記録に関する数々の韓国プロ野球記録を残したため、韓国では彼の選手時代を「練習生神話」と呼ぶ。19年に渡る選手生活で残した数多くの功績を称えるため、チームは2005年9月15日に行われた彼の引退試合を無料でファンに開放。満員のファンが押し寄せて、彼の最後の花道を惜しみながら祝ってくれた。そして背番号35はチーム史上初の永久欠番となった。

引退後は2軍打撃コーチとしてチームに残り、若手の育成に力を注いだ。2008年から1軍打撃コーチに昇格。金泰均(キム・テギュン)、(イ・ボムホ、2011年より起亜)など、自身が引退した後のチームを支えた主砲たちを指導した。

2012年福岡ソフトバンクホークスの2軍・3軍の打撃コーチとなり、日本で研修を受けた。
2013年よりハンファの1軍打撃コーチに復帰。
2015年よりロッテ・ジャイアンツのコーチとなる。
2017年10月、ハンファに打撃コーチとして復帰することが発表された。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1987 ピングレ 94 331 281 24 76 15 0 8 115 34 1 6 11 0 30 0 9 62 4 .270 .359 .409 .769
1988 108 406 344 53 83 20 4 12 147 57 3 1 3 6 43 0 10 95 1 .241 .338 .427 .765
1989 112 301 256 49 65 11 0 18 130 46 6 4 2 3 33 0 7 55 3 .254 .351 .508 .859
1990 120 496 411 73 119 15 3 28 224 91 8 7 0 5 69 5 11 84 3 .290 .401 .545 .946
1991 126 558 464 104 160 24 4 35 297 114 21 11 0 3 76 8 15 88 12 .345 .450 .640 1.090
1992 125 556 431 106 129 28 2 41 284 119 13 5 0 6 106 15 13 99 5 .299 .446 .659 1.105
1993 97 412 339 58 100 21 0 17 172 58 12 2 0 6 58 7 9 68 4 .295 .405 .507 .913
1994 ハンファ 79 283 243 33 65 11 3 10 112 34 5 1 1 1 36 5 2 60 1 .267 .365 .461 .826
1995 126 498 420 77 137 25 4 22 236 78 8 9 0 4 68 16 6 63 10 .326 .424 .562 .986
1996 90 340 289 50 77 18 0 15 140 57 8 4 0 3 37 6 11 63 2 .266 .368 .484 .852
1997 121 499 427 74 125 27 1 22 220 76 15 8 0 5 63 8 4 76 9 .293 .385 .515 .900
1998 118 489 437 60 120 17 1 17 190 66 3 5 0 4 41 5 7 69 13 .275 .344 .435 .778
1999 126 531 465 80 132 31 2 27 248 86 4 4 0 4 54 0 8 93 11 .284 .365 .533 .899
2000 127 512 447 66 118 19 0 28 221 81 1 3 0 2 52 5 11 114 15 .264 .354 .494 .848
2001 120 421 366 55 100 16 0 15 161 54 11 4 2 4 45 4 4 87 7 .273 .356 .440 .796
2002 101 331 302 38 75 15 0 12 126 42 2 2 1 2 24 1 2 88 1 .248 .306 .417 .723
2003 83 234 206 21 50 8 1 6 78 24 1 3 4 1 21 1 2 56 5 .243 .317 .379 .696
2004 70 165 153 21 39 10 0 6 67 27 0 1 2 0 10 0 0 31 4 .255 .301 .438 .739
2005 7 11 11 1 1 0 0 1 4 1 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .091 .091 .364 .455
KBO:19年 1950 7374 6292 1043 1771 331 25 340 3172 1145 122 80 26 59 886 86 131 1354 110 .281 .377 .504 .881
  • 各年度の太字はリーグ最高

獲得タイトル・受賞経歴

  • MVP-2回(1991、1992)
  • 最高出塁率-1回(1995)
  • 最多本塁打-3回(1990、1991、1992)
  • 最多打点-3回(1990、1991、1992)
  • ゴールデングラブ賞-5回
    遊撃手(1988、1990)、指名打者(1991)、一塁手(1992、1995)