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「小松みどり (1891年生)」の版間の差分

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;日活太秦撮影所
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* 『[[建国史 尊王攘夷]]』 : 監督池田富保、1927年10月1日公開 - [[井伊直弼|井伊公]][[貞鏡院|奥方昌子の方]]
* 『[[建国史 尊王攘夷]]』 : 監督池田富保、1927年10月1日公開 - [[井伊直弼|井伊公]][[貞鏡院|奥方昌子の方]]
* 『[[弥次多 尊王の巻]]』 : 監督池田富保、1927年12月31日公開 - お勝
* 『[[弥次多 尊王の巻]]』 : 監督池田富保、1927年12月31日公開 - お勝
* 『[[弥次喜多 韋駄天の巻]]』 : 監督池田富保、1928年1月14日公開 - お勝
* 『[[弥次喜多 韋駄天の巻]]』 : 監督池田富保、1928年1月14日公開 - お勝
* 『[[弥次喜多 伏見鳥羽の巻]]』 : 監督池田富保、1928年2月1日公開 - お勝
* 『[[弥次喜多 伏見鳥羽の巻]]』 : 監督池田富保、1928年2月1日公開 - お勝

2020年8月12日 (水) 21:35時点における版

こまつ みどり
小松 みどり
本名 谷 喜久 (たに きく)
別名義 小松 美登里
生年月日 (1891-09-09) 1891年9月9日
没年月日 (1982-10-26) 1982年10月26日(91歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市小石川区
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市
職業 女優
ジャンル 劇映画サイレント映画トーキー)、新派
著名な家族 中川芳江 (姉)
賀古残夢 (義兄)
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小松 みどり(こまつ みどり、1891年9月9日 - 1982年10月26日)は、日本の女優である[1][2][3][4]1940年代前半の一時期、小松 美登里と表記した時期がある[2]。本名は谷 喜久(たに きく)[3]

人物・来歴

1891年明治24年)9月9日東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区西部地域)に生まれる[1][3][4]。姉は同じく女優の中川芳江(出生名:谷芳子、1886年 - 1953年)[5]

1895年(明治29年)、数え年5歳のころから坂東流日本舞踊を身につけ、1911年(明治44年)には、日本橋区中洲(現在の東京都中央区日本橋中洲)にあった新派の劇場、真砂座に姉とともに参加、翌1912年(大正元年)には舞台デビューしている[4]松竹合名の招きで、1915年(大正4年)、京都の第二京極にある「大正座」に参加する[4]

その後、1919年(大正8年)12月6日に設立された映画会社、国際活映に入社、同社の巣鴨撮影所が製作し始めた新派映画に、五味国太郎酒井健三らとともに出演する[6]。翌1920年(大正9年)、同社の角筈撮影所(所長桝本清)が開所すると異動になり、同撮影所の開所第1作、野村愛正脚本、細山喜代松監督による長篇映画『短夜物語』に、林千歳高勢実らとともに出演する[6][7][8]。同作は、同年7月1日、同年5月にオープンした新宿武蔵野館ほかで公開された[6][7]。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の後、松竹下加茂撮影所に入社する[2][4]。同撮影所では、もっぱら賀古残夢監督による澤村四郎五郎主演作における相手役を演じた[2]

1925年(大正14年)には、日活京都撮影所第一部(時代劇部)に移籍している[2][4]

1941年(昭和16年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、小松は同社に継続入社する[2][4]第二次世界大戦の終結後も、引き続き同撮影所に所属した。1951年(昭和26年)、1953年(昭和28年)の『キネマ旬報』の記事によれば、川口松太郎(1951年)あるいは酒井箴(1953年)が所長であった当時、小松は「製作部俳優課俳優」、つまり社員として大映京都撮影所に所属していた[9]。これは橘公子大伴千春近江輝子山本富士子のような技術契約者としての俳優ではなく、いわゆる大部屋女優である[9]。1960年代にも出演を続け、満73歳を迎える1964年(昭和39年)には引退した[2][4]。引退後も引き続き京都府京都市等持院地区に住んだ[5]

1982年(昭和57年)10月26日、京都市内で死去した[1]。満91歳没。姉の夫は映画監督の賀古残夢(1869年 - 1938年)[5]

フィルモグラフィ

一番左の横顔が小松(当時満46歳)。その右が大倉千代子、以降左から藤川三之祐志村喬原駒子…。『血煙高田の馬場』(監督マキノ正博、1937年)のスチル写真

すべてクレジットは「出演」である[2]。役名のわかるものは公開日の右側に記し[2]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[10][11]

国際活映

松竹下加茂撮影所

すべて製作は「松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹キネマ」である[2]

日活大将軍撮影所

特筆以外すべて製作は「日活大将軍撮影所」あるいは「日活京都撮影所第一部」(いずれも所在地は大将軍)、配給は「日活」である[2]

日活京都撮影所第一部
日活大将軍撮影所

日活京都撮影所

特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」あるいは「日活京都撮影所」(いずれも所在地は太秦)、配給は「日活」である[2]

日活太秦撮影所
日活京都撮影所

大映京都撮影所

特筆以外はすべて製作は「大映京都撮影所」、配給は「大映」である[2]

引退後

脚注

  1. ^ a b c 小松みどりjlogos.com, エア、2012年11月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 小松みどり日本映画データベース、2012年11月15日閲覧。
  3. ^ a b c 小松みどりKINENOTE, 2012年11月15日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h Midori Komatsu, インターネット・ムービー・データベース (英語), 2012年11月15日閲覧。
  5. ^ a b c キネマ旬報[1976] ,p.471.
  6. ^ a b c 田中、p.292-293.
  7. ^ a b 短夜物語、日本映画データベース、2012年11月15日閲覧。
  8. ^ 渡邉、p.23-24.
  9. ^ a b 大映京撮スタッフ紹介立命館大学、2012年11月16日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap 小松みどり東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月14日閲覧。
  11. ^ a b c 小松美登里、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月14日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク