「恭聖仁烈皇后」の版間の差分
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寧宗にもっとも寵愛され、慶元3年(1197年)4月に[[婕妤]]に上った。この頃、楊次山およびその姉妹の楊蘭枝なる会稽人の姉妹を自称し、「楊桂枝」の名が記録された。さらに婉儀(嬪)、次いで貴妃に上った。[[恭淑皇后|韓皇后]]が崩御すると、[[曹婕妤|曹美人]]と後継の座を争った末、[[嘉泰 (宋)|嘉泰]]2年(1202年)12月に皇后に立てられた。 |
寧宗にもっとも寵愛され、慶元3年(1197年)4月に[[婕妤]]に上った。この頃、楊次山およびその姉妹の楊蘭枝なる会稽人の姉妹を自称し、「楊桂枝」の名が記録された。さらに婉儀(嬪)、次いで貴妃に上った。[[恭淑皇后|韓皇后]]が崩御すると、[[曹婕妤|曹美人]]と後継の座を争った末、[[嘉泰 (宋)|嘉泰]]2年(1202年)12月に皇后に立てられた。 |
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曹美人を皇后に強く推した[[韓侂冑]](韓皇后の同族)は楊氏の恨みを買い、[[史弥遠]]が[[開禧]]3年(1207年)に韓侂冑を殺害した際、楊氏はこれに協力している。 |
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楊氏は2人の男子を産んだが、みな夭折した。他の男子もみな夭折しており、寧宗は従兄弟の沂王趙抦の嗣子であった[[趙竑]]を自身の養子とした。しかし趙竑は楊皇后らの専権を憎み、史弥遠の追放を画策した。[[嘉定 (南宋)|嘉定]]17年(1224年)8月、寧宗が危篤状態になると、楊皇后は趙竑を廃し、燕王[[趙徳昭]]の9世孫の趙昀(のちの[[理宗]])が太子に冊立された。 |
楊氏は2人の男子を産んだが、みな夭折した。他の男子もみな夭折しており、寧宗は従兄弟の沂王趙抦の嗣子であった[[趙竑]]を自身の養子とした。しかし趙竑は楊皇后らの専権を憎み、史弥遠の追放を画策した。[[嘉定 (南宋)|嘉定]]17年(1224年)8月、寧宗が危篤状態になると、楊皇后は趙竑を廃し、燕王[[趙徳昭]]の9世孫の趙昀(のちの[[理宗]])が太子に冊立された。 |
2020年8月12日 (水) 06:33時点における版
楊皇后 | |
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南宋の皇后 | |
《宋寧宗后坐像》 | |
在位 | 1202年12月29日[1] - 1224年9月17日 |
全名 | 楊桂枝 |
別称 |
恭聖仁烈皇后 寿明仁福慈睿皇太后 |
出生 |
紹興32年5月16日[2] (1162年6月30日) |
死去 |
紹定5年12月7日 (1233年1月18日) |
埋葬 | 永茂陵 |
配偶者 | 寧宗 |
子女 |
趙增 趙埛 |
恭聖仁烈皇后(きょうせいじんれつこうごう、1162年6月30日 - 1233年1月18日)は、南宋寧宗の2番目の皇后。姓諱を楊 桂枝(よう けいし)と称した。
生涯
初め後宮に入り、女伶[3]を務めた。会稽の人というが、この当時は身分や姓名の記録がなかった。美貌で多芸多才、書にたくみで、絵画もよくした。平陽郡王趙拡(のちの寧宗)に見初められ、寧宗が即位した翌年(慶元元年、1195年)、太皇太后呉氏から寧宗に妃嬪として与えられ、平楽郡夫人に封ぜられた。
寧宗にもっとも寵愛され、慶元3年(1197年)4月に婕妤に上った。この頃、楊次山およびその姉妹の楊蘭枝なる会稽人の姉妹を自称し、「楊桂枝」の名が記録された。さらに婉儀(嬪)、次いで貴妃に上った。韓皇后が崩御すると、曹美人と後継の座を争った末、嘉泰2年(1202年)12月に皇后に立てられた。
曹美人を皇后に強く推した韓侂冑(韓皇后の同族)は楊氏の恨みを買い、史弥遠が開禧3年(1207年)に韓侂冑を殺害した際、楊氏はこれに協力している。
楊氏は2人の男子を産んだが、みな夭折した。他の男子もみな夭折しており、寧宗は従兄弟の沂王趙抦の嗣子であった趙竑を自身の養子とした。しかし趙竑は楊皇后らの専権を憎み、史弥遠の追放を画策した。嘉定17年(1224年)8月、寧宗が危篤状態になると、楊皇后は趙竑を廃し、燕王趙徳昭の9世孫の趙昀(のちの理宗)が太子に冊立された。
理宗が即位すると皇太后となり、垂簾聴政した。紹定5年12月7日(西暦1233年1月18日)、慈明殿にて71歳で崩御。
男子
- 趙增 (1200年 - 1201年)
- 趙埛 (1203年生没)
伝記資料
- 『宋史』
- 『宋会要輯稿』