「金 (王朝)」の版間の差分
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平和が長引き、女真の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(契丹族を含む)との割合は1:6ほどであったので、女真の軍事力の弱体化が問題となった。世宗は[[漢化]]の傾向に歯止めをかけるために、女真語の普及、[[四書五経]]などの漢文献の[[女真文字]]へ翻訳・女真語による[[科挙]]の実施など様々な政策を打ち出したが、女真の経済的な没落もいちじるしく、女真の弱体化はさらに進んだ。 |
平和が長引き、女真の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(契丹族を含む)との割合は1:6ほどであったので、女真の軍事力の弱体化が問題となった。世宗は[[漢化]]の傾向に歯止めをかけるために、女真語の普及、[[四書五経]]などの漢文献の[[女真文字]]へ翻訳・女真語による[[科挙]]の実施など様々な政策を打ち出したが、女真の経済的な没落もいちじるしく、女真の弱体化はさらに進んだ。 |
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世宗の後を継いで[[1189年]]に即位した[[章宗 (金)|章宗]]は漢文化への傾倒が激しく、第2の北宋の徽宗を自認して、[[絵画]]・[[書道|書]]の作品を残した。また、この時期は国内が安定したこともあって{{仮リンク|明昌の治|zh|明昌之治}}とも称されている。しかし、北方[[モンゴル高原]]では部族勢力の動きが活発化して[[タタル部]]や契丹の反乱が激しくなり、金は鎮圧に際して[[ケレイト]]やモンゴルの助けを借りたため彼らの勢力が増大し、[[1206年]]にモンゴルの[[チンギス・カン]]による高原の統一を間接的に助ける結果となった。一方、北方の動乱の情報を得て金が疲弊したと考えた南宋の宰相[[ |
世宗の後を継いで[[1189年]]に即位した[[章宗 (金)|章宗]]は漢文化への傾倒が激しく、第2の北宋の徽宗を自認して、[[絵画]]・[[書道|書]]の作品を残した。また、この時期は国内が安定したこともあって{{仮リンク|明昌の治|zh|明昌之治}}とも称されている。しかし、北方[[モンゴル高原]]では部族勢力の動きが活発化して[[タタル部]]や契丹の反乱が激しくなり、金は鎮圧に際して[[ケレイト]]やモンゴルの助けを借りたため彼らの勢力が増大し、[[1206年]]にモンゴルの[[チンギス・カン]]による高原の統一を間接的に助ける結果となった。一方、北方の動乱の情報を得て金が疲弊したと考えた南宋の宰相[[韓侂冑]]は、これを好機と見て[[1205年]]に金に攻め込んだが、金に撃退され、南宋は韓侂冑の首と引き換えに和約を結んだ([[開禧用兵]])。 |
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2020年8月12日 (水) 06:31時点における版
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金(きん、拼音:Jīn、女真語: [amba-an antʃu-un]、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。
国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省ハルピン市)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。
歴史
靖康の変まで
金建国前の女真(ジョシン)は、現在の中国東北地区(満州)黒竜江省の松花江の支流・按出虎水(アルチュフ川)流域にいて、遼に対して服属していた。しかし遼の支配者たちは奢侈が募り、女真に対して過酷とも言える搾取を行っていた。これに対し、女真族の完顔部から出た阿骨打が反乱を起こし、1115年に按出虎水の河畔で即位し、「金」(女真語でアルチュフ)を国号とした。この国号は、女真族が按出虎水から産出する砂金の交易によって栄えたことによるとされる。最初の首都となった会寧(上京会寧府)は按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる。
金は1120年に北宋と「海上の盟」と称される盟約を結び、遼を挟撃して分割し、宋側には燕雲十六州を引き渡すことを約束した。しかし、宋は攻略にてこずったために金が燕京(現在の北京)を落とし、宋に割譲した。阿骨打は1123年に死去するが、弟の呉乞買(太宗)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた遼の最後の皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴルを支配した。
一方、燕京を手に入れた宋軍は、遼の残存勢力と手を組んで金を牽制するなど、盟約に従って燕京を割譲した金に対する背信行為を繰り返したので、これに怒った太宗は1125年9月宋に侵攻し(靖康の変、1125年9月 - 1127年3月)、華北を席捲し、宋の首都開封を包囲した。宋では欽宗が新たに即位して金の包囲に耐え、金もいったん和議を行い北に引き揚げた。しかし金軍がいなくなると、またしても宋は背信して和約を破ろうとしたので、1127年に金軍は再び南下して開封を陥落させ、欽宗を北方に連行し北宋を滅ぼし、中国の北半を征服した。またこの時金軍は、欽宗のみならずその父の上皇徽宗、および多くの皇族や妃、公主たちをも連行し、妃や公主たちは全員が金の後宮に送られるか、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦とさせられた[1]。
中国の南北分裂
こうして金は北宋を滅ぼしたが、中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点をあきらかにした。太宗は過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にしようとした。太宗ははじめ宋の宰相であった張邦昌を皇帝に据え、国号を楚とさせた。しかし張邦昌は、金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝位につける運動に加わった。
その後、趙構らは南に逃れ、南方の北宋残存勢力を糾合して南宋を立てた。金は、1125年から南宋に対する懲罰を名目として再度の南征を開始し(宋金戦争、1125年 - 1234年)、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦った。
1130年、金は南宋の力を弱めるために、宋の地方知事であった劉豫を皇帝に立てて斉を樹立し、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功した。同年、宋の官僚秦檜が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握った。金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力交代の末、1142年に両国の間で最初の和約が結ばれた(紹興の和議)。この和約は宋は金に対して臣下の礼をとり、歳幣を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であった。
漢化の進展
これより前、1149年に先代の熙宗を殺して帝位についた4代海陵王は宗室や有力者を大量に殺して独裁権を確立し、都を会寧から燕京に遷都して中央集権国家樹立を目指す改革を進めた。1161年、海陵王は中国の再統一を企図し、南宋を滅ぼすために南征の軍を起こした。金軍は60万と号する大軍であったが、慣れない水戦に苦戦した。その間に各地で契丹族の反乱が勃発した。海陵王はその知らせを聞いても強硬に宋征服を続けたが、海陵王の恐怖政治をきらった有力者たちが東京(遼陽)にいた皇族の烏禄(世宗)を擁立し、金の人々は雪崩を打って烏禄に味方した。海陵王は軍中で殺害され、烏禄が即位した。
世宗は海陵王の死後に北進してきた南宋軍を撃破し、1164年に和約を結んだ(乾道の和約)。そして契丹族の反乱を速やかに収めて国内を安定させた。さらに世宗は海陵王の遠征で大量に消費された財政の再建をめざし、増税や官吏の削減を行った。
同時期に南宋で、こちらも南宋随一の名君とされる孝宗が立ち、その後40年にわたって両国の間では平和が保たれたので、金は繁栄と安定をきわめ(大定の治)、世宗は「小堯舜」と称えられた。一方で、重税や社会的な引締めによって民衆生活は圧迫され、この頃から金末の衰亡に繋がる反乱が頻発するようになったとする指摘もある。
衰退
平和が長引き、女真の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(契丹族を含む)との割合は1:6ほどであったので、女真の軍事力の弱体化が問題となった。世宗は漢化の傾向に歯止めをかけるために、女真語の普及、四書五経などの漢文献の女真文字へ翻訳・女真語による科挙の実施など様々な政策を打ち出したが、女真の経済的な没落もいちじるしく、女真の弱体化はさらに進んだ。
世宗の後を継いで1189年に即位した章宗は漢文化への傾倒が激しく、第2の北宋の徽宗を自認して、絵画・書の作品を残した。また、この時期は国内が安定したこともあって明昌の治とも称されている。しかし、北方モンゴル高原では部族勢力の動きが活発化してタタル部や契丹の反乱が激しくなり、金は鎮圧に際してケレイトやモンゴルの助けを借りたため彼らの勢力が増大し、1206年にモンゴルのチンギス・カンによる高原の統一を間接的に助ける結果となった。一方、北方の動乱の情報を得て金が疲弊したと考えた南宋の宰相韓侂冑は、これを好機と見て1205年に金に攻め込んだが、金に撃退され、南宋は韓侂冑の首と引き換えに和約を結んだ(開禧用兵)。
滅亡
そのような中で7代衛紹王が即位すると、チンギス・カンはこれに対する朝貢を拒否して金と断交し、1211年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した。内モンゴルにいた契丹人を服属させたモンゴル軍は金軍を破って長城を突破し、2年あまりにわたって金の国土を略奪した。1212年には契丹人の耶律留哥が叛乱を起こして分離、現在の吉林省から遼寧省にかけて広がり、モンゴル勢力下に入った(東遼)。敗北を重ねた金では、1213年にクーデターが起こって将軍胡沙虎によって衛紹王が殺され、さらに胡沙虎自身が殺された。敗北を重ねた新帝宣宗は、同年にモンゴルに対する和議に踏み切り、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳貢を納めることを約束し、公主(廃帝・衛紹王の皇女)をチンギスに嫁がせる内容の講和を結んだ。
講和によりチンギスは撤兵するが、金は翌1214年にモンゴルを避けるため河南の開封に遷都した。このとき、金の南遷に動揺した契丹の一部が中都(燕京)で反乱しモンゴルに援軍を求め、チンギスも金の南遷を和約違反と責めて金に対する再侵攻を開始した。1215年夏、半年以上モンゴル軍の包囲にさらされた末に中都は陥落し、金は故地東北を含む黄河以北の大部分を失った。同年、耶律留哥の叛乱鎮圧を担当していた蒲鮮万奴が分離して大真国(東真国・東夏国)を建て、遼東半島の一部から沿海州南部までを支配した。
金は開封を都とし、河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止められず、1232年、三峰山の戦いで大敗し、軍主力が消滅した。以後は抵抗もままならず、1234年に開封を包囲、占領された。皇帝哀宗は開封から脱出し蔡州に逃れるところを、モンゴルと南宋の連合軍に挟撃されて自殺、後を受けた末帝も即位からわずか半日でモンゴル軍に殺害され、ここに金は滅亡した。
なお、17世紀になって同じ女真族が「金」を名乗る王朝を建てたが、これは「後金」と呼ばれて区別される。後金はのちに「清」と改称し、大帝国を築いた。
政治
王朝の創建当初、政治機構は女真式のものがとられた。金には建国以前から勃極烈(ボギレ)と呼ばれる君長層がおり、阿骨打は皇帝に即位する以前、その筆頭として都勃極烈を称していた。金の建国後、勃極烈制度が整備され、4段階のランクにわけられた勃極烈に皇帝の兄弟や部族の有力者が任ぜられ、合議制によって金の政治を議した。
華北の征服後、太宗から熙宗の時代に行政機構の改革が行われ、宋や遼にならった中国式の官制が導入されて勃極烈にかわって尚書省や中書省が設置された。しかし、その後も宗室の一族や有力者が政権に大きな影響力を持ち、宰相格の重職は彼らが務めた。熙宗や海陵王はいずれも一族・重臣によって廃位されるが、これは彼らが有力者を無視して強引に皇帝の独裁権をふるおうとしたため、これに反発する形で廃位された面もある。
また、一般の女真人は猛安(ミンガン)と謀克(ムケ)の二段階の組織構造をもった集団に編成された。猛安・謀克は民生制度であると同時に軍事制度であり、猛安と謀克の組織を通じて徴募された女真人の武力が金の領土拡大に大きな役割を果たした。金が北中国を占領すると女真人は集団的に原住地から引き離されて中国各地に屯田させられ、猛安は部族単位から地方単位に再編成された。
世宗から章宗の治世にかけて南宋との戦争が止み平和が長期化すると女真人の気風が形骸化し、経済的な没落が進んだ。さらに漢人に取り囲まれて居住しているために文化的には漢化し、女真人の組織力は弱体化していった。
行政区画
金では19の路に分け、その下に府(州)、その下に県を置いた。
文化
陶磁器の生産については、鈞窯の濃い赤紫色の澱青釉や紫紅釉と呼ばれる釉薬のかけられた瓶子や盤の優品が作られた。定窯の白磁も引き続き生産され続け、優れたものが多く見られる。
文学では、宋代に発生した雑劇を継承し、元曲の祖形となった「院本」や「諸宮調」と呼ばれる一種の古典劇がつくられた。代表的なものは薫解元の「西廂記諸宮調」などが挙げられる。また詞人に元好問がいる。
書画では、皇帝である章宗が北宋の徽宗風の作品を残した。
金の皇帝
順に廟号または諡号(廃帝は王号)、女真名、中国名、在位年、続柄を示す。
- 太祖(阿骨打=アクダ、完顔旻 1115年 - 1123年)世祖・劾里鉢=ガリベチの次子。
- 太宗(呉乞買=ウキマイ、完顔晟 1123年 - 1135年)劾里鉢の四子。太祖の末弟。
- 熙宗(合剌=ホラ、完顔亶 1135年 - 1149年)太祖の嫡子繩果=ジェンガ(徽宗/完顔宗峻)の長子。
- 海陵煬王(迪古乃=テクナイ、完顔亮 1149年 - 1161年)太祖の庶長子斡本=オベン(完顔宗幹)の次子。
- 世宗(烏禄=ウル、完顔雍・褎 1161年 - 1189年)太祖の庶子訛里朶=オリド(睿宗/完顔宗堯)の嫡子。
- 章宗(麻達葛=マダガ、完顔璟 1189年 - 1208年)世宗の次子胡土瓦=クトゥハ(顕宗/宣孝太子・完顔允恭)の次子。
- 衛紹王(果繩=ガジェン、完顔永済・允済 1208年 - 1213年)世宗の七子。章宗の叔父。
- 宣宗(吾睹補=ウトゥプ、完顔珣 1213年 - 1223年)胡土瓦(完顔允恭)の庶長子。章宗の異母兄。
- 哀宗(寧甲速=ニンキャス、完顔守緒・守礼 1223年 - 1234年)宣宗の三子。別称:義宗。
- 末帝(呼敦=ホトン、完顔承麟 1234年)劾里鉢の末裔。
系図
烏古廼 (景祖) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
劾里鉢 (世祖) | 頗剌淑 (粛宗) | 盈歌 (穆宗) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
烏雅束 (康宗) | 阿骨打 太祖 1 | 呉乞買 太宗 2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斡本 (徳宗) | 繩果 (徽宗) | 訛里朶 (睿宗) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
海陵王 4 | 熙宗 3 | 世宗 5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
胡土瓦 (顕宗) | 衛紹王 7 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宣宗 8 | 章宗 6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
末帝 10 | 哀宗 9 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
太字は皇帝、数字は即位順、括弧は追尊された人物の廟号。
金の年号
- 収国(1115年 - 1116年)
- 天輔(1117年 - 1123年)
- 天会(1123年 - 1137年)
- 天眷(1138年 - 1140年)
- 皇統(1141年 - 1149年)
- 天徳(1149年 - 1153年)
- 貞元(1153年 - 1156年)
- 正隆(1156年 - 1161年)
- 大定(1161年 - 1189年)
- 明昌(1190年 - 1196年)
- 承安(1196年 - 1200年)
- 泰和(1201年 - 1208年)
- 大安(1209年 - 1211年)
- 崇慶(1212年 - 1213年)
- 至寧(1213年)
- 貞祐(1213年 - 1217年)
- 興定(1217年 - 1222年)
- 元光(1222年 - 1223年)
- 正大(1224年 - 1231年)
- 開興(1232年)
- 天興(1232年 - 1234年)
脚注
- ^ 『靖康稗史箋證・卷3』