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2020年8月12日 (水) 05:03時点における版

南北国時代
新羅・渤海併存時代の地図(830年頃)
各種表記
ハングル 남북국 시대
漢字 南北國 時代
発音 ナムブクグクシデ
ローマ字 Nambukguk-sidae
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渤海及び後期新羅時期
各種表記
ハングル 발해 및 후기신라 시기
漢字 渤海 및 後期新羅 時期
発音 パルヘ ミッ フギシンラ シギ
ローマ字 Parhae mich Hugisilla-sigi
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南北国時代(なんぼくこくじだい)は、「統一新羅(南)が渤海(北)と並立していた」と見なす歴史認識に基づいて、主に韓国1970年代から用いられ始めた朝鮮史時代区分である。北朝鮮1960年代から同様の歴史認識をしているが、「南北国時代」なる用語は使わず、渤海及び後期新羅時期(ぼっかいおよびこうきしんらじき)と表記している[1]

この用語は渤海を朝鮮民族の民族史に組み込む意図(朝鮮の歴史観)で用いられており、渤海の遺領を継承する中国ロシア、歴史的に渤海研究を主導してきた日本では受け入れられていない。特に中国は、中国社会科学院を中心に「古朝鮮高句麗扶余渤海は歴史が一脈相通じる韓民族の歴史ではなく、古代中国の地方民族政権の歴史で、中国の歴史である」と主張し、かつ「渤海建国の主導勢力は高句麗人ではなく靺鞨族で、渤海の建国者大祚榮は渤海初期に靺鞨を正式国号に採択した」と見ているため[2]、渤海を自国の古代国家と主張する韓国と激しく対立している。

なお、渤海を朝鮮史に組み込まない中国や日本等では、三国統一後の時代を統一新羅時代(とういつしらぎじだい、统一新罗时代)と称している。

統一新羅と渤海

朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東都護府
668-756
渤海
698-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

満洲南部から朝鮮半島北部にかけては紀元前から高句麗が勢力を維持していたが、668年と新羅の連合軍に滅ぼされた。後に唐は朝鮮半島から撤退し、新羅は高句麗故地の南部を占領した。これにより朝鮮半島が統一されたとして、以降の新羅は統一新羅と呼ばれる。一方、高句麗遺民の一部は、唐から渤海郡王に冊封され、更に渤海国王に薦められた粟末靺鞨大祚榮の下に合流した。これにより国名は「渤海」と呼ばれる。渤海は満洲東部、ロシア沿海州から朝鮮半島北部にかけてを領土とした。渤海と新羅はほぼ全時代にわたって激しく対立した。渤海は926年に契丹に滅ぼされ、故地には東丹国がおかれたが後に南遷した。同じ頃、918年に朝鮮半島中部に高麗が興り、935年に新羅を征服した。渤海故地では混乱が続き、のちに女真族が勃興する。

史学史

「南北国時代」論の歴史は非常に新しい。この議論の引き金を引いたのは、北朝鮮の朴時亨の論文「渤海史研究のために」(1962年)である。それまで北朝鮮の公的史観において、レーニンの民族論をベースにして、新羅の三国統一が朝鮮準民族(ナロードノスチ)形成の契機とされていた。朴時亭以後は、三国鼎立、南北両立、そして高麗による統合という新たな歴史観が北朝鮮の公的見解となった。これにあわせて「統一新羅」は「後期新羅」(후기신라)と呼ばれるようになった。ただし、北朝鮮では「南北国」なる用語は使わず、「渤海及び後期新羅」と表記している[3]。北朝鮮と「朝鮮の国家」としての正統性を争う韓国では、遅れて李佑成が「南北国時代と崔致遠」(1975年)を発表し、新羅と渤海の並立時代を「南北国時代」と規定した。この規定は民族主義的な韓国史学において受け入れられ、国定教科書に記述されるに至っている。ただし、北朝鮮と異なり「統一新羅」の呼称は引き続き用いられている。

朴時亨の論文「渤海史研究のために」では、新羅時代にすでに「南北朝」という概念があったと主張しており、「南北朝」は「まさしく統一を実現しようとする同族の全体の一部である」している[4]韓東育は、「朴教授の学術理念を理解する上で役立つかもしれない。」として、朴時亨の学術理念をこう見る[5]

1962年末か1963年春頃、朝鮮最高人民会議常任委員会の崔庸健委員長は、周恩来総理にたびたび中国東北地方の考古調査や発掘を進行させるよう要求した。崔の主張の大意は、以下のようである。国際上の帝国主義修正主義や反動派は我国を封鎖して孤立させ、我々を小民族、小国家、自己の歴史や文化を持たず、国際的な地位を有しないと中傷した。我々は中国東北地方の考古学を進行させ、自己の歴史を明確にし、古朝鮮の発祥地を探すことを要求する。周総理は一面では同意を示し、他面では婉曲的に古朝鮮が我国の東北地方に起源を持つという観点に対して反対した。周総理が言うには、「我々は、古朝鮮の起源が我国の東北地方とは決まっておらず、我国の福建省を起源とする可能性がある。朝鮮の同志は、水稲を植え、米を食し、またみんな下駄を履いており、飲食や生活習慣が福建と同じである。また、朝鮮語の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音と我国福建の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音は同じであり、福建の古代住民が朝鮮半島に渡来した可能性がある」というものであった。

朝鮮における南北国時代論

李氏朝鮮中期に、朴趾源は、漢朝の領土が鴨緑江の南に広がっていたという事実を否認した。そして、渤海を朝鮮史から除いた『三国史記』の著者金富軾を批判し、渤海は高句麗の子孫だと主張した[6]李圭景は、渤海の朝鮮史からの除外は「それが広大な領域を占めていた」ため、「重大な誤り」だと批判した[7]。しかし、李氏朝鮮後期、渤海の創設者が朝鮮人とは考えられない靺鞨人であることを認めるにもかかわらず、渤海を朝鮮史に含める歴史家が増えた[8]。18世紀には次のように意見が分かれていた。星湖李瀷安鼎福は渤海を朝鮮史の一部にすること断固として拒否した。一方、申景濬朝鮮語: 신경준と​柳得恭は渤海を完全に朝鮮史に組み込んた。1世紀後、韓致奫朝鮮語: 한치윤韓鎭書朝鮮語: 한진서は、新羅のような議論のない朝鮮の王朝と等しいものとして渤海を朝鮮史に組み込んだ[9]申采浩は、渤海や夫余を朝鮮史から除いたと『三国史記』の著者金富軾を批判した[10]。申は、渤海が女真の金朝に敗れたことを「私たちの祖先檀君の古代の土地の半分を…900年以上の間失った」と解釈した[11]。北朝鮮の学者、および最近の韓国の学者は、統一新羅が最初の朝鮮統一との見解に挑戦することにより、渤海の歴史を朝鮮史の不可欠な部分として組み込もうする。それによると、渤海が朝鮮半島北部の旧高句麗の領土を占めながらまだ存在していたから、高麗が最初の朝鮮統一だった[12][13]

「南北国時代」論者は、南北国時代という用語の初出は新羅後期の崔致遠による『崔文昌侯全集』と主張する。崔致遠の唐への上表文では、渤海を指して「北国」と記している。しかし、渤海が新羅を「南国」と呼んだというのは史料の裏付けのない憶測に過ぎない。「南北国時代」論者は、ついで高麗時代の『三国史記』に見える「北国」用例をあげるが、都合の悪いことに、同じ『三国史記』にみえる「北朝」は北方の契丹を指している。そもそも『三国史記』には渤海関係記事はほとんどみえず、わずかに唐・新羅と渤海との紛争が記録されているにすぎない。李承休の『帝王韻紀』が歴代「東国君王」の一つとして渤海を取り上げている。

李氏朝鮮の実学者柳得恭が『渤海考』の中で、「高麗は南方の新羅、北方の渤海をあわせて南北国史を編纂すべきだったのに、これをしなかったため渤海故地をえる根拠を失い弱国となった」と主張しており、「南北国時代」論者はこれを特筆する。しかし、李氏朝鮮におけるメインストリームの見解は、『東国通鑑』に「契丹之失信於渤海、何与於我(契丹が渤海を裏切ったことなど我が国と関係ない)」とあり、『東史綱目』に「渤海不当録于我史(渤海は我が国の歴史に記録するにあたらない)」とあるように、渤海を自国の歴史の一部とみなさないものであったが、現在の韓国や北朝鮮では「渤海は高句麗人が建国した国であり、高句麗の継承国で、韓国史の一部である」と統一した見方をしている。この考え方は、1784年に柳得恭『渤海考』が初めに発表し、1970年代になってこの研究が盛んになり、現在では、この時代を北は渤海、南では新羅が並立した自国の「南北国時代」として国定教科書にも記載し教育をおこなっている[14]。朴チョルヒ京仁教育大学校教授は、このような韓国社会教科書について、過度に民族中心的に叙述され、「高句麗と渤海が多民族国家だったという事実が抜け落ちている。高句麗の領土拡大は異民族との併合過程であり、渤海は高句麗の遺民と靺鞨族が一緒に立てた国家だが、これについての言及が全く無い」「渤海は高句麗遊民と靺鞨族が共にたてた国家だというのが歴史常識だ。しかし国史を扱う小学校社会教科書には靺鞨族に対する内容は全くない。渤海は高句麗との連続線上だけで扱われている」と批判している[15][16]。このように、渤海を自民族の歴史と位置付ける観念は弱いため、南北国時代論者は、より自民族としての観念が強固な高句麗に渤海を結びつけようとする。あたかも渤海に独自のものが何もなかったかのような言説が韓国では広がっている。その牽強付会ぶりは、自らそれを主導してきた宋基豪ですら「もし渤海人たちが聞いたら泣いてしまうだろう」と自嘲するほどである。

古畑徹は、北朝鮮学界の高句麗・渤海研究を「北朝鮮の高句麗・渤海研究が高句麗・渤海が中国史ではないという点のみに集中し、論証が自己撞着に陥り、学問的に非常に低い水準となってしまっている」と批判している[17]。ちなみに古畑徹は、「高句麗人を自らのルーツのひとつと認識している韓国・朝鮮人だけでなく、を建国した満族などの中国東北地方の少数民族もその先祖はその領域内に居た種族の子孫であり、また高句麗・渤海の中核となった人々はその後の変遷を経て漢族のなかにも入りこんでいることが明らかである。したがって、高句麗・渤海とも現在の国民国家の枠組みでは把握しきれない存在であり、かつそれを前提とした一国史観的歴史理解ではその実像に迫り得ない存在」と評している[17]

南北国時代の問題点

  1. 渤海新羅は同民族や政権ではない。渤海は698年靺鞨の故地に建国され、新羅は韓族を主体として主に朝鮮南部に存在した。渤海は新羅から分離したのではなく、その建国も新羅とは無関係である。靺鞨の国家は、三韓の末裔が建立した新羅の民族とは全く異なっており、渤海と新羅の対峙は一つの統一体が二つに分裂したものではない[18][19]
  2. 渤海と新羅は同民族や政権ではないゆえに、元の統一体の継承発展ということも、 元の統一体と同じ制度を行ったということもできず、それぞれが自らの制度を行ったのみである。渤海と新羅の制度や体制における差異は明らかである[18][20]
  3. 渤海と新羅は二つの完全に異なる民族政権である。渤海の主体民族は靺鞨であり、新羅の主体民族は韓族である。ゆえに、『旧唐書』と『新唐書』四夷伝において、一つは『北狄伝』に、もう一つは『東狄伝』に書かれており、異なる民族として取り扱われた[18][21]
  4. 渤海と新羅の住民と民族的構成は完全に異なる。新羅の民族は相対的に単一であり、韓族が支配民族であると同時に主体民族であり、人数も最多である。渤海の民族構成は、靺鞨が支配民族であり、また主体民族でもあり、人数は全人口の半分以上を占めていた[18][22]
  5. 渤海と新羅の敵対は異なる民族と国家間の闘争であり、双方の戦争は統一的趣を備えていなかった。渤海が契丹によって滅ぼされてから長い年月の後、新羅高麗李氏朝鮮は再び北方の開拓とその少からざる地方を発展ならびに奪取したが、あくまで開拓したのみであり、渤海の故地を統一するという意味合いをそなえていない[18][23]

他国の歴史観との対立

戦前に高句麗史・渤海史の研究を行った南満洲鉄道株式会社東京支社内に設置された満鮮歴史地理調査部やその事業を東京帝国大学文科大学で移管調査した研究者(白鳥庫吉箭内亙松井等稲葉岩吉池内宏津田左右吉瀬野馬熊和田清)は、高句麗人・渤海人は北方のツングース民族であり、今日の朝鮮民族の主流をなす韓族ではないと認識し、朝鮮古代史の中心を新羅と見て、満州を舞台に活動した高句麗や渤海等は「満州史」の一部である(ただし、高句麗は朝鮮史の一部でもある)という認識をしていた[24]朝鮮総督府朝鮮史編纂事業によって刊行された『朝鮮史』には、渤海に関する記事はがほとんど収録されていない[25]。その理由は、当時の日本人研究者の間において、渤海が朝鮮史ではなく満州史と認識されていたためである[26]。朝鮮史編纂事業を行った朝鮮史編纂委員会の第1回編纂委員会で、その席上、李能和からの「渤海は何処へ這入りますか」という質問 に対して、稲葉岩吉は、「渤海に就きましては新羅を叙する処で渤海及び之に関聯した鉄利等の記事をも収載する積りであります」と回答している[27]今西龍は1930年8月22日に開かれた朝鮮史編修会第 4 回委員会の席上、崔南善からの質問に答えて「渤海も朝鮮史に関係ない限りは省きます」と発言している[28]。また、戦前刊行された朝鮮通史である『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』では、高句麗は朝鮮史と満州史の両方でとり上げられているのに対し、渤海は満州史でのみとり上げられ、朝鮮史ではほとんど記述されていない[29]。戦後、満鮮史を批判した旗田巍も渤海史を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られている[30][31]

田中俊明は、南北国時代の歴史観では、渤海・新羅両国が同一民族によって構成され、同族として交渉していたとして、高句麗の旧領の大半は渤海が占めており、高句麗の旧領の一部を新羅が領有したことを挙げるが、渤海・新羅両国が互いに同族意識を持っていたかのかは疑問が多く、「渤海国を構成したのは粟末靺鞨が中心」であり、新羅辺境の靺鞨は自立していただろうとして、8世紀のの記録には、新羅人が新羅の東北境の住民のことを、黒毛で身を覆い、人を食らう長人、ととらえていたことをうかがわせる記述があり、この異人視は、渤海・新羅両国の没交渉からくる恐怖感であり、それだけの異域であったことの証左であり、新羅の辺境であり、渤海の辺境地帯でもある地域住民に対して、これだけの異域観がみられることは、渤海・新羅両国の乖離した意識は明確であり、渤海・新羅の同族意識はうかがいようもないと、指摘している[32]。長人記事とは、『新唐書』巻二二〇・東夷伝・新羅、『太平広記』巻四八一・新羅条の以下の記事である。

新羅、弁韓苗裔也。居漢樂浪地、橫千里、縱三千里、東拒長人、東南日本、西百濟、南瀕海、北高麗。(中略)長人者、人類長三丈、鋸牙鉤爪、黑毛覆身、不火食、噬禽獸、或搏人以食、得婦人、以治衣服。其國連山數十里、有峽、固以鐵闔、號關門、新羅常屯弩士數千守之。 〈新羅(中略)東は長人を拒つ。(中略)長人なる者は、人の類にして長三丈、鋸牙鉤爪、黒毛もて身を覆う。火食せず、禽獣を噬う。或いは人を搏え以て食らう。婦人を得て、以て衣服を治めしむ。其の国、連山数十里、峡あり。固むるに鉄闔を以てし、関門と号す。新羅、常に弩士数千を屯し之を守る[33]。〉 — 『新唐書』巻二二〇・東夷伝・新羅
新羅國,東南與日本鄰,東與長人國接。長人身三丈,鋸牙鉤爪,不火食,逐禽獸而食之,時亦食人。裸其軀,黑毛覆之。其境限以連山數千里,中有山峽,固以鐵門,謂之鐵關。常使弓弩數千守之,由是不過。 〈新羅国(中略)東(北)は長人国と接す。長人の身は三丈、鋸牙鉤爪、火食せず。禽獣を逐いて之を食らう、時に亦た人を食らう。其の軀を裸にし、黒毛もて之を覆う。其(新羅)の境限は連山数千(十)里を以てす。中ごろ山峡有り、固むるに鉄門を以てし、之を鉄関(鉄闔)と謂う。常に弓弩数千をして之を守らしむ、是に由りて過ぎず[34]。〉 — 『太平広記』巻四八一・新羅条

横田安司は韓国で渤海を朝鮮史の一部とみなし、朝鮮史に含める南北国時代論があらわれるようになったのは日本の植民地化での民族主義史学以降である事から、渤海を朝鮮史に含み古代朝鮮の活動範囲を満州にまで広げている韓国の歴史教科書を強烈な民族主義自意識の発露と指摘している[35]

黄文雄は著書で、「満州族先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている[36]。また、は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている[36]

戦後になると石井正敏を初めとする研究者により当時の日本朝廷が国書において新羅と渤海を明確に区分していた事実が指摘されるなど更なる研究が進められ、南北国時代論の恣意的な史料解釈が批判されるなど、韓国史学会の述べる南北国時代論は日本においては定説とはなっていない。

君王

新羅

  1. 孝昭王(692-702)
  2. 聖徳王(702-737)
  3. 孝成王(737-742)
  4. 景徳王(742-765)
  5. 恵恭王(765-780)
  6. 宣徳王(780-785)
  7. 元聖王(785-798)
  8. 昭聖王(798-800)
  9. 哀荘王(800-809)
  10. 憲徳王(809-826)
  11. 興徳王(826-836)
  12. 僖康王(836-838)
  13. 閔哀王(838-839)
  14. 神武王(839)
  15. 文聖王(839-857)
  16. 憲安王(857-861)
  17. 景文王(861-875)
  18. 憲康王(875-886)
  19. 定康王(886-887)
  20. 真聖女王(887-897)
  21. 孝恭王(897-912)
  22. 神徳王(912-917)
  23. 景明王(917-924)
  24. 景哀王(924-927)
  25. 敬順王(927-935)

渤海

  1. 太祖 高王 ( 698-718 )
  2. 光宗 武王 ( 718-737 )
  3. 世宗 文王 ( 737-793 )
  4. 廃王 ( 793 )
  5. 仁宗 成王 ( 793-794 )
  6. 穆宗 康王 ( 794-808 )
  7. 毅宗 定王 ( 808-812 )
  8. 康宗 僖王 ( 812-817 )
  9. 哲宗 簡王 ( 817-818 )
  10. 聖宗 宣王 ( 818-830 )
  11. 荘宗 和王 ( 830-857 )
  12. 順宗 安王 ( 857-871 )
  13. 明宗 景王 ( 871-894 )
  14. ?王 ( 894-907 )
  15. 哀王 ( 907-926 )

脚注

  1. ^ 조선력사 시대구분표ネナラ
  2. ^ “中国社会科学院、韓国古代史歪曲論文を大量発表”. 東亜日報. http://japanese.donga.com/List/3/all/27/295056/1 2016年8月29日閲覧。 
  3. ^ 朝鮮歴史時代区分表(ネナラ)
  4. ^ 韓東育 2013, pp. 152
  5. ^ 韓東育 2013, pp. 152
  6. ^ Shin 2000, p. 11
  7. ^ Shin 2000, p. 12
  8. ^ Karlsson 2009, p. 2
  9. ^ Karlsson 2009, pp. 4–5
  10. ^ Armstrong 1995, p. 3
  11. ^ Schmid 2000b, pp. 233–235
  12. ^ Ch'oe 1980, pp. 23–25
  13. ^ Armstrong 1995, pp. 11–12
  14. ^ 濱田耕策『渤海史をめぐる朝鮮史学界の動向-共和国と韓国の「南北国時代」論について』朝鮮学報86、朝鮮学会
  15. ^ 초등교과서, 고려때 ‘23만 귀화’ 언급도 안해『京郷新聞』2007年8月21日
  16. ^ 초등 4~6학년 교과서, 단일민족·혈통 지나치게 강조『Yahoo!Koreaニュース』2007年8月21日
  17. ^ a b 古畑徹 (2010年). “高句麗・渤海をめぐる中国・韓国の「歴史論争」克服のための基礎的研究” (PDF). 科学研究費助成事業 研究成果報告書. 2017年6月25日閲覧。
  18. ^ a b c d e 魏国忠等『渤海国史』北京中国社会科学出版社2006年、597-598p
  19. ^ 韓東育 2013, pp. 154–155
  20. ^ 韓東育 2013, pp. 154–155
  21. ^ 韓東育 2013, pp. 154–155
  22. ^ 韓東育 2013, pp. 154–155
  23. ^ 韓東育 2013, pp. 154–155
  24. ^ 新潟大学『現代社会文化研究No. 39』
  25. ^ 朝鮮史編修会編『朝鮮史』朝鮮総督府
  26. ^ 新潟大学『現代社会文化研究No. 39』
  27. ^ 第1回朝鮮史編纂委員会 『朝鮮史編修会事業概要』
  28. ^ 朝鮮史編修会第4回委員会『朝鮮史編修会事業概要』
  29. ^ 稲葉岩吉・矢野仁一『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』
  30. ^ 酒寄雅志『渤海と古代の日本』「あとがき」
  31. ^ 古畑徹「戦後日本におけ る渤海史の歴史的枠組みに関する史学史的考察」『東北大学 東洋史論集』
  32. ^ 田中俊明「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』岩波講座1999年ISBN 978-4000108294 p156
  33. ^ 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、381頁。ISBN 978-4000029032 
  34. ^ 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、420頁。ISBN 978-4000029032 
  35. ^ 鄭大均 古田博司編『韓国・北朝鮮の嘘を見破る』
  36. ^ a b 黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』77頁~80頁 ワック 2005年

参考文献

  • 韓東育『東アジア研究の問題点と新思考』『北東アジア研究』別冊第2号、2013年5月http://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu_sp2.data/Han_DY.pdf 
  • Shin, Yong-ha (2000), Modern Korean history and nationalism, Korean Studies, Jimoondang 
  • Karlsson, Anders (December 2009), Northern Territories and the Historical Understanding of Territory in Late Chosŏn, Working Papers in Korean Studies, School of Oriental and African Studies, University of London 
  • Armstrong, Charles K. (1995), “Centering the Periphery: Manchurian Exile(s) and the North Korean State”, Korean Studies (University of Hawaii Press) 19: 1–16 
  • Schmid, Andre (2000b), “Looking North toward Manchuria”, The South Atlantic Quarterly (Duke University Press) 99 (1): pp. 219–240 
  • Ch'oe, Yŏng-ho (1980), “An Outline History of Korean Historiography”, Korean Studies 4: 1–27 

関連項目

先代
三国時代
朝鮮の歴史
南北国時代
或いは
統一新羅時代
次代
後三国時代