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鳳鳴4年([[620年]])、唐の趙郡王[[李孝恭]]の攻撃を受けて[[通州]]・[[開州 (重慶市)|開州]]を奪われ、東平王[[蕭闍提]]を失った。梁の諸将は兵権を専断し、蕭銑は抑制することができなかった。董景珍の弟が将軍となり乱を謀ったが、事前に漏れて処刑された。蕭銑は董景珍を許して長沙から江陵に召還しようとしたが、疑心に駆られた董景珍は李孝恭に降った。蕭銑は張繍を遣わして董景珍を攻めさせ、董景珍は潰走して部下に殺された。蕭銑は張繍を尚書令としたが、張繍は功をたのんで驕慢となったため、蕭銑は張繍を処刑した。蕭銑の外面は寛容だったが、内心は猜疑心深く成功者を妬んだため、大臣や将軍たちの多くは叛いて去り、梁は弱体化した。 |
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鳳鳴5年([[621年]])、唐の李孝恭と[[李靖]]が[[蜀郡|巴蜀]]の兵を率いて[[長江]]を下り、廬江王[[ |
鳳鳴5年([[621年]])、唐の李孝恭と[[李靖]]が[[蜀郡|巴蜀]]の兵を率いて[[長江]]を下り、廬江王[[李瑗]]が[[襄州]]を、[[黔州]]刺史の[[田世康]]が[[辰州]]を出て、梁を攻めた。また[[周法明]]が唐に降って黄州総管となり、夏口道を抜け、安州を落とした。雷長潁が魯山で降伏した。蕭銑は文士弘を遣わして李孝恭を阻ませたが、[[清江]]口に敗れ、多数の戦艦を鹵獲された。宜昌・当陽・枝江・松滋を奪われ、江州で[[蓋彦挙]]が唐に降った。李孝恭と李靖が江陵を囲み、蕭銑は各地に救援を求めたが援軍は到着せず、[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]に唐の軍門に下り、ここに梁は滅亡した。 |
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降伏した蕭銑は「死すべき者は銑のみで、百姓に罪はない。殺掠しないでいただきたい」と李孝恭に言った。[[長安]]に護送された蕭銑は高祖[[李淵]]に責められたが、蕭銑は「隋がその鹿を失い、英雄が競いあった。銑には天命がなかったために、陛下の虜となった。[[田横]]が南面して、[[前漢|漢]]に仕えるようなことがあろうか」と答えた。屈服しないのを怒った高祖の命により、蕭銑は長安の市で斬られた。 |
降伏した蕭銑は「死すべき者は銑のみで、百姓に罪はない。殺掠しないでいただきたい」と李孝恭に言った。[[長安]]に護送された蕭銑は高祖[[李淵]]に責められたが、蕭銑は「隋がその鹿を失い、英雄が競いあった。銑には天命がなかったために、陛下の虜となった。[[田横]]が南面して、[[前漢|漢]]に仕えるようなことがあろうか」と答えた。屈服しないのを怒った高祖の命により、蕭銑は長安の市で斬られた。 |
2020年8月12日 (水) 04:39時点における版
蕭銑 | |
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梁 | |
皇帝 | |
王朝 | 梁 |
在位期間 | 618年 - 621年11月10日 |
都城 | 江陵 |
姓・諱 | 蕭銑 |
生年 | 天保22年(583年) |
没年 | 武徳4年(621年) |
父 | 蕭璿 |
年号 | 鳳鳴 : 617年 - 621年 |
蕭 銑(しょう せん)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。後梁(西梁)の宣帝の曾孫にあたり、自立して梁の皇帝を称したが、唐によって滅ぼされた。
生涯
蕭璿の子として南蘭陵郡武進県に生まれる。祖父の安平王蕭巌は後梁の明帝の弟であったが、後梁が廃されると開皇初年に隋に叛いて南朝陳に降り、陳が滅びると隋の文帝に処刑された。若い頃の蕭銑は貧困の中で事務雇いをして母に孝事した。煬帝は明帝の娘の蕭氏を皇后としていたことから、外戚として羅県県令に抜擢された。
大業13年(617年)、岳州校尉の董景珍・雷世猛、旅帥の鄭文秀・許玄徹・万瓚・徐徳基・郭華、沔陽の人の張繍らが隋に叛くことを計画して、董景珍を主として推挙した。董景珍は、蕭銑が寛仁大度で武帝の威風があり、蕭氏の中興が反隋の旗印としてふさわしいとして、蕭銑を擁立した。10月19日に蕭銑は梁公を称し、沈柳生を斬ると12月20日に王を称して、鳳鳴と元号を立てた。
鳳鳴2年(618年)には皇帝を称し、江陵に都を置き、百官を置いて梁の旧制にならった。董景珍を晋王に、雷世猛を秦王に、鄭文秀を楚王に、許玄徹を燕王に、万瓚を魯王に、張繍を斉王に、楊道生を宋王に封じた。隋の張鎮州と王仁寿の攻撃を撃退した。隋が滅ぶと嶺南の甯長真らを降し、林士弘を豫章に破って、西は三峡、南は交趾、北は漢水に至る広大な地域を帰服させ、兵40万を号した。江陵には園廟を復した。岑文本を召して中書侍郎とし、機密を司らせた。楊道生に硤州を攻めさせたが、唐の硤州刺史の許紹に敗れた。
鳳鳴4年(620年)、唐の趙郡王李孝恭の攻撃を受けて通州・開州を奪われ、東平王蕭闍提を失った。梁の諸将は兵権を専断し、蕭銑は抑制することができなかった。董景珍の弟が将軍となり乱を謀ったが、事前に漏れて処刑された。蕭銑は董景珍を許して長沙から江陵に召還しようとしたが、疑心に駆られた董景珍は李孝恭に降った。蕭銑は張繍を遣わして董景珍を攻めさせ、董景珍は潰走して部下に殺された。蕭銑は張繍を尚書令としたが、張繍は功をたのんで驕慢となったため、蕭銑は張繍を処刑した。蕭銑の外面は寛容だったが、内心は猜疑心深く成功者を妬んだため、大臣や将軍たちの多くは叛いて去り、梁は弱体化した。
鳳鳴5年(621年)、唐の李孝恭と李靖が巴蜀の兵を率いて長江を下り、廬江王李瑗が襄州を、黔州刺史の田世康が辰州を出て、梁を攻めた。また周法明が唐に降って黄州総管となり、夏口道を抜け、安州を落とした。雷長潁が魯山で降伏した。蕭銑は文士弘を遣わして李孝恭を阻ませたが、清江口に敗れ、多数の戦艦を鹵獲された。宜昌・当陽・枝江・松滋を奪われ、江州で蓋彦挙が唐に降った。李孝恭と李靖が江陵を囲み、蕭銑は各地に救援を求めたが援軍は到着せず、10月21日に唐の軍門に下り、ここに梁は滅亡した。
降伏した蕭銑は「死すべき者は銑のみで、百姓に罪はない。殺掠しないでいただきたい」と李孝恭に言った。長安に護送された蕭銑は高祖李淵に責められたが、蕭銑は「隋がその鹿を失い、英雄が競いあった。銑には天命がなかったために、陛下の虜となった。田横が南面して、漢に仕えるようなことがあろうか」と答えた。屈服しないのを怒った高祖の命により、蕭銑は長安の市で斬られた。
伝記資料
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