蕭琮
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後主 蕭琮 | |
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後梁 | |
第3代皇帝 | |
王朝 | 後梁 |
在位期間 | 585年 - 587年 |
姓・諱 | 蕭琮 |
字 | 温文 |
諡号 | 孝靖皇帝(蕭銑による) |
生年 | 558年頃 |
没年 | 607年? |
父 | 明帝 |
后妃 | 蔡皇后 |
年号 |
天保 : 585年 広運 : 586年 - 587年 |
蕭 琮(しょう そう)は、南朝後梁の第3代皇帝。廟号はなく、後主(こうしゅ)と呼ばれる。博学かつ弓馬の才にも長けており、馬に乗って弓を射ると十発十中、また的を持つ者も逸れることはないと安心して的を構えていたという。
生涯
[編集]天保24年(585年)、父の明帝の崩御により即位する。後梁は北朝の事実上の傀儡国家であったが、その上に立つ王朝も変遷を経て、後主の代には隋となっていた。隋の文帝は、明帝の代に一度はなくなっていた江陵総管を復活し、再び監視体制を敷いた。そして、皇帝の叔父を長安に呼び寄せてそのまま返さなかったのに続き、今度は後主自身を長安に呼び出した。主亡き後梁に文帝は代わって崔弘度を派遣するが、それを後梁への侵略と感じた叔父の蕭巌や弟の蕭瓛ら皇族の一部は南朝陳に走った。陳遠征を前に後梁を邪魔に思っていた文帝は、これを理由としてついに後梁を併合した。
しかしその後も蕭琮は殺されたりすることはなく、莒国公に封じられて陳を滅ぼした隋の下で重用され、義弟の煬帝の代には梁公となり、一族も多く任官された。しかし後に煬帝に猜疑心を起こされ、家格を廃されて間もなく死去した。
後に従甥の蕭銑が梁の皇帝を称した際に孝靖皇帝(靖帝)と諡されている。
蕭整 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南朝斉 | 蕭雋 | 蕭鎋 | 南朝梁 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蕭楽子 | 蕭副子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)宣帝 蕭承之 | 蕭道賜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)景帝 蕭道生 | (1)高帝 蕭道成 | (追)文帝 蕭順之 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(5)明帝 蕭鸞 | (2)武帝 蕭賾 | 長沙王 蕭懿 | (1)武帝 蕭衍 | 臨川王 蕭宏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)東昏侯 蕭宝巻 | 斉皇帝 蕭宝寅 | (7)和帝 蕭宝融 | (追)文帝 蕭長懋 | 閔帝 蕭淵明 | (追)昭明帝 蕭統 | (2)簡文帝 蕭綱 | (3)元帝 蕭繹 | 武陵王 蕭紀 | 臨賀王 蕭正徳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)鬱林王 蕭昭業 | (4)海陵王 蕭昭文 | (追)安帝 蕭歓 | (西1)宣帝 蕭詧 | 哀太子 蕭大器 | 武烈世子 蕭方等 | 愍懐太子 蕭方矩 | (4)敬帝 蕭方智 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豫章王 蕭棟 | (西2)明帝 蕭巋 | 河間王 蕭巌 | 永嘉王 蕭荘 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(隋)煬愍皇后 蕭氏 | (西3)後主/靖帝 蕭琮 | 河間王 蕭璿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
梁皇帝 蕭銑 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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