「京都所司代」の版間の差分
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2020年8月5日 (水) 08:42時点における版
京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世の日本において、京都に設置された行政機関である。
1568年(永禄11年)に織田信長が設置したものと、江戸時代に江戸幕府が設置したものがある。本来の意味においては、侍所の長官を所司といい、その代理を所司代といった。
織田信長が設置したもの
織田信長が1568年(永禄11年)に足利義昭を擁して上洛し、京都を支配下に置いたとき、室町幕府の機構を踏襲し、家臣の村井貞勝を京都の治安維持のために置いた機関。貞勝は1582年(天正10年)6月2日、明智光秀が信長を殺した本能寺の変のとき、信長の嫡男・織田信忠と共に二条城で討死してしまった。信長の死後、豊臣秀吉が京都を支配下に置いたときは、桑原貞成、杉原家次、浅野長政(この3名は、いずれも1582年(天正10年)から1583年(天正11年)の短期間)、その後前田玄以が京都所司代を務めている。1595年(文禄4年)には石田三成・増田長盛両名が加わった(同年8月近衛信輔あて近衛前久書簡・陽明文庫所蔵)。これらは室町幕府の職名を踏襲したものである。侍所および所司代も参照のこと。
江戸幕府が設置したもの
江戸時代に江戸幕府により設置された京都所司代は、京都の治安維持の任務にあたった幕府の部署である。
職務
定員1名。3万石以上の譜代大名から任命、役料1万石が給され与力30騎(後50騎)同心100人が付属。京都の制圧、朝廷・公家の監察、西日本諸大名の監視,五畿内及び近江、丹波、播磨の8カ国の民政を総括した。特に初期は徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の歴代将軍が度々上洛し所司代体制と将軍上洛の不可分の関係がみられた。幕府支配一元化の方向が見えた1688年京都支配など民政上の権限を京都町奉行に譲った。以後は老中への出世の通過点となり、地位のみが高く幕政上の政治力は急激に低下した。このため幕末には所司代の無力さが指摘され京都守護職がその上位機関として設置された。
所司
江戸時代の所司代は、鎌倉幕府におかれた六波羅探題や室町幕府におかれた所司代(侍所麾下、京都の治安担当)にならって設置されたものである。
所司代の役所や住居は、二条城の北に隣接した場所に設けられ、二条城は使用されなかった。また、支配下に京都とその周辺の行政のために京都郡代が置かれたが、後に町中を担当する京都町奉行と周辺部やそこにある皇室領・公家領を管理する京都代官に分離するようになった。
京都に置かれた役人の総元締めの立場にあったが、京都市政を預かる京都町奉行や宮中・御所の監督にあたる禁裏付などの役職は平時は所司代の指揮に従うものの、老中の管轄であった。
幕末動乱期は、所司代だけでは京の治安を治めるのは難しく、その上に最高機構として京都守護職をおき、所司代はその下に入った。
歴代京都所司代
- 奥平信昌(1600年-1601年)
- 板倉勝重(1601年-1619年)
- 板倉重宗(1619年-1654年)
- 牧野親成(1654年-1668年)
- 板倉重矩(1668年-1670年)
- 永井尚庸(1670年-1677年)
- 戸田忠昌(1678年-1681年)
- 稲葉正往(1681年-1685年)
- 土屋政直(1685年-1687年)
- 内藤重頼(1687年-1690年)
- 松平信興(1690年-1691年)
- 小笠原長重(1691年-1697年)
- 松平信庸(1697年-1714年)
- 水野忠之(1714年-1717年)
- 松平忠周(1717年-1724年)
- 牧野英成(1724年-1734年)
- 土岐頼稔(1734年-1742年)
- 牧野貞通(1742年-1749年)
- 松平資訓(1749年-1752年)
- 酒井忠用(1752年-1756年)
- 松平輝高(1756年-1758年)
- 井上正経(1758年-1760年)
- 阿部正右(1760年-1764年)
- 阿部正允(1764年-1768年)
- 土井利里(1769年-1777年)
- 久世広明(1777年-1781年)
- 牧野貞長(1781年ー1784年)
- 戸田忠寛(1784年-1789年)
- 太田資愛(1789年-1792年)
- 堀田正順(1792年-1798年)
- 牧野忠精(1798年-1801年)
- 土井利厚(1801年-1802年)
- 青山忠裕(1802年-1804年)
- 稲葉正謖(1804年-1806年)
- 阿部正由(1806年-1808年)
- 酒井忠進(1808年-1815年)
- 大久保忠真(1815年-1818年)
- 松平乗寛(1818年-1822年)
- 内藤信敦(1823年-1825年)
- 松平康任(1825年-1826年)
- 水野忠邦(1826年-1828年)
- 松平宗発(1828年-1832年)
- 太田資始(1832年-1834年)
- 松平信順(1834年-1837年)
- 土井利位(1837年-1838年)
- 間部詮勝(1838年-1840年)
- 牧野忠雅(1840年-1843年)
- 酒井忠義(1843年-1850年)
- 内藤信親(1850年-1851年)
- 脇坂安宅(1851年-1857年)
- 本多忠民(1857年-1858年)
- 酒井忠義(1858年-1862年)
- 松平宗秀(1862年)※赴任できず。酒井忠績(1862年5月-9月)が代行。
- 牧野忠恭(1862年9月-1863年6月11日)
- 稲葉正邦(1863年-1864年)
- 松平定敬(1864年-1867年)
参考文献
- 織豊政権の京都所司代について
- 伊藤真昭 『京都の寺社と豊臣政権』(法藏館、2003年) ISBN 4-8318-6031-X。
- 谷口克広 『信長の天下所司代 筆頭吏僚 村井貞勝』(中央公論社〈中公新書)〉、2009年) ISBN 978-4-1210-2028-4