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== 人物 ==
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正室の父[[毛利秀元]]から[[茶道|茶の湯]]を学び、学問・宗教を通して[[林鵞峰]]、[[吉川惟足]]、鉄牛道機らと交流を深め万治元年に[[隠元隆き|隠元隆琦]]と対面してから[[黄檗宗]]へ傾倒、隠元の弟子の鉄牛を小田原へ招いて紹太寺と弘福寺の創建を行った。また、[[長崎]]と江戸を取り持つ役目も負い、[[オランダ商館]][[カピタン|館長]]や随行員との物品の交流、藩の医者をオランダ人医者に学ばせているなど西洋文化導入にも取り組んでいた。
正室の父[[毛利秀元]]から[[茶道|茶の湯]]を学び、学問・宗教を通して[[林鵞峰]]、[[吉川惟足]]、鉄牛道機らと交流を深め万治元年に[[隠元隆琦]]と対面してから[[黄檗宗]]へ傾倒、隠元の弟子の鉄牛を小田原へ招いて紹太寺と弘福寺の創建を行った。また、[[長崎]]と江戸を取り持つ役目も負い、[[オランダ商館]][[カピタン|館長]]や随行員との物品の交流、藩の医者をオランダ人医者に学ばせているなど西洋文化導入にも取り組んでいた。


当時の社会事業となっていた新田開発については、鉄牛の仲介を経て町人請け負いの新田開発を実行、河村瑞賢については寛文9年([[1669年]])から交流があり、家中の借金の仲介から瑞賢と接触、瑞賢が幕府に登用される元を作った。親戚で婿でもあった[[堀田正俊]]や[[伊達綱村]]への後見・経済援助も行い、秀元亡き後の[[毛利氏]]の後見人も務めた。
当時の社会事業となっていた新田開発については、鉄牛の仲介を経て町人請け負いの新田開発を実行、河村瑞賢については寛文9年([[1669年]])から交流があり、家中の借金の仲介から瑞賢と接触、瑞賢が幕府に登用される元を作った。親戚で婿でもあった[[堀田正俊]]や[[伊達綱村]]への後見・経済援助も行い、秀元亡き後の[[毛利氏]]の後見人も務めた。

2020年8月2日 (日) 22:05時点における版

 
稲葉正則
時代 江戸時代前期
生誕 元和9年6月2日1623年6月29日
死没 元禄9年6月6日1696年7月4日
別名 鶴千代(幼名)
戒名 潮信軒泰応
墓所 神奈川県小田原市紹太寺
官位 従四位下美濃
幕府 江戸幕府老中→老中首座→大政参与
主君 徳川家光家綱綱吉
相模小田原藩
氏族 稲葉氏
父母 父:稲葉正勝、母:山田重利の娘
兄弟 正則、妹(酒井忠能室)
正室:毛利秀元の娘、継室:堤貞長の娘
正往正倚正員正辰正直土井利意
通周正如正佐、娘(堀田正俊正室)
万寿寺殿仙姫伊達綱村正室)、娘(松浦篤信正室)
娘(土井利知正室)
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稲葉 正則(いなば まさのり)は、江戸時代譜代大名老中大政参与相模小田原藩第2代藩主。初代藩主稲葉正勝の次男で、母は山田重利の娘。稲葉正成春日局の嫡孫。正成系稲葉家宗家3代。

生涯

母は早世したため、祖母春日局に養育されていたが、寛永11年(1634年)に父が死去したため家督を相続した。幼少のため大伯父(春日局の兄)にあたる斎藤利宗の補佐を受けた。寛永15年(1638年)に元服、利宗の補佐は終わったが、以後は父方の従兄に当たる堀田正盛が後見人を務めた。

寛永17年(1640年)から翌18年(1641年)にかけて領内総検地を実施、正保4年(1647年)に人口調査のため人別改を行い、万治元年(1658年)から万治3年(1660年)にかけて定免法に切り替えて再び総検地を実施、藩政の基礎を築いた。また、鉄牛道機を招いて小田原紹太寺江戸弘福寺の開基となった。明暦元年(1655年)の朝鮮通信使の接待も請け負った。

春日局の孫ということもあり幕閣として重用され、明暦3年(1657年9月28日に老中となり、将軍の名代や代参を経て、翌万治元年7月12日から評定所へ出座、閏12月29日に月番と老中奉書加判の上意を受けて幕閣への参加を認められた。寛文3年(1663年)に1万石加増され、4代将軍徳川家綱文治政治を担うことになる。

寛文4年(1664年)から翌5年(1665年)の幕府から全国への領知判物領知朱印状領知目録の交付(寛文印知)では公家領を担当、寛文6年(1666年)に老中首座に昇格、同年に他の老中と共に諸国山川掟を発令した。同年に酒井忠清大老に就任、以後は酒井忠清・久世広之土屋数直板倉重矩らと共に政治を取り仕切り、全国の公共事業・流通政策を鉄牛や河村瑞賢を通して展開していった。狭山藩北条氏治の相続問題にも介入している。

延宝8年(1680年)に1万5000石を加増、合わせて大政参与に任命された。同年5月8日に家綱が亡くなり、家綱の弟綱吉が5代将軍に就任して忠清が12月9日に大老を解任されると、翌天和元年(1681年)3月から越後騒動の再審を開始、7月8日紅葉山の家綱の仏殿建立の奉行を務め、12月8日に大政参与を退いた。天和3年(1683年)閏5月27日隠居、家督を長男の正往に譲った。

元禄9年(1696年)、江戸で死去した。享年74。遺体は紹太寺に葬られた。遺領は正往が小田原藩10万2000石を相続、残りは他の息子たちに旗本領として分知された。

人物

正室の父毛利秀元から茶の湯を学び、学問・宗教を通して林鵞峰吉川惟足、鉄牛道機らと交流を深め万治元年に隠元隆琦と対面してから黄檗宗へ傾倒、隠元の弟子の鉄牛を小田原へ招いて紹太寺と弘福寺の創建を行った。また、長崎と江戸を取り持つ役目も負い、オランダ商館館長や随行員との物品の交流、藩の医者をオランダ人医者に学ばせているなど西洋文化導入にも取り組んでいた。

当時の社会事業となっていた新田開発については、鉄牛の仲介を経て町人請け負いの新田開発を実行、河村瑞賢については寛文9年(1669年)から交流があり、家中の借金の仲介から瑞賢と接触、瑞賢が幕府に登用される元を作った。親戚で婿でもあった堀田正俊伊達綱村への後見・経済援助も行い、秀元亡き後の毛利氏の後見人も務めた。

天和3年の隠居後、祐筆が書いた日記の編纂を家臣に命じて『永代日記』が作成、後に紛失、書き抜きを経て32冊が京都府京都市伏見区稲葉神社に現存している。正則の行動・職務・交際記録や小田原藩の政治や領民の動行、江戸での出来事も記されており、当時の社会を知る史料となっている。

春日局が3代将軍徳川家光から賜った聴秋閣は正則の江戸屋敷に移築された。聴秋閣は明治時代原富太郎が手に入れ、現在の三渓園内に建てられている。

家族

稲葉正則が登場する作品

参考文献

  • 下重清『稲葉正則とその時代-江戸社会の形成-』夢工房、2002年。 
  • 神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 通史編2 近世1』神奈川県、1981年。
  • 下重清『幕閣譜代藩の政治構造』岩田書院、2006年

関連項目