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「羊献容」の版間の差分

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[[301年]]1月、司馬倫が帝位を簒奪すると、恵帝は金墉城に幽閉されてしまい、羊献容もまた皇后を廃立された。
[[301年]]1月、司馬倫が帝位を簒奪すると、恵帝は金墉城に幽閉されてしまい、羊献容もまた皇后を廃立された。


同月、三王(斉王[[司馬冏]]・成都王[[司馬穎]]・河間王[[司馬ギョウ|司馬顒]])が司馬倫討伐を掲げて地方で決起すると、4月には[[左将軍]][[王輿]]がこれに呼応して洛陽城内で政変を起こし、孫秀を殺害して司馬倫を幽閉した。これにより恵帝は復位し、羊献容もまた再び皇后に立てられた(二度目の擁立)。だが、孫旂を始めとした母の一族は孫秀と同族であった事から、みな誅殺された。
同月、三王(斉王[[司馬冏]]・成都王[[司馬穎]]・河間王[[司馬顒]])が司馬倫討伐を掲げて地方で決起すると、4月には[[左将軍]][[王輿]]がこれに呼応して洛陽城内で政変を起こし、孫秀を殺害して司馬倫を幽閉した。これにより恵帝は復位し、羊献容もまた再び皇后に立てられた(二度目の擁立)。だが、孫旂を始めとした母の一族は孫秀と同族であった事から、みな誅殺された。


[[304年]]2月、[[鄴]]を統治する司馬穎が朝政を専断するようになると、羊献容は再び皇后を廃立されて金墉城に幽閉された。7月、東海王[[司馬越]]が右衛将軍[[陳眕]]・[[上官巳]]らと共に洛陽において司馬穎討伐を掲げて決起すると、羊献容を三度皇后に立てた(三度目の擁立)。その後、司馬越らは恵帝を奉じて鄴へ向けて軍を発したが、親征軍は蕩陰において司馬穎配下の[[石超]]に大敗を喫し、恵帝の身柄は司馬穎に押さえられてしまった。
[[304年]]2月、[[鄴]]を統治する司馬穎が朝政を専断するようになると、羊献容は再び皇后を廃立されて金墉城に幽閉された。7月、東海王[[司馬越]]が右衛将軍[[陳眕]]・[[上官巳]]らと共に洛陽において司馬穎討伐を掲げて決起すると、羊献容を三度皇后に立てた(三度目の擁立)。その後、司馬越らは恵帝を奉じて鄴へ向けて軍を発したが、親征軍は蕩陰において司馬穎配下の[[石超]]に大敗を喫し、恵帝の身柄は司馬穎に押さえられてしまった。

2020年7月31日 (金) 10:09時点における版

羊皇后
西晋の皇后
前趙の皇后
『百美新詠図伝』羊皇后
在位 西晋皇后:300年 - 306年
前趙皇后:318年 - 322年

全名 羊献容
別称 恵皇后
献文皇后
出生 太康7年(286年
死去 光初5年(322年
埋葬 322年12月
顕平陵
配偶者 恵帝
  劉曜
子女 清河公主
劉煕
劉襲
劉闡
氏族 泰山羊氏
父親 羊玄之
母親 孫氏(孫旂の娘)
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羊 献容(よう けんよう、286年 - 322年)は、西晋恵帝の2番目の皇后であり、前趙皇帝劉曜の皇后。本貫泰山郡南城県。祖父は尚書右僕射羊瑾羊祜羊徽瑜の従兄弟)。父は尚書右僕射羊玄之。母は車騎将軍孫旂の娘。八王の乱及びそれに続く永嘉の乱に翻弄され、波乱に富む一生を送った。前趙において献文皇后された。

生涯

286年、羊玄之と孫旂の娘との間に生まれた。

300年4月、趙王司馬倫は側近の孫秀と共に政変を起こし、権勢を振るっていた恵帝の皇后賈南風を廃位してその一派を尽く誅殺した。12月、朝廷で賈南風に代わる新たな皇后を立てる事が議論されると、孫旂は孫秀と同族であって大いに重用されていたので、孫旂の外孫である羊献容が皇后に立てられる事となった。

301年1月、司馬倫が帝位を簒奪すると、恵帝は金墉城に幽閉されてしまい、羊献容もまた皇后を廃立された。

同月、三王(斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒)が司馬倫討伐を掲げて地方で決起すると、4月には左将軍王輿がこれに呼応して洛陽城内で政変を起こし、孫秀を殺害して司馬倫を幽閉した。これにより恵帝は復位し、羊献容もまた再び皇后に立てられた(二度目の擁立)。だが、孫旂を始めとした母の一族は孫秀と同族であった事から、みな誅殺された。

304年2月、を統治する司馬穎が朝政を専断するようになると、羊献容は再び皇后を廃立されて金墉城に幽閉された。7月、東海王司馬越が右衛将軍陳眕上官巳らと共に洛陽において司馬穎討伐を掲げて決起すると、羊献容を三度皇后に立てた(三度目の擁立)。その後、司馬越らは恵帝を奉じて鄴へ向けて軍を発したが、親征軍は蕩陰において司馬穎配下の石超に大敗を喫し、恵帝の身柄は司馬穎に押さえられてしまった。

同年8月、長安を統治する司馬顒は司馬穎を援護する為、将軍張方を洛陽へ侵攻させた。張方は洛陽を攻め落として自らの統治下に置くと、羊献容を皇后から廃立した(三度目の廃立)。8月、都督幽州諸軍事王浚・東嬴公司馬騰が司馬穎討伐を掲げて決起すると、司馬穎は鄴を放棄して恵帝を伴って洛陽へ逃走し、張方に迎え入れられた。

304年11月、張方は恵帝を引き連れて長安への遷都を強行した。だが、洛陽には留台が置かれて朝廷としての機能が残されたので、朝廷の機能は長安と洛陽に分裂した。洛陽朝廷により、羊献容は皇后に立てられた(四度目の擁立)。

305年4月、張方の命により、洛陽朝廷は羊献容を廃立して金墉城に監禁した(四度目の廃立)。その後、皇甫昌楊篇と謀り、司馬越の命と偽って金墉城から羊献容を出迎えると、その命を奉じて張方討伐と恵帝奪還を宣言した。これにより、司馬顒と抗争状態に入っていた養父の秦州刺史皇甫重の援護を目論んだ。事情を知らない百官はこの命に従ったが、偽りであることが判明すると皇甫昌を殺害した。

305年11月、立節将軍周権は司馬越の命と偽り、羊献容を擁立した(五度目の擁立)。だが、洛陽県令何喬は周権を殺害すると、羊献容を廃立した(五度目の廃立)。司馬顒は偽詔を発し、羊献容が政治利用されているという理由で彼女に自殺を命じ、尚書田淑がこの命令を洛陽朝廷に伝えた。だが、洛陽朝廷を運営していた司隷校尉劉暾らは反対して「羊庶人(羊献容)は離宮に軟禁されており、厳重に警備されております。姦人(邪悪な者)と乱を企むことなどありません。賢者・愚者問わずみな羊氏の冤罪を訴えており、もし枯窮の人を殺してしまえば、天下を落胆させることになり、これは国家にとって益とはいえません。」と上書したので、司馬顒はこれに激怒して洛陽を守る配下の呂朗に劉暾逮捕を命じた。それを知った劉暾は先んじて青州に逃走し、この混乱により羊献容は死を免れた。

306年5月、司馬越配下の将軍祁弘宋冑馬纂らは長安を攻略し、司馬顒を撃ち破って恵帝を奪還した。6月、恵帝が洛陽に帰還すると、羊献容は皇后に復位した(六度目の擁立)。

同年11月、恵帝が死去すると、羊献容は六度皇后位を去った。その後、皇太弟司馬熾が皇帝に即位する手はずとなったが、羊献容は皇太弟が即位してしまうと自らが皇太后になれない事から、元々の皇太子であった司馬覃を皇帝に立てようとした。だが、侍中華混は「皇太弟は東宮に入ってから久しく、天下も安定を望んでおります。今これを変えるべきではありません」とこれを諫めた。司馬覃もまた羊献容に応じなかったので、彼女の目論見は果たされなかった。司馬熾が帝位に即くと、羊献容は恵皇后の尊号を贈られ、弘訓宮に居住する事となった。

311年6月、漢(後の前趙)の征討大都督劉曜征東大将軍王弥・前軍大将軍呼延晏らが洛陽へ襲来し、晋軍は抗し切れずに洛陽は陥落した。この事件を史書は永嘉の乱と呼ぶ。この時、羊献容は漢軍に捕らえられて漢の都である平陽に連れ去られ、劉曜に見初められてその妻となった。やがて羊献容は劉曜との間に劉煕を始め3人の子を生んだ。

318年8月、漢の大将軍靳準が平陽で反乱を起こし、漢の皇族を皆殺しとした。劉曜は長安を守っていたので難を逃れ、百官の求めに応じて皇帝に即位し、羊献容は皇后に立てられた(七度目の擁立)。劉曜には正妻卜氏との間に劉胤という優秀な世子がいたが、靳準の乱により行方不明になっていたので、羊献容の実子である劉煕が皇太子に立てられた。羊献容は劉曜の寵愛を受け、後宮の取り仕切りだけでなく政治にも参画した。

ある時、劉曜は羊献容へ「朕と司馬家の男を比べたらどうかね」と問うた。羊皇后は「陛下は開業の聖主ですが、彼(恵帝)は亡国の暗夫に過ぎないので、比べるまでもありません。彼は帝王でありながら、一婦一子どころか自分の身も守ることができませんでした。妾(私)は当時、天下の男とは全てこうであるのかと思い、生きる希望も失ったものです。陛下に嫁いでから始めて天下に大丈夫がいることを知りました。」と語った。これにより劉曜はますます羊献容を寵愛するようになったという。

羊皇后は度々政治に深く干渉するほどの力を持つようになったが、群臣の中にはこれを不快に思うものも多かったという。

322年、羊献容はこの世を去った。劉曜により献文皇后と諡された。12月、劉曜は巨大な陵墓を作ると、羊献容を埋葬して墓号を顕平陵とした。

子女