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反逆の罪を着せられた[[鄧艾]]の名誉を回復したり、降伏してきた呉帝孫皓の命を助けるなど温和な対応をしている。司馬炎は皇帝でありながら売官によって個人的な[[賄賂]]を取り、高官以下官吏に対する賄賂が蔓延し、汚職の風弊を酷いものにした。九品官人法批判で知られる[[劉毅 (西晋)|劉毅]]は、司馬炎を後漢の[[桓帝 (漢)|桓帝]]・[[霊帝 (漢)|霊帝]]と比較して、それ以下だと批判している。とは言え、司馬炎を面と向かって批判した劉毅が特段の処分を受けていないなど、晩年を除けば言論に対して温和な態度を取っていた。
反逆の罪を着せられた[[鄧艾]]の名誉を回復したり、降伏してきた呉帝孫皓の命を助けるなど温和な対応をしている。司馬炎は皇帝でありながら売官によって個人的な[[賄賂]]を取り、高官以下官吏に対する賄賂が蔓延し、汚職の風弊を酷いものにした。九品官人法批判で知られる[[劉毅 (西晋)|劉毅]]は、司馬炎を後漢の[[桓帝 (漢)|桓帝]]・[[霊帝 (漢)|霊帝]]と比較して、それ以下だと批判している。とは言え、司馬炎を面と向かって批判した劉毅が特段の処分を受けていないなど、晩年を除けば言論に対して温和な態度を取っていた。


また、司馬炎が皇族を各地の王に封じた上で軍権をも与えたことは、かえってこれら皇族間の争いを誘発することとなり、八王の乱の遠因となった。異民族に対して効果的な対策をしなかったことも(全く対策しなかったわけではなく、異民族統御官を新設、多数設置して監護させている{{Sfn|三崎|2002|p=21}})、これら異民族が[[華北]]で争乱を起こす原因ともなった。同時に[[賈南風|賈妃]]の嘆願や、聡明との噂がある孫の[[司馬イツ|司馬遹]]に対する皇位継承の望みを託して、その父である司馬衷を皇太子としたことも、八王の乱以降の混乱を引き起こした原因ともなった。そして、後宮に大量に女性を集めるといった行動は結果的に民衆の生活を苦しめることにもなった。
また、司馬炎が皇族を各地の王に封じた上で軍権をも与えたことは、かえってこれら皇族間の争いを誘発することとなり、八王の乱の遠因となった。異民族に対して効果的な対策をしなかったことも(全く対策しなかったわけではなく、異民族統御官を新設、多数設置して監護させている{{Sfn|三崎|2002|p=21}})、これら異民族が[[華北]]で争乱を起こす原因ともなった。同時に[[賈南風|賈妃]]の嘆願や、聡明との噂がある孫の[[司馬遹]]に対する皇位継承の望みを託して、その父である司馬衷を皇太子としたことも、八王の乱以降の混乱を引き起こした原因ともなった。そして、後宮に大量に女性を集めるといった行動は結果的に民衆の生活を苦しめることにもなった。


司馬炎は一時的に中国を統一したが、その死後、西晋は八王の乱で疲弊し、孫の[[愍帝 (西晋)|愍帝]]の代で短命のうちに滅亡し、司馬炎の皇統は断絶した。司馬昭の弟[[司馬チュウ|司馬伷]]の孫、司馬炎の従甥である[[元帝 (東晋)|司馬睿]]が江南に[[東晋]]を建てた。その後も長く群雄割拠の時代は続き、本格的な統一王朝の出現は[[楊堅]]による[[隋]]の統一以降となる。
司馬炎は一時的に中国を統一したが、その死後、西晋は八王の乱で疲弊し、孫の[[愍帝 (西晋)|愍帝]]の代で短命のうちに滅亡し、司馬炎の皇統は断絶した。司馬昭の弟[[司馬チュウ|司馬伷]]の孫、司馬炎の従甥である[[元帝 (東晋)|司馬睿]]が江南に[[東晋]]を建てた。その後も長く群雄割拠の時代は続き、本格的な統一王朝の出現は[[楊堅]]による[[隋]]の統一以降となる。

2020年7月31日 (金) 10:04時点における版

武帝 司馬炎
西晋
初代皇帝
晋武帝(閻立本筆、ボストン美術館蔵)
王朝 西晋
在位期間 266年2月4日 - 290年5月16日
都城 洛陽
姓・諱
安世
諡号 武皇帝
廟号 世祖
生年 青龍4年(236年
没年 太熙元年4月20日
290年5月16日
司馬昭
王元姫
后妃 武元皇后楊艶
武悼皇后楊芷
陵墓 峻陽陵
年号 泰始 : 265年 - 274年
咸寧 : 275年 - 280年
太康 : 280年 - 289年
太熙 : 290年

司馬 炎(しば えん)は、西晋の初代皇帝諡号武帝

から禅譲を受けてを建て、さらにを滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。しかし統一後は政治への興味を失い、後の八王の乱の遠因を作った。

生涯

皇帝即位

魏の有力者であった司馬昭王元姫王粛の娘)との間に長男として生まれた[1]。中撫軍などを歴任した。

若くして「寛恵にして仁厚、沈深にして度量あり」と評され、九品中正制度に基づく郷品を定める際、その出身地の河内郡では比較の対象者がいないというほどの貴公子であった[1]。そのため、祖父司馬懿や伯父司馬師の就いた官職を歴任した[1]

咸熙元年(264年)に司馬昭が晋王になると、その後継者に指名された[1]。当初、司馬昭は三男の司馬攸を後継者にと考えていた。これは司馬攸が司馬師の養子となっていたためであり、司馬昭は兄の方の家が司馬氏の正統と考えたからである。しかし重臣の反対により、咸熙2年(265年)5月には司馬炎が正式に晋王の世子とされている。

同年8月に司馬昭が没すると、晋王・相国の位を継いだ[1]。同年12月には、賈充裴秀王沈羊祜荀勗石苞陳騫らと計って、元帝(曹奐)に禅譲を迫って皇帝の位を奪い、新王朝を「晋」と名付け、元号を泰始と改めた[1]

統一まで

即位した翌年1月には、一族27人を郡王として各地に封じ、土地と兵力とを与えた[2]。これは魏が皇族に力と土地をあまり多く与えず、皇族の力が弱かったことが滅亡の原因となったと考えての対策であった[2]。泰始4年(268年)1月には泰始律令が完成している。

司馬炎の初期治世は重臣に多く学識と礼教を重んじる名望家を配したことと、西晋成立時に民心を得るために庶民への民爵の賜与を行なっていることが挙げられている[1]。また後漢や魏の皇族の任官禁止を解除し、曹植の子曹志諸葛亮の子孫を任用するなど、後漢末期から魏にかけて戦乱で苦しんだ民情や心情などを考慮して皇族間の友愛、礼教に基づく国家構築などを行なおうとしていた[2]

咸寧5年(279年)11月から賈充・楊済をそれぞれ主将・副将として討伐の詔を発布し、東西から20万の大軍が大挙して呉を攻めた[3]。翌咸寧6年(280年)2月には晋軍が江陵を陥落させ、3月には石頭城が陥落して晋による統一を達成した[3]呉滅亡)。

統一後

統一後の司馬炎は朝政への興味を失った。また統一を達成したことにより平時体制に戻すとして、軍隊の縮小も実施された[4]。司馬炎の業績として特筆すべきは太康元年(280年)から始まった占田・課田法である[4]

司馬炎は女色にふけったことでも知られる。統一以前の泰始9年(273年)7月には、詔勅をもって女子の婚姻を暫時禁止し、自分の後宮に入れるための女子を5千人選んだ。さらに呉を滅亡させた後の太康2年(281年)3月には、呉の皇帝であった孫皓の後宮の5千人を自らの後宮に入れた。合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、司馬炎は毎夜、羊に引かせた車に乗って回った。この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛っておいた。羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるからである。この塩を盛るという故事が、日本の料理店などで盛り塩をするようになった起源とも言われている。なお、1万人の女性といっても、后などを世話する女官などの数も入っているため、実際に司馬炎が1万人の女性を相手にしたというわけではない。

後漢末の混乱期から、匈奴鮮卑といった異民族が中原の地に移住するようになり、従来の漢人住民と問題を起こすようになっていた。侍御史の郭欽は、統一した機会にこれら異民族を辺境に戻すべきだと上奏したが、司馬炎はこれに聞く耳を持たなかった[5]

また、皇太子の司馬衷が暗愚であったため、衆望は司馬炎の12歳年下の同母弟で優秀だった斉王司馬攸の後継を期待していた[6]。ところが統一を果たした司馬炎は司馬攸に対して斉への赴任命令を出し、周囲の諫言を封殺した上に司馬攸を支持する派閥を徹底的に粛清した[6]。司馬攸はこの命令に憂憤し、太康4年(283年)に死去した。この一連の迫害は、司馬炎は太子の司馬衷が無能で惰弱な性格であり、統一の5年前に洛陽で疫病が流行した際に司馬炎も重病に倒れたことが、司馬攸排除の動きにつながったとされる[6]

太康5年(284年)以降は天災が相次ぎ、日食もしばしば起きて人心は荒廃した。晩年には政治の実権は皇后楊芷(最初の皇后であった司馬衷の生母楊艶の同族)の実父である楊駿に掌握されて、かつての後漢のように外戚専権の様相が再現される予兆もできた[7]

こうした中、太熙元年(290年)夏4月[8][9]、司馬炎は含章殿において56歳で崩御し、その遺体は峻陽陵に葬られた。

評価

司馬炎は父・司馬昭の敷いた路線にしたがって晋王朝を創始した。天下を取るまでは英君だったが、天下を取った後は堕落していく。それが統一後の国家の基盤形成を怠ったことになり、西晋が早く滅亡する要因ともなった。

反逆の罪を着せられた鄧艾の名誉を回復したり、降伏してきた呉帝孫皓の命を助けるなど温和な対応をしている。司馬炎は皇帝でありながら売官によって個人的な賄賂を取り、高官以下官吏に対する賄賂が蔓延し、汚職の風弊を酷いものにした。九品官人法批判で知られる劉毅は、司馬炎を後漢の桓帝霊帝と比較して、それ以下だと批判している。とは言え、司馬炎を面と向かって批判した劉毅が特段の処分を受けていないなど、晩年を除けば言論に対して温和な態度を取っていた。

また、司馬炎が皇族を各地の王に封じた上で軍権をも与えたことは、かえってこれら皇族間の争いを誘発することとなり、八王の乱の遠因となった。異民族に対して効果的な対策をしなかったことも(全く対策しなかったわけではなく、異民族統御官を新設、多数設置して監護させている[10])、これら異民族が華北で争乱を起こす原因ともなった。同時に賈妃の嘆願や、聡明との噂がある孫の司馬遹に対する皇位継承の望みを託して、その父である司馬衷を皇太子としたことも、八王の乱以降の混乱を引き起こした原因ともなった。そして、後宮に大量に女性を集めるといった行動は結果的に民衆の生活を苦しめることにもなった。

司馬炎は一時的に中国を統一したが、その死後、西晋は八王の乱で疲弊し、孫の愍帝の代で短命のうちに滅亡し、司馬炎の皇統は断絶した。司馬昭の弟司馬伷の孫、司馬炎の従甥である司馬睿が江南に東晋を建てた。その後も長く群雄割拠の時代は続き、本格的な統一王朝の出現は楊堅によるの統一以降となる。

宗室

后妃

  • 元皇后楊艶、悼皇后楊芷(元皇后の再従妹)
  • 貴嬪胡芳、夫人諸葛婉、貴人左棻
  • 淑妃公孫氏、淑媛臧曜、淑儀趙芳、修華趙粲、修容陳琇、修儀左嬪、婕妤邢蘭、容華朱姜
  • 審美人、徐才人、匱才人、趙才人、趙美人(趙才人の妹)
  • 李夫人、厳保林、陳美人、諸姫、程才人、才人謝玖、中才人王媛姫

子女

  • 毗陵悼王 司馬軌(正則)2歳で夭折(母:楊元后)
  • 恵帝 司馬衷(正度)(259年 - 306年)(母:楊元后) 
  • 秦献王 司馬柬(弘度)(262年 - 291年)(母:楊元后)
  • 城陽懐王 司馬景(景度)(? - 270年)(母:審美人)
  • 城陽殤王 司馬憲(明度)(270年 - 271年)(母:徐才人)
  • 楚隠王 司馬瑋(彦度)(271年 - 291年)(母:審美人)
  • 東海沖王 司馬祗(敬度)(271年 - 273年)(母:匱才人)
  • 始平哀王 司馬裕(濬度)(271年 - 277年)(母:趙才人)
  • 代哀王 司馬演(宏度)(? - ?)(母:趙美人)
  • 淮南忠壮王 司馬允(欽度)(272年 - 300年)(母:李夫人)
  • 新都懐王 司馬該(玄度)(272年 - 283年)(母:厳保林)
  • 清河康王 司馬遐(深度)(273年 - 300年)(母:陳美人)
  • 汝陰哀王 司馬謨(令度)(276年 - 278年)(母:諸姫)
  • 長沙厲王 司馬乂(士度)(277年 - 304年)(母:審美人)
  • 成都王 司馬穎(章度)(279年 - 306年)(母:程才人)
  • 呉孝王 司馬晏(平度)(281年 - 311年)(母:李夫人)
  • 勃海殤王 司馬恢(思度)(283年 - 284年)(母:楊悼后)
  • 懐帝・豫章王 司馬熾(豊度)(284年 - 313年)(母:王才人)

その他8人の男子

  • 平陽公主(母:楊元后)
  • 新豊公主(母:同上)
  • 陽平公主(母:同上)
  • 武安公主(母:胡貴嬪)
  • 広平公主
  • 滎陽公主
  • 滎陽公主
  • 襄城公主 司馬修褘
  • 繁昌公主
  • 潁川公主
  • 霊寿公主 司馬修麗
  • 万年公主

脚注

  1. ^ a b c d e f g 川本 2005, p. 47.
  2. ^ a b c 川本 2005, p. 48.
  3. ^ a b 川本 2005, p. 50.
  4. ^ a b 川本 2005, p. 51.
  5. ^ 三崎 2002, p. 22.
  6. ^ a b c 川本 2005, p. 53.
  7. ^ 川本 2005, p. 54.
  8. ^ 川本 2005, p. 57.
  9. ^ 三崎 2002, p. 47.
  10. ^ 三崎 2002, p. 21.

参考文献