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== 経歴 ==
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[[結城藩]]出身。[[藩校]]で学んだ後、[[1875年]]([[明治]]8年)に東京師範学校(後の[[東京高等師範学校]])に入り、[[1886年]](明治9年)に卒業した。[[東京第一師範学校|東京府師範学校]]教師、[[東京府]]学務課勤務、[[東京都立白高等学校・附属中学校|東京府高等女学校]]校長を経て、[[1892年]](明治25年)に[[群馬師範学校|群馬県師範学校]]校長に就任した。その後、[[群馬県庁|群馬県]][[視学制度|視学官]]を経て、[[1906年]](明治39年)に[[学習院]]教授・主事となった。[[1908年]](明治41年)、[[東京第二師範学校|東京府豊島師範学校]]開校とともに校長に就任した。
[[結城藩]]出身。[[藩校]]で学んだ後、[[1875年]]([[明治]]8年)に東京師範学校(後の[[東京高等師範学校]])に入り、[[1886年]](明治9年)に卒業した。[[東京第一師範学校|東京府師範学校]]教師、[[東京府]]学務課勤務、[[東京都立白高等学校・附属中学校|東京府高等女学校]]校長を経て、[[1892年]](明治25年)に[[群馬師範学校|群馬県師範学校]]校長に就任した。その後、[[群馬県庁|群馬県]][[視学制度|視学官]]を経て、[[1906年]](明治39年)に[[学習院]]教授・主事となった。[[1908年]](明治41年)、[[東京第二師範学校|東京府豊島師範学校]]開校とともに校長に就任した。


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退官後は[[学校法人跡見学園|跡見女学校]]主事・理事を務めた<ref>{{cite book|和書|title=跡見学園 - 一三○年の伝統と創造|publisher=跡見学園|date=2005|url=http://www.atomi.ac.jp/enkaku/130/AG130_file04.pdf|accessdate= 7 July 2019}}</ref>。また帝国教育会の創設にも尽力した。
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2020年7月24日 (金) 06:50時点における版

大束 重善
誕生 (1856-09-19) 1856年9月19日安政3年8月21日
下総国結城郡結城城内(現・茨城県結城市
別名 明江()、雄次郎(幼名
死没 (1935-12-19) 1935年12月19日(79歳没)
職業 教育者官吏
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京師範学校小学師範学科
代表作 『本邦教育史』(1894年)
配偶者 たけ
子供 健夫(長男)、良平(三男)、貞介(四男)
親族 勲子(健夫妻・日高秩父三女)
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大束 重善(おおつか しげよし、安政3年8月21日1856年9月19日) - 昭和10年(1935年12月19日[1])は、日本教育者文部官僚

経歴

結城藩出身。藩校で学んだ後、1875年明治8年)に東京師範学校(後の東京高等師範学校)に入り、1886年(明治9年)に卒業した。東京府師範学校教師、東京府学務課勤務、東京府高等女学校校長を経て、1892年(明治25年)に群馬県師範学校校長に就任した。その後、群馬県視学官を経て、1906年(明治39年)に学習院教授・主事となった。1908年(明治41年)、東京府豊島師範学校開校とともに校長に就任した。

退官後は跡見女学校主事・理事を務めた[2]。また帝国教育会の創設にも尽力した。

著作

大束重善
  • 「遺稿」「詞藻」(『大束重善先生』)
著書

脚注

  1. ^ 『昭和12年 国民年鑑』国民新聞社、1936年。
  2. ^ 跡見学園 - 一三○年の伝統と創造』跡見学園、2005年http://www.atomi.ac.jp/enkaku/130/AG130_file04.pdf7 July 2019閲覧 

参考文献

  • 古林亀治郎編『現代人名辞典』中央通信社、1912年。 

関連文献

  • 角田伝編輯 『大束重善先生』 「大束重善先生」編輯所、1936年12月
  • 鈴木博雄 「大束重善 : 学校教育一途の生涯」(唐沢富太郎編著 『図説 教育人物事典 : 日本教育史のなかの教育者群像 中巻』 ぎょうせい、1984年4月)

外部リンク

公職
先代
校長事務取扱
浜野虎吉
東京府豊島師範学校長
1909年 - 1913年
校長事務取扱
1909年
次代
黒田定治
先代
群馬県尋常師範学校長
滝沢菊太郎
群馬県師範学校長
1889年 - 1899年
群馬県尋常師範学校長
1892年 - 1898年
次代
矢島錦蔵
先代
(新設)
東京府高等女学校
1889年 - 1892年
校長事務心得
1888年 - 1889年
次代
武昌吉