「田中敬一 (師範学校長)」の版間の差分
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2020年7月24日 (金) 06:50時点における版
田中 敬一 | |
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誕生 |
1858年3月9日(安政5年1月24日) 美作国真島郡勝山(現・岡山県真庭市) |
死没 | 1930年7月21日(72歳没) |
職業 | 教育者 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京師範学校中学師範学科 |
代表作 |
『学校管理法』(1897年) 『普通教育学』(1899年) |
田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日[1](1858年3月9日) - 昭和5年(1930年)7月21日[2])は、日本の教育者。
経歴
美作国勝山(岡山県真庭市)出身[1]。同人社・三叉学舎・慶應義塾を経て、1878年(明治11年)に東京師範学校(後の東京高等師範学校)に入り、1884年(明治17年)に卒業した[3]。長崎外国語学校教諭、長崎県中学校教諭、長崎県師範学校教諭、高等師範学校助教諭・訓導、岐阜県師範学校教頭、同校長を経て、1892年(明治25年)に宮城県師範学校校長に就任した[3][4]。1893年(明治26年)、東京女子高等師範学校教授となり、1897年(明治30年)に東京府師範学校校長に転じた[3]。1900年(明治33年)、台湾総督府国語学校校長となる[3]。1906年(明治39年)、東京振武学校教頭[4]。退官後の1908年(明治41年)からは日本橋高等女学校校長を務めた[1]。
著作
- 著書
脚注
- ^ a b c 現代人名辞典 1912.
- ^ 「死亡広告」『東京朝日新聞』第15883号1930年7月22日、8面。
- ^ a b c d 現今日本名家列伝 1903.
- ^ a b 大日本現代教育家銘鑒 第2輯 1915, p. 412.
参考文献
- 斎木織三郎編『大日本現代教育家銘鑒 第2輯』教育実成会、1915年。
- 古林亀治郎編『現代人名辞典』中央通信社、1912年。
- 『現今日本名家列伝』日本力行会出版部、1903年。
関連文献
- 「日本橋高等女学校長 田中敬一氏」(三田商業研究会編纂 『慶応義塾出身名流列伝』 実業之世界社、1909年6月)
- 「田中敬一」(慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 1 塾員塾生資料集成』 慶應義塾、2012年10月)
外部リンク
- 附属小学校主事肖像 田中敬一 - お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ。
公職 | ||
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先代 校長心得 本田嘉種 |
台湾総督府国語学校長 1901年 - 1906年 校長心得 1900年 - 1901年 |
次代 校長心得 持地六三郎 |
先代 東京府尋常師範学校長 野尻精一 |
東京府師範学校長 1898年 - 1900年 東京府尋常師範学校長 1897年 - 1898年 |
次代 滝沢菊太郎 |
先代 校長心得 岩谷英太郎 |
東京府高等女学校長事務取扱 1898年 |
次代 校長 伊藤貞勝 |
先代 女子高等師範学校附属学校主事 篠田利英 |
女子高等師範学校附属小学校主事 1893年 - 1897年 |
次代 大久保介寿 |
先代 渡辺洵一郎 |
宮城県尋常師範学校長 1892年 - 1893年 |
次代 岡五郎 |
先代 棚橋衡平 |
岐阜県尋常師範学校長 1890年 - 1892年 校長心得 1890年 |
次代 坪井仙次郎 |
その他の役職 | ||
先代 寺田勇吉 |
私立日本橋高等女学校長 1908年 - 1924年 |
次代 落合寅平 |