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野尻精一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
のじり せいいち

野尻 精一
生誕 (1860-04-03) 1860年4月3日万延元年3月13日
播磨国姫路(現・兵庫県姫路市
死没 (1932-03-14) 1932年3月14日(71歳没)
東京府東京市小石川区小石川駕籠町(現・東京都文京区
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京師範学校中学師範学科
職業 教育者官吏
肩書き 従三位勲三等
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野尻 精一(のじり せいいち、1860年4月3日安政7年3月13日[1]) - 1932年昭和7年)3月14日[2])は明治時代から大正時代にかけての日本教育者文部官僚

経歴

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播磨国姫路藩士の家に生まれる[1]飾磨県小学校教員を経て、1882年明治15年)に東京師範学校(のちの東京高等師範学校)中学師範学科を卒業した[1]。文部省御用掛を経て、1886年(明治19年)よりドイツに留学し、プロイセン官立ノイチェルレ師範学校、ベルリン大学哲学教育学科、ライプツィヒ大学哲学教育学科で学んだ[1]1889年(明治22年)に帰国した後は高等師範学校教諭・帝国大学文科大学講師を務めた[1]。その後、高等師範学校教授、東京府尋常師範学校校長、文部省視学官、普通学務局第一課長、図書審査官、普通学務局長事務取扱を歴任した[1]1909年(明治42年)、奈良女子高等師範学校校長に就任し、1919年大正8年)まで務めた[3]

退官後は共立女子職業学校(現在の共立女子大学)理事を務めた[3]

栄典

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出典

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  1. ^ a b c d e f 大正人名辞典 p.1081 1917.
  2. ^ 20世紀日本人名事典 2004.
  3. ^ a b 大衆人事録 1930.
  4. ^ 『官報』第7743号「叙任及辞令」1909年4月21日。
  5. ^ 『官報』第2088号「叙任及辞令」1919年7月21日。
  6. ^ 『官報』第2717号「叙任及辞令」1921年8月20日。

参考文献

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  • 五十嵐栄吉『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。 
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。 
  • 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。 

関連文献

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外部リンク

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公職
先代
矢島錦蔵
東京府尋常師範学校長
1892年 - 1897年
次代
田中敬一
先代
斎藤篤信
山形県師範学校長
1884年 - 1886年
校長心得
1884年
次代
相良守典