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2020年7月23日 (木) 03:25時点における版

庾皇后
東晋の皇后
在位 365年8月13日[1] - 366年7月5日

全名 庾道憐
別称 孝皇后
死去 太和元年5月12日
366年7月5日
配偶者 廃帝
氏族 潁川庾氏
父親 庾冰
兄弟 庾希
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庾 道憐(ゆ どうりん、? - 366年)は、中国東晋廃帝司馬奕の皇后庾文君(明穆皇后、司馬奕の祖母)の姪。潁川郡鄢陵県の出身。父は庾冰(明穆皇后の兄)。

生涯

東海王司馬奕(のちの廃帝)に嫁ぎ、妃(正室)となった。司馬奕が即位すると、興寧3年(365年)7月、皇后に立てられた。しかし、皇后に冊立されてから10ヵ月ぶりである太和元年(366年)5月、崩じた。と諡された。

太和6年(371年)、司馬奕が廃され海西公となると、道憐も海西公夫人に追降された。

脚注

  1. ^ 晋書』巻8, 海西公紀 興寧三年秋七月壬子条による。

伝記資料

  • 『晋書』巻32, 列伝第2 后妃下