「野津道貫」の版間の差分
Rikushi44-2 (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし |
|||
41行目: | 41行目: | ||
* 野津は[[日清戦争]]に当初第5師団長として従軍し、[[山縣有朋]]が病で退いた後は第1軍司令官に就いた(第2軍司令官は大山巌、野津の後任師団長は[[奥保鞏]])。野津は奇襲の名手としてこの戦役最大の戦功を挙げ、もともと野津を気に入っていた[[明治天皇]]などは「朕深ク之ヲ嘉賞ス」など異例の三度の勅語をもって賞賛した。 |
* 野津は[[日清戦争]]に当初第5師団長として従軍し、[[山縣有朋]]が病で退いた後は第1軍司令官に就いた(第2軍司令官は大山巌、野津の後任師団長は[[奥保鞏]])。野津は奇襲の名手としてこの戦役最大の戦功を挙げ、もともと野津を気に入っていた[[明治天皇]]などは「朕深ク之ヲ嘉賞ス」など異例の三度の勅語をもって賞賛した。 |
||
* [[日露戦争]]開戦となり、満洲軍総司令官として当初は[[大本営]]を統括するはずだった大山が就任するにあたり、山縣が「出先(満洲)は野津に任せればよいのに」といったところ、大山は「そりゃあ戦なら七次どんのほうがいいでしょう」と答えた。大本営首脳部では野津・奥・黒木・乃木の軍司令官の中では野津を筆頭格とみていたようである。 |
* [[日露戦争]]開戦となり、満洲軍総司令官として当初は[[大本営]]を統括するはずだった大山が就任するにあたり、山縣が「出先(満洲)は野津に任せればよいのに」といったところ、大山は「そりゃあ戦なら七次どんのほうがいいでしょう」と答えた。大本営首脳部では野津・奥・黒木・乃木の軍司令官の中では野津を筆頭格とみていたようである。 |
||
* 野津と[[ |
* 野津と[[黒木為楨]]はともに[[鳥羽・伏見の戦い]]以来の古参であり、お互いを意識し合うライバル関係にあるといわれ、大山もそのことを気遣って自らが満洲軍総司令官の任に就いたのであるが、黒木第1軍が日本陸軍の先鋒として[[鴨緑江]]に進軍することが決定した際、野津は自ら黒木軍の司令部を訪れた。黒木は外出して不在であったが野津は「黒木に渡してくれ」と、日清戦争時に自分が使っていた鴨緑江周辺の地図を黒木軍参謀長の[[藤井茂太]]に渡した。 |
||
* 歴戦の猛将であるだけでなく大の頑固者として名のとどろいていた野津の参謀長については、並大抵の人物の意見具申では聞き入れられまいと人選が難航した。そこで[[上原勇作]]ならば、知略、格(当時少将)ともに申し分なく、なにより野津の娘婿だから大丈夫だろうということで人事が決定した。しかし、名参謀の上原を以てしても野津を抑えきるのは容易ではなく、[[川村景明]]中将(当時)を激怒させて野津の身代わりに上原が2回叱責されている。 |
* 歴戦の猛将であるだけでなく大の頑固者として名のとどろいていた野津の参謀長については、並大抵の人物の意見具申では聞き入れられまいと人選が難航した。そこで[[上原勇作]]ならば、知略、格(当時少将)ともに申し分なく、なにより野津の娘婿だから大丈夫だろうということで人事が決定した。しかし、名参謀の上原を以てしても野津を抑えきるのは容易ではなく、[[川村景明]]中将(当時)を激怒させて野津の身代わりに上原が2回叱責されている。 |
||
* 上原は17歳から野津家で書生をしていた。兄鎮雄が[[石本新六]]を支援していたことに対抗し、上原を[[陸軍幼年学校]]に入校させようとする。しかし、上原の年齢を失念していたため規定年齢(20歳)により入校は許可されなかった。あわてた野津は上原の年齢を1年誤魔化し、さらに編入という形で入校させている。上原の仏語の師であった[[武田斐三郎|武田成章]]が幼年学校長であったのが幸いした。士官学校に進学時、野津は上原に今後いかに[[工兵]]が重要となるかを説き「日本工兵をお前が創るのだ」と上原を工兵科に進学させた。それまで上原は砲兵科を希望していたため、同期生は皆驚いたという。野津の先見を証明するかのように、[[旅順要塞]]に対峙した乃木[[第3軍 (日本軍)|第3軍]]は工兵を上手く使えず苦戦を強いられた。大本営では乃木軍参謀長には砲術専門の[[伊地知幸介]]より、工兵の第一人者である上原の方が適任だったとして、野津軍の姻戚人事と乃木軍の藩閥人事を恨んだ(もっともこの当時、[[要塞]]攻撃に対する[[坑道]]掘進術は未熟だったと上原自身が述懐している)。 |
* 上原は17歳から野津家で書生をしていた。兄鎮雄が[[石本新六]]を支援していたことに対抗し、上原を[[陸軍幼年学校]]に入校させようとする。しかし、上原の年齢を失念していたため規定年齢(20歳)により入校は許可されなかった。あわてた野津は上原の年齢を1年誤魔化し、さらに編入という形で入校させている。上原の仏語の師であった[[武田斐三郎|武田成章]]が幼年学校長であったのが幸いした。士官学校に進学時、野津は上原に今後いかに[[工兵]]が重要となるかを説き「日本工兵をお前が創るのだ」と上原を工兵科に進学させた。それまで上原は砲兵科を希望していたため、同期生は皆驚いたという。野津の先見を証明するかのように、[[旅順要塞]]に対峙した乃木[[第3軍 (日本軍)|第3軍]]は工兵を上手く使えず苦戦を強いられた。大本営では乃木軍参謀長には砲術専門の[[伊地知幸介]]より、工兵の第一人者である上原の方が適任だったとして、野津軍の姻戚人事と乃木軍の藩閥人事を恨んだ(もっともこの当時、[[要塞]]攻撃に対する[[坑道]]掘進術は未熟だったと上原自身が述懐している)。 |
2020年7月22日 (水) 04:48時点における版
野津 道貫 のづ みちつら(どうがん) | |
---|---|
元帥陸軍大将時代の野津 | |
生誕 |
1841年12月17日 (天保12年11月5日) 日本 薩摩国鹿児島城下高麗町 |
死没 |
1908年10月18日(66歳没) 日本 東京府東京市赤坂区赤坂新坂町 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1871年 - 1908年 |
最終階級 | 元帥陸軍大将 |
墓所 | 青山霊園 |
野津 道貫(のづ みちつら / どうがん、天保12年11月5日(1841年12月17日) - 1908年(明治41年)10月18日)は、幕末の薩摩藩士、明治の陸軍軍人、貴族院議員。東部都督、教育総監、第4軍司令官を歴任した。通称は七次。諱は道貫。最終階級は元帥陸軍大将正二位大勲位功一級侯爵。兄に陸軍中将・野津鎮雄がいる。
生涯
鹿児島城下高麗町の下級藩士・野津鎮圭の二男として生まれる。幼くして両親を亡くした。薬丸兼義に薬丸自顕流を学ぶ。戊辰戦争に6番小隊長として参加。その活躍がめざましく、鳥羽・伏見の戦いから会津戦争、二本松の戦い、次いで箱館戦争に参戦。
明治4年(1871年)3月、藩兵3番大隊付教頭として上京し御親兵となる。同年7月、陸軍少佐に任じられ2番大隊付となる。明治5年(1872年)8月、陸軍中佐に昇進し近衛局分課に勤務。陸軍省第2局副長を経て、1874年(明治7年)1月、陸軍大佐に進級し近衛参謀長心得に就任。1876年(明治9年)7月から10月までフィラデルフィア万国博覧会に出張。1877年(明治10年)2月、西南戦争に政府軍第2旅団参謀長として出征。同年5月から8月まで豊後国指揮官を務めた。その後、日本陸軍上層部の一人となる。
1878年(明治11年)11月、陸軍少将に昇進し陸軍省第2局長に就任。その後、東京鎮台司令長官、同鎮台司令官を歴任。1884年(明治17年)2月から翌年1月まで陸軍卿・大山巌の欧州出張に随行。同年7月、子爵を叙爵し華族となる。1885年(明治18年)2月から4月まで清国に出張。同年5月、陸軍中将に進み広島鎮台司令官に就任。
1888年(明治21年)5月、第5師団長に親補され、1894年(明治27年)8月、日清戦争に出征。さらに第1軍司令官に転じた。1895年(明治28年)3月、陸軍大将となり、同年8月、伯爵を叙爵。11月、近衛師団長に親補され、東京防禦総督、東部都督、教育総監、軍事参議官を歴任。
1904年(明治37年)6月、第4軍司令官に就任し、日露戦争に参戦。1906年(明治39年)1月、元帥の称号を戴くまでに至る。
1907年(明治40年)9月、侯爵に陞爵。同月より翌年10月まで、貴族院議員を務めた。1908年(明治41年)10月6日、大勲位菊花大綬章を受ける。同年10月18日、幽門閉塞により薨去[1]。兄鎮雄と同じ青山霊園の墓所に葬られた。
エピソード
- 少年時代、仲間達と剣術の稽古に向かう途中で泥棒を捕まえたことがあった。仲間達が「官憲に突き出そう」というのを制し、野津少年は「それよりは早速ここで成敗してしまったほうがよい」といって、仲間達のふんどしを集めて結び合わせ、それで泥棒を松の木に縛り上げ、そのまま稽古に行ってしまった。
- 野津は若い頃、兄・野津鎮雄とともに薩摩藩士・奈良原繁(後の沖縄県知事)の家で書生をしていた。年末のあるとき奈良原家で人を集めて餅をつこうとしたところ、野津兄弟は「そんな大人数は要らない。二人で十分だ」といって、未明から夕暮れまで休まず二人ですべての餅をつきあげてしまった。さらに餅56人分を二人で平らげたのには薩摩屈指の剣豪として知られた奈良原も驚き「この二人が軍人になったら間違いなく大将の器だ」と公言するようになった。
- 慶応2年から3年にかけて、京都の藩邸で薩摩藩の兵学師範であった上田藩士の赤松小三郎より英国式兵学を叩き込まれる。赤松は帰郷する直前の慶応3年9月3日に中村半次郎(桐野利秋)らによって暗殺されたが、野津は恩師を暗殺された無念さから仇討を企図した。有馬藤太はその回顧録(『維新史の片鱗』)で「野津などは仇討を企てたものだが、トートー分からずに仕舞に成った」と述べているが、おそらく野津は分かっていたのであろう。西南戦争の折、苦渋の中でもなお桐野や西郷と戦ったのには、このときの無念さが背景にあるのかも知れない。
- 戊辰戦争の宇都宮城戦で大鳥圭介率いる幕府軍と対峙した野津は、会戦まもなく戦わずして兵を下げた。そのことを他の薩摩藩士に誹られると「自分は大鳥の訳本で西洋兵学を学んだ。間接的とはいえ彼は師であるので恩に報いるため兵を引いたのだ」と説明した。
- 薩英戦争において大山巌らと共に英国艦船に突入しようとしたほど勇猛で知られていた野津だが、日本の内戦である戊辰戦争には内心乗り気でなかったらしく「うつ人もうたるる人もあはれなり ともに御国の人と思へば」と詠い、この戦いを嘆いた。しかし皮肉なことに、この時の野津の活躍ぶりが高く評価されたため、この後、薩摩人の野津にとってはさらに辛い西南戦争で否応なく官軍主力を預かることになる。
- 二本松の戦いにて大壇口進軍の際、番所前の茶屋にて待ち構えていた六番隊大砲方の山岡栄治、青山助之丞2名の襲撃を受け、部下9名を斃された。明治31年、同地を訪れた野津は2名を称賛し、明治33年には二勇士戦死之碑を建立している[2]。
- 西南戦争では兄・鎮雄とともに、田原坂の戦いなどで大きな戦功を挙げ、後の地位を確たるものにした。しかし、野津はかつての師・西郷隆盛や同郷同輩と戦い、自らの部下も多く失ったこの戦いがよほど心痛だったらしく「田原坂では刀帯で弾が止まって命拾いした」などと断片を述べる程度でほとんど沈黙してしまった。一方でひそかに戦死した部下の名前を連ねて掛け軸にし、居室に掲げて毎日弔っていたという。
- 野津は日清戦争に当初第5師団長として従軍し、山縣有朋が病で退いた後は第1軍司令官に就いた(第2軍司令官は大山巌、野津の後任師団長は奥保鞏)。野津は奇襲の名手としてこの戦役最大の戦功を挙げ、もともと野津を気に入っていた明治天皇などは「朕深ク之ヲ嘉賞ス」など異例の三度の勅語をもって賞賛した。
- 日露戦争開戦となり、満洲軍総司令官として当初は大本営を統括するはずだった大山が就任するにあたり、山縣が「出先(満洲)は野津に任せればよいのに」といったところ、大山は「そりゃあ戦なら七次どんのほうがいいでしょう」と答えた。大本営首脳部では野津・奥・黒木・乃木の軍司令官の中では野津を筆頭格とみていたようである。
- 野津と黒木為楨はともに鳥羽・伏見の戦い以来の古参であり、お互いを意識し合うライバル関係にあるといわれ、大山もそのことを気遣って自らが満洲軍総司令官の任に就いたのであるが、黒木第1軍が日本陸軍の先鋒として鴨緑江に進軍することが決定した際、野津は自ら黒木軍の司令部を訪れた。黒木は外出して不在であったが野津は「黒木に渡してくれ」と、日清戦争時に自分が使っていた鴨緑江周辺の地図を黒木軍参謀長の藤井茂太に渡した。
- 歴戦の猛将であるだけでなく大の頑固者として名のとどろいていた野津の参謀長については、並大抵の人物の意見具申では聞き入れられまいと人選が難航した。そこで上原勇作ならば、知略、格(当時少将)ともに申し分なく、なにより野津の娘婿だから大丈夫だろうということで人事が決定した。しかし、名参謀の上原を以てしても野津を抑えきるのは容易ではなく、川村景明中将(当時)を激怒させて野津の身代わりに上原が2回叱責されている。
- 上原は17歳から野津家で書生をしていた。兄鎮雄が石本新六を支援していたことに対抗し、上原を陸軍幼年学校に入校させようとする。しかし、上原の年齢を失念していたため規定年齢(20歳)により入校は許可されなかった。あわてた野津は上原の年齢を1年誤魔化し、さらに編入という形で入校させている。上原の仏語の師であった武田成章が幼年学校長であったのが幸いした。士官学校に進学時、野津は上原に今後いかに工兵が重要となるかを説き「日本工兵をお前が創るのだ」と上原を工兵科に進学させた。それまで上原は砲兵科を希望していたため、同期生は皆驚いたという。野津の先見を証明するかのように、旅順要塞に対峙した乃木第3軍は工兵を上手く使えず苦戦を強いられた。大本営では乃木軍参謀長には砲術専門の伊地知幸介より、工兵の第一人者である上原の方が適任だったとして、野津軍の姻戚人事と乃木軍の藩閥人事を恨んだ(もっともこの当時、要塞攻撃に対する坑道掘進術は未熟だったと上原自身が述懐している)。
- 野津は満洲でよく狩りをして、鹿や兎の生き血を「胆力がつくから」と飲み、部下にも勧めて閉口された。そのような時「自分が若い頃は処刑者が出ると聞いたら飛んでいって、死体から生肝を取り出して食べたものだ」と嘘とも本当ともつかぬことを言って笑い飛ばしたという。
- 日清戦争までの野津は奇襲を得意としていたが、肉弾戦だけに味方の被害も少なくなかった。日露戦争になるとその時の教訓を活かして、無理攻めは極力せず相手の隙をついての一気強襲という作戦で一貫した。結果、日露戦争終期の奉天会戦においてもっとも戦力を保持していたのは野津第4軍であり、満身創痍の黒木第1軍に代わって会戦の主力となった。
- 兵力の消耗を極力抑え、奉天会戦までを寡少な兵力でひたすら忍んで戦った野津であったが、ロシア軍が敗走し追撃戦となった際、予備兵を野津軍に編入するまで待機せよと命ずる総司令部に対し、ついに「予備の兵など一兵も要らぬ!俺が行く!」と大喝し、猛将健在を知らしめた。
- 野津は日露双方から退却将軍とまで罵られた敵将アレクセイ・クロパトキンの撤退の鮮やかさに一目置いており、「これは撤退戦術であるから」と決して深追いはしなかった。また、戦後クロパトキンが軍法会議にかけられるという報せを聞いたときには「そもそも閣下は開戦に反対だったと聞く。それでも満州で指揮を取って立派に戦ったのに、負けたからと処罰されるのはあまりに気の毒だ」と憤慨したという。
- 乃木希典が学習院学長時代、「良家の淑女写真コンテスト」という日本初のミスコンが行われ、学習院3年生(当時16歳)の末弘ヒロ子が優勝した。これに乃木は「自分の美しさを誇示するとは如何」と問題視しヒロ子を退学処分とした。ヒロ子は弁解をしなかったが、後にこの件はヒロ子の義兄が勝手に写真を応募したものであったという次第を知り、乃木は激しく後悔し中退者となったヒロ子の将来を案じて良縁を求めて奔走した。それを知った野津が「うちの長男(鎮之助・後の貴族院議員)でどうか」と申し出、望外の縁談で乃木の面目を保った。一方で鎮之助とヒロ子は以前から婚約しており、この逸話は乃木の名誉挽回のための創作という説もある。
栄典
- 位階
- 1874年(明治7年)2月18日 - 従五位[3]
- 1885年(明治18年)7月25日 - 従四位[4]
- 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[5]
- 1894年(明治27年)6月30日 - 正三位[6]
- 1899年(明治32年)12月20日 - 従二位[7]
- 1908年(明治41年)10月18日 - 正二位[8]
- 勲章等
- 1882年(明治15年)12月29日 - 勲二等旭日重光章[9]
- 1884年(明治17年)7月7日 - 子爵[10]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[11]
- 1893年(明治26年)5月26日 - 勲一等瑞宝章[12]
- 1895年(明治28年)
- 1906年(明治39年)
- 1907年(明治40年)9月21日 - 侯爵[16]・貴族院議員章[17]
- 1908年(明治41年)10月6日 - 大勲位菊花大綬章[18]
- 外国勲章佩用允許
- 1905年(明治38年)2月27日 - 大清帝国:頭等第三双竜宝星[19]
- 1906年(明治39年)
- イタリア王冠勲章グランデ・ウッフィチャーレ
- 1等聖スタニスラウス勲章
- 2等鉄冠勲章
- 2等王冠勲章
- レジオンドヌール勲章コマンドゥール
親族
- 兄 野津鎮雄(陸軍中将)
- 妻 野津登女子 高島喜兵衛の娘(陸軍中将高島鞆之助の妹)
- 長男 夭折(明治13年、少尉に任官した上原とともに撮影されている中央の少年、右は鎮雄)[22]
- 二男 野津鎮雄(陸士12期[23] 騎兵大尉、1878年生、1907年1月4日死去[24])
- 三男 野津鎮之助(侯爵・陸士15期 砲兵少佐)
- 四男 野津鎮彦(陸士22期 砲兵少佐)
- 長女 上原槙子(元帥陸軍大将 上原勇作の妻)
- 次女 林栄子(日本郵船専務 林民雄の妻)
- 三女 池田輝子(日清生命保険社長 池田龍一の妻)
- 四女 三浦美都子(名古屋電灯初代社長・三浦恵民の妻)[25]
- 孫 大原真佐子(実業家大原総一郎の妻)
- 孫 浜口美智子(ヒゲタ醤油元社長11代浜口吉右衛門久常の妻)
脚注
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)226頁
- ^ 星亮一『二本松少年隊のすべて』 新人物往来社2009年 ISBN 978-4-404-03568-4、p225、241
- ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号109
- ^ 『官報』第672号「叙任」1885年9月25日。
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1894年7月2日。
- ^ 『官報』第4943号「叙任及辞令」1899年12月21日。
- ^ 『官報』第7596号「叙任及辞令」1908年10月20日。
- ^ 「陸軍少将黒川通軌外六名勲二等ニ進叙」 アジア歴史資料センター Ref.A15110025500
- ^ 『官報』第307号「授爵・叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第2971号「叙任及辞令」1893年5月27日。
- ^ 『官報』第3631号「授爵・叙任及辞令」1895年8月6日。
- ^ 『官報』第3849号・付録「辞令」1896年5月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第7276号「帝国議会 - 貴族院 - 議員就職」1907年9月28日。
- ^ 『官報』第7586号「叙任及辞令」1908年10月7日。
- ^ 『官報』第6502号「叙任及辞令」1905年3月7日。
- ^ 『官報』第6790号「叙任及辞令」1906年2月20日。
- ^ 『官報』第6919号「叙任及辞令」1906年7月23日。
- ^ 『元帥上原勇作伝上巻』86~87項. 元帥上原勇作伝記刊行會. (1937)
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治36年7月1日調 539項. 陸軍省. (1903)
- ^ 『官報』第7055号、明治40年1月8日。
- ^ 野津鎭之助 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]
関連項目
参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治36年7月1日調8ページに記載あり。
外部リンク
軍職 | ||
---|---|---|
先代 空席 |
東京鎮台司令長官 1979年1879年9月24日、司令官に改称 第5代(初代):1878年12月14日 - 1879年9月24日 |
次代 空席 司令官代理:北白川宮能久親王 |
先代 野崎貞澄 |
広島鎮台司令官 第4代:1885年5月21日 - 1888年5月12日 |
次代 第5師団へ再編 |
先代 新設 |
第5師団長 初代:1888年5月14日 - 1894年11月29日 |
次代 奥保鞏 |
先代 山縣有朋 |
第1軍司令官 第2代:1894年12月19日 - 1895年5月28日 |
次代 解散 |
先代 北白川宮能久親王 |
近衛師団長 第3代:1895年11月9日 - 1896年5月10日 |
次代 佐久間左馬太 |
先代 空席 |
東京防禦総督 初代:1896年5月10日 - 1898年1月14日 |
次代 桂太郎 |
先代 寺内正毅 |
教育総監 第2代:1900年4月25日 - 1904年3月17日 |
次代 寺内正毅 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
侯爵 野津(道貫)家初代 1907年 - 1908年 |
次代 野津鎮之助 |
先代 陞爵 |
伯爵 野津(道貫)家初代 1895年 - 1907年 |
次代 陞爵 |
先代 叙爵 |
子爵 野津(道貫)家初代 1884年 - 1895年 |
次代 陞爵 |