野崎貞澄
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野崎 貞澄(のざき さだずみ、1840年2月22日(天保11年1月10日)[1] - 1906年(明治39年)1月8日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。
経歴
[編集]薩摩藩士野崎貞門の嫡男として生まれる。戊辰戦争に従軍し、明治維新後は御親兵として上京する。明治4年9月3日(1871年10月16日)、陸軍少佐として一番大隊長に就任。1873年(明治6年)4月、名古屋鎮台大弐御用取扱。1874年(明治7年)1月、近衛歩兵第1連隊長として佐賀の乱に出動した。その際、帝国陸軍最初の軍旗拝受を栄に浴している。1878年(明治11年)9月、仙台鎮台参謀長、同年11月、歩兵大佐、翌月、熊本鎮台参謀長、1881年(明治14年)1月には中部監軍部参謀に就任した。
1882年(明治15年)2月、陸軍少将に進級して広島鎮台司令官に就任。1885年(明治18年)5月、歩兵第12旅団長、次いで歩兵第2旅団長へ異動。1887年(明治20年)5月24日、軍功により男爵位を授けられて華族となった[2]。
1889年(明治22年)8月、将校学校監。1890年(明治23年)6月、陸軍中将に進み、第6師団長に親補された。1892年(明治25年)12月に休職。1894年(明治27年)8月、留守近衛師団長として復帰し、留守第1師団長に転じ、1895年(明治28年)6月に休職。1900年(明治33年)6月、予備役に編入された。1903年12月1日、後備役となる[3]。墓所は青山霊園1-イ13-18。
孫に作曲家の岩井直溥がいる。
栄典
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[4]
- 1890年(明治23年)6月19日 - 従三位[5]
- 1900年(明治33年)6月20日 - 正三位[6]
- 1906年(明治39年)1月8日 - 従二位[7]
- 勲章等
- 1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章[8]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]
- 1895年(明治28年)8月20日 - 勲一等瑞宝章[10]
- 1906年(明治39年)1月8日 - 旭日大綬章[7]
脚注
[編集]- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻(霞会館、1996年)p.341
- ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
- ^ 『官報』第6174号、明治37年2月3日。
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第2094号「叙任及辞令」1890年6月24日。
- ^ 『官報』第5089号「叙任及辞令」1900年6月21日。
- ^ a b 『官報』第6756号「叙任及辞令」1906年1月10日。
- ^ 『官報』第1476号「叙任及辞令」1888年6月2日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 野崎(貞澄)家初代 1887年 - 1906年 |
次代 野崎貞義 |