野津鎮之助
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野津 鎮之助(旧字体:野津 鎭之助、のづ しずのすけ、1883年(明治16年)7月8日[1] - 1942年(昭和17年)11月14日[1][2])は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。陸軍砲兵少佐、貴族院侯爵議員。
経歴
[編集]陸軍将校・野津道貫、登女子夫妻の三男として生まれる[1][3][注 1]。兄二人が先立っていたため父の死去に伴い1908年11月10日、侯爵を襲爵して貴族院侯爵議員に就任[2][4]。火曜会に所属して死去するまで在任した[2]。
1903年11月30日[5]、陸軍士官学校(15期[3])を卒業し、1904年2月12日、陸軍砲兵少尉に任官[2][5]。同年、兄鎮雄とともに日露戦争に従軍[6][要出典]。1905年6月30日中尉、1913年8月31日大尉に昇進[7][8]。近衛野戦砲兵連隊補充大隊副官[7]、陸軍野戦砲兵射撃学校教官兼馬術教官、陸軍士官学校教官兼馬術教官、陸軍士官学校本科教官、陸軍将校生徒試験常置委員[8]などを歴任[2]。1920年、陸軍砲兵少佐に進み、1923年、予備役に編入された[9]。
栄典
[編集]- 1904年(明治37年)4月7日 - 正八位[10]
- 1905年(明治38年)8月18日 - 従七位[11]
- 1914年(大正3年)2月10日 - 従四位[12]
- 1925年(大正14年)2月28日 - 従三位[13]
- 1940年(昭和15年)4月1日 - 従二位[14]
親族
[編集]- 妻 野津ヒロ子(末弘直方四女)[1][9]
- 長男 野津能貫(夭折、1917年死去)
- 次男 野津高光(侯爵、海軍主計少尉 1995年死去)[1][9]
- 長女 浜口美智子(浜口久常・11代浜口吉右衛門の妻)[1][9]
- 二女 大原真佐子(大原総一郎の妻)[1][9]
- 三女:田中佐恵子(田中源太郎の孫で田中一馬の子・田中秀雄の妻)[15]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『人事興信録』第13版下、ノ18頁では三男。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』下巻、344-345頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』21頁。
- ^ a b 『日本陸海軍総合事典』第2版、122頁「野津道貫」。
- ^ 『官報』第7615号、明治41年11月12日。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』194頁。
- ^ 『元帥上原勇作伝 下巻』457-459頁。. 元帥上原勇作伝記刊行會. (1937年)
- ^ a b 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正3年7月1日調』陸軍省、1914年、907頁。NDLJP:930891/461。
- ^ a b 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正9年9月1日調』陸軍省、1920年、1051頁。NDLJP:930893/539。
- ^ a b c d e 『人事興信録』第13版下、ノ18頁。
- ^ 『官報』第6228号「叙任及辞令」1904年4月8日。
- ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。
- ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。
- ^ 『官報』第3790号「叙任及辞令」1925年4月14日
- ^ 『官報』第4031号「叙任及辞令」1940年6月15日。
- ^ 田中一馬『人事興信録』15版下 (人事興信所, 1948)
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録』第13版下、1941年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 『元帥上原勇作伝』元帥上原勇作伝記刊行會、1937年。
- 野津家墓誌
日本の爵位 | ||
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先代 野津道貫 |
侯爵 野津(道貫)家第2代 1908年 - 1942年 |
次代 野津高光 |