「徳川家康 (1965年の映画)」の版間の差分
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2020年7月17日 (金) 14:31時点における版
徳川家康 | |
---|---|
監督 | 伊藤大輔 |
脚本 | 伊藤大輔 |
製作 | 大川博 |
出演者 |
北大路欣也 中村錦之助 山本圭 |
音楽 | 伊福部昭 |
撮影 | 吉田貞次 |
公開 | 1965年1月3日 |
上映時間 | 143分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 2億1500万円[1] |
『徳川家康』(とくがわいえやす)は、東映が製作し、1965年(昭和40年)1月3日に公開された日本の時代劇映画。総天然色、143分。東映京都撮影所作品。山岡荘八原作の『徳川家康』の映画化[2][3]。
NET(現・テレビ朝日)のテレビドラマ『徳川家康』で若き日の徳川家康を演じた北大路欣也が主演[3][4]。徳川家康の出生前から桶狭間の戦いまでが描かれる[3]。
概要
当初は内田吐夢監督の『宮本武蔵』のように、5部作(年1、2本予定)のシリーズ化公開する予定だったが、東映時代劇退潮時期であり[5]、本作1本で打ち切りとなった。伊藤大輔監督はこの年、東映を退社した。
本作の合戦シーンの一部は、ピー・プロダクション制作のTV時代劇『快傑ライオン丸』(フジテレビ)の第1話冒頭で使用されている[6]。
ストーリー
駿府を居城とし、駿、遠、参の三国を領する今川義元が強大な勢力を誇っていた。西には新鋭の織田信秀が東方に進出し、西三河は東西勢力の接触点となっていた。この地域を拠点としていた岡崎と刈谷は、両勢力いずれかにつかざるを得ず、刈谷の水野は、刈谷の姫於大(おだい)を和睦のしるしに三州岡崎の城主松平広忠の許へやり、今川方の松平に属した。
天文11年、於大は男子を出生、松平竹千代と名づけた。寅の日、寅の刻という奇瑞に岡崎城下は沸いた。
3歳の春、於大の父は病死し、城主となった信元は今川の勢力を脱し織田方と盟を結んだ。於大は兄の一決で織田方阿久居の城主久松俊勝のもとに嫁いだ。病弱な広忠は如何なる運命にも耐えて、竹千代を守れと於大を送る。今川義元は伯父 ・雪斎禅師の進言を容れ、岡崎を織田進撃を喰い止める要路とみて、竹千代を人質に迎える旨岡崎に伝えた。弱小国・岡崎のとる道は唯一つ、竹千代は七人の侍童に守られて駿府に向かった。だが途中、田原領主・戸田弾正の寝返りで、竹千代は一千貫で織田方に売られ、侍童たちは次々と割腹した。
信元は竹千代の命と引き換えに、織田方へ加担をすすめたが、広忠は武士の意地から拒否。これを聞いた於大は熱田に向かい、吉法師(後の織田信長)のおかげで竹千代の姿を垣間見る。竹千代は「母はおらん」というが、吉法師は於大の心に激しく心を揺さぶられ、竹千代が折った金色の折鶴を於大に渡す。
天文18年、広忠が病死し、弔いにかこつけて安祥城を奇襲した岡崎勢は城主信広と交換に、竹千代を3年ぶりに三河に迎えた。それもつかの間、竹千代は岡崎を去って駿府の人質となり、三河は今川に統轄された。
10年後、吉法師は信長と名を改め、勢力を拡げ、今川方を脅す。竹千代の動静を藤吉郎を派遣し、つぶさに於大に知らせるが、信長の真意は分からなかった。竹千代も元服して元信と名を改め、義元の姪・瀬野と婚儀を結ぶ。雪斎は「お主は岡崎の者か、今川の者か」と問いつめる。
永禄3年、義元は天下統一のため上洛を決める。信長は元信の動静に眼を離すなと藤吉郎に命ずる。松平の血を継ぐ元信は岡崎譜代の家臣と自分のために切腹した7人の侍童に報いるため、大高城にこもり、織田方との戦いを避ける。信長は大高城を迂回し、桶狭間の今川の本陣に入り、義元の首をはねる。報を聞いた元信は織田軍に乗り込むと義元の首を受けたいと告げる。恨みよりも恩を返そうとする元信の心に、信長は拒否するが、かねて約束の馬を与えるといい、馬と馬がぶらさげていた義元の首を手渡す。
スタッフ
- 製作:大川博
- 企画:岡田茂、小川三喜雄、天尾完次
- 監督:伊藤大輔
- 助監督:山内鉄也
- 脚本:伊藤大輔
- 原作:山岡荘八『徳川家康』
- 撮影:吉田貞次
- 音楽:伊福部昭
- 美術:川島泰三
- 録音:渡辺芳丈
- 照明:中山治雄
- 編集:宮本信太郎
- 衣裳考証:甲斐荘楠音
- 語り手:滝沢修
- 進行主任:黒木正美
- スチール:諸角義雄
- 制作:東映京都撮影所
キャスト
- 松平三郎元信:北大路欣也[注 1]
- 竹千代(3歳):畠山淑子
- 竹千代(6歳 - 9歳):青木勇嗣
- 織田信長:中村錦之助
- 木下藤吉郎:山本圭
- 於大:有馬稲子
- 松平広忠:田村高広
- 久松佐渡守俊勝:穂高稔
- 雪斉禅師:千田是也
- 織田信秀:三島雅夫
- 濃姫:宮園純子
- 大久保新十郎:天津敏
- 大久保新八郎:中村錦司
- 酒井雅楽助:清水元
- 鳥居忠吉:内田朝雄
- 長坂血槍九郎:山本麟一
- 水野忠政:加藤嘉
- 石川安芸:明石潮
- 植村新六郎:原田清人
- 本多小夜:桜町弘子
- 今川義元:西村晃
- 関口刑部親永:松本克平
- 平手汎秀:小田部通麿
- 林通勝:香川良介
- 織田信広:近江雄二郎
- 服部小平太:脇中昭夫
- 杉山元六:中村時之介
- 今川氏真:五十嵐義弘
- 水野下野守信元:原田甲子郎
- 金田与三左衛門:尾形伸之介
- 大久保甚四郎:岩尾正隆
- 阿部大蔵:加賀邦男
- 奥山伝心:佐藤慶
- 佐久間大学:矢奈木邦二郎
- 十阿弥:上方哲也
- 松平与一郎:千葉重樹
- 天野又五郎:西本雄司
- 白須:有川正治
- 円:遠山金次郎
- 弁:五里兵太郎
- 本多鍋之助:竹内満
- 平岩七之助:安中滋
- 石川与七郎:白井武雄
- 阿部徳丸:保坂礼二
- 平岩助右衛門:北邑栄二
- 飯尾近江:村居京之輔
- 毛利新助:河村満和
- 奇妙丸:堀川まこと
- 茶筅丸:井上ひろし
- 岩室長門:川波公次郎
- 志女:山乃美七子
- 甲:東竜子
- 善九:藤本秀才
- 銅六:大前均
- 遊喜:寺島昭代
- 一ノ姫:吉本晴美
- 戸田五郎政直:国一太郎
- 虎之助:菅野直行
- 万蔵:蓑和田良太
- 山口左馬助:鈴木欣也
- 山口九郎二郎:江木欣也
- 天野甚工:片岡半蔵
製作
企画
企画は東映京都撮影所(以下、東映京都)所長・岡田茂[5][7]。当時の東映の時代劇はあまりお客は入らなかったが[5]、大映の時代劇はお客を集め[5]、テレビの『隠密剣士』や『三匹の侍』などは圧倒的人気で[5]、特に『月光忍者部隊』や『風のフジ丸』などの忍者ものは漫画にまで普及して大きな人気を集め[5]、1965年は時代劇のピークが来るのではと予想する映画関係者もいた[5]。岡田は大映に対抗するには東映のオールスター映画を復活させて口火をつけようとテレビで放映中の『徳川家康』の映画化に踏み切った[5]。『徳川家康』は数年来ブームを呼んでおり、吉川英治の『新平家物語』以上の読者を持ち、現代経営者から、学生、サラリーマンと、老若男女すべてに必見の書といわれていた[5][8]。各映画会社とも映画化を企画していたが、山岡荘八が映画化をOKしなかった[5]。山岡は「まだ小説が継続中に映画化されてはテーマを全く別の視覚からバラバラに切りさいなまれるようなもの」などという持論をもっていた[5]。岡田は監督に伊藤大輔を起用し、脚本も執筆するという条件を提示し[5]、山岡は「伊藤さんならば安心してお願い出来る」と東映時代劇への信用と合わせて映画化を了承した[5]。
1964年2月1日、大川博東映社長が社の大巾な機構改革と、それに伴う人事異動を発表し[9][10][11]、製作の中心が明確に現場に移され[11]、東西撮影所所長の権限増が明確にされた[11][12]。人事の目玉が東映東京撮影所(以下、東映東京)を現代劇で軌道に乗せた岡田取締役の東映京都所長復帰であった[5][9][13]。これは東映の表看板である時代劇の復興を岡田に託すという大川の肝煎りプロジェクトだったため[9][14]、岡田には直接の指揮権が移譲された[10][15]。またこの人事で東映創立以来の満映閥、東急閥などが脇に回され[10]、さらに1964年9月30日、東映が東急グループから離脱し[5][16][17]、同日付けで東急から出向していた東急系の役員、五島昇非常勤取締役を始め、小滝顕忠、山崎季四郎、伊勢憲三郎の他、伊藤義、吉田信、薦野直実、東映フライヤーズ代表・石原春夫ら、重鎮幹部がごっそり辞職した[5][16][17]。これにより大川の御意見番はいなくなり[11]、岡田にとっては兄貴分の五島とは表立って付き合えなくなったが[18]、上がかなり減って、思い切って腕を振れるようになった[5][11][17]。
キャスティング
北大路欣也は当時、東映の青春路線の担い手だったが[5]、岡田は「北大路の個性を生かした作品をと狙い過ぎていたのかも知れない」との反省があり[19]、随時、時代劇に起用する計画を立てた[5]。また当初は三田佳子もキャスティングされていたが出演しなかった[20]。三田は佐久間良子が『五番町夕霧楼』で一気に東映の看板女優になると同じ東映京都の廓もの『廓育ち』を演じて演技開眼と騒がれ、ライバル意識を明確にし[21]、映画業界から「あれほどライバル意識を燃やしているライバルもない。リッパだ」と褒められた[20][21]。当時の各社人気のバロメーターといわれた映画会社のカレンダーに、東映は1965年度版に女優では佐久間と三田だけ単独での起用を決めると先輩の佐久間がクレームを付け、佐久間が正月、三田を九月に変更し、佐久間が矛を収めた[20]。三田の抬頭は佐久間を緊張させた[21]。東映は三田の将来性を大いに買って、一気に売り出そうと『赤いダイヤ』『仇討』の後、オールスター正月大作に起用を予定していた[20]。三田はこの頃から東映にとどまる限り、佐久間を越えるのは不可能と東映退社を考え始めたといわれる[21]。
東映時代劇の終焉
岡田茂は、早くから時代劇中心の東映京都を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考えていた[14][22][23][24][25]。当時の東映京都は、第二東映の失敗で余剰人員が膨らんでいた[22][26][27][28]。1964年1月に東映京都所長に復帰するや、赴任早々「時代劇は一切止める」と宣言し大騒動になった[25][29]。時代劇を切り捨て、任侠映画主体に切り換えるには大変な出血を必要としたが[11][25][30] 、岡田は断々乎とこれを実行した[11] [14][24][31][32]。岡田は任侠路線を敷く布石を置きながら[11][24]、時代劇の復活にも努力したが[26][33]、作品の評価とは関係なく、興行的には凡打が続き[11]、本作『徳川家康』も亦所期の数字にまで達するに至らず[11][33]、時代劇の打ち切りを決断した[24][33]。本作と『飢餓海峡』、1965年4月10日公開の『冷飯とおさんとちゃん』と[34]、1965年度大作が相次いで不入りに終わり[34]、岡田は時代劇からの撤退を宣言[35][36][37]。1965年に予定されていた時代劇は大半を製作中止にし[34][35][36][37]、この煽りで本作も1本で打ち切りとなった。東映の財産である時代劇はテレビに徐々に移して行き[38]、テレビ時代劇を映画と並ぶ事業の柱とする素地を作り[38][39]、映画ではテレビでは出来ない"不良性感度"を推進し[28][30][38][39]、アンビヴァレンツな方向性を明確に打ち出していく[28][38]。岡田が東映京都に復帰する前年1963年には、東映京都は全て時代劇を54本も製作したが[40]、1964年は時代劇27本[40]、1965年の時代劇製作は14本に減らし[40]、1966年正月映画には東映創立以来初めて時代劇を外した[11]。合理化の荒治療が一応の目途がついたのは1965年暮れで[29]、正統的な時代劇製作は1966年からは目立って減り[40]、1967年が3本[40]、1968年は0になった[40]。
岡田は振り返って「時代の流れの変化でダメになったものを如何に切り捨てるか、切り変えて時代の流れに即したものを生み出してゆけるか。東映が今日まで生きのびて来られたのは、時代劇がダメになって、誰もなかなか止め切れん時、僕が今までの功労者を全員切ったからです。凄い反撥抵抗があったが時代劇の製作を止めた。次の10年、全盛を誇った任侠映画、寿命盡きて止める時も同じシンドイ思いをしたんだが止めた」などと述べている[41]。
撮影記録
注釈
出典
- ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)210頁
- ^ “徳川家康”. 日本映画製作者連盟. 2019年7月21日閲覧。
- ^ a b c 「お正月の日本映画ご案内 EIGA CORNER 『徳川家康』」『月刊明星』、集英社、1965年2月号、239頁。
- ^ 大黒東洋士「今月の話題映画はこれだ!」『月刊平凡』1965年2月号、平凡出版、198-199頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「大川指導路線の全貌 東映独立体制の整備成る 東映事業団の成長促進の歩み 東急傘下を離れ独立独歩の姿勢」『映画時報』1964年11月号、映画時報社、28-34頁。
- ^ 『うしおそうじとピープロの時代 スペクトルマンVSライオン丸』(太田出版)
- ^ 「日本映画製作者名鑑」『キネマ旬報』1966年3月上旬号、キネマ旬報社、34頁。
- ^ “バラエティに富む東映正月番組 話題呼ぶ超大作『徳川家康』”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 7. (1964年11月14日)
- ^ a b c 「東映事業中心の多角経営を促進 東映、時代に則した新機構人事」『映画時報』1964年3月号、映画時報社、24-26頁。
- ^ a b c 「座談会日本映画界はどう進むべきか?―現代の経営路線に悩む各社―」『映画時報』1964年5月号、映画時報社、20-21頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 私の東映30年 1991, pp. 139–147.
- ^ 井沢淳・瓜生忠夫・大黒東洋士・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿「〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか」『キネマ旬報』1965年7月上旬号、キネマ旬報社、16頁。
- ^ 波瀾万丈の映画人生 2004, pp. 164–165.
- ^ a b c “【戦後史開封】(290) チャンバラ映画(5) 時代劇撤退次々去った東映スター”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 朝刊特集. (1995年3月18日)
- ^ 「日本映画界の巻返しと前進 各社各様の経営戦略を探る 映画界の若獅子に試練の波 東映、岡田体制の確立急ぐ」『映画時報』1973年4月号、映画時報社、12-14頁。
- ^ a b クロニクル東映2 1991, p. 36.
- ^ a b c 「座談会新しき企業路線に適した明日を背負う人々を探る企業役員構成を一新した東映大川社長、陣頭指揮の新体制」『映画時報』1964年12月号、映画時報社、12-16頁。
- ^ 「五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終」『経済界』1980年3月21日号、経済界、18 - 21頁。
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- ^ a b c d 加東康一「BIG STAR/19 三田佳子」『映画情報』、国際情報社、1977年11月号、65-66頁。
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- ^ a b c あかんやつら 2013, pp. 191–229.
- ^ a b c 「匿名座談会 如何にしてこの危機を乗り切るか 経営者は頂上作戦に大童わ 五社長も危機突破に陣頭指揮 東映王国も"新体制確立運動"展開」『映画時報』1965年8月号、映画時報社、15-17頁。
- ^ a b あかんやつら 2013, pp. 208–209.
- ^ a b 仁義なき日本沈没 2012, pp. 102–107.
- ^ a b 由原木七郎「由原木七郎の日本映画スケッチ(82) (秘)エピソードでつづるあの男優この女優 萬屋錦之介 その四 東映"城"との対決」『週刊明星』、集英社、1979年5月13日号、168-167頁。
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- ^ a b 浜田奈美 (2011年5月17日). “『映画は商品』持論貫く 岡田茂・東映名誉会長”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 1
- ^ a b c d e f 悔いなきわが映画人生 2001, pp. 399–412.
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参考文献
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- 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年。ISBN 4879320161。
- 岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年。ISBN 404883871-7。
- 品川隆二・円尾敏郎『品川隆二と近衛十四郎、近衛十四郎と品川隆二』ワイズ出版、2007年。ISBN 9784898302064。
- 佐藤忠男(編)『日本の映画人 日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年。ISBN 978-4-8169-2035-6。
- 品川隆二・円尾敏郎『品川隆二と近衛十四郎、近衛十四郎と品川隆二』ワイズ出版、2007年。ISBN 9784898302064。
- 春日太一『仁義なき日本沈没 東宝VS.東映の戦後サバイバル』新潮社〈新潮新書〉、2012年。ISBN 9784106104596。
- 黒沢清・四方田犬彦・吉見俊哉・李鳳宇(編)「日本映画とやくざ、あるいは『不良性感度の時代』 2.任侠やくざ映画の時代 文・内藤誠」『日本映画は生きている 第四巻 スクリーンのなかの他者』岩波書店、2010年。ISBN 978-4-00-028394-6。
- 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年。ISBN 9784163768106。
- 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年。