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この戦いでは、公孫瓚軍の[[田楷]]・[[劉備]]が陶謙側の援軍に来ていた。陶謙は劉備を引き留め、[[豫州]]刺史に推挙し小沛に駐屯させ、丹陽兵4,000人を与えるなど厚遇した<ref>蜀志「先主伝」による</ref>。 |
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興平元年(194年)、徐州に曹操が再侵攻した。五城が陥落させられ、さらに琅邪を越え東海まで攻め込まれた。郯の東に[[曹豹]]・劉備を駐屯させていたが、曹操は帰還途中に郯を通過した時、両者を撃破した。曹操は通過した地域で多数の者を虐殺したという。陶謙は、琅邪・東海の諸県を曹操が蹂躙していることに怖気付き、故郷の丹陽へ逃げ帰ろうとしたが、曹操の本拠地である兗州で、[[ |
興平元年(194年)、徐州に曹操が再侵攻した。五城が陥落させられ、さらに琅邪を越え東海まで攻め込まれた。郯の東に[[曹豹]]・劉備を駐屯させていたが、曹操は帰還途中に郯を通過した時、両者を撃破した。曹操は通過した地域で多数の者を虐殺したという。陶謙は、琅邪・東海の諸県を曹操が蹂躙していることに怖気付き、故郷の丹陽へ逃げ帰ろうとしたが、曹操の本拠地である兗州で、[[張邈]]・[[張超 (広陵太守)|張超]]兄弟と[[陳宮]]らが[[呂布]]を引き入れ反乱を起こしたため、曹操軍が撤退することになり、危機を脱した。 |
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しかし陶謙は病で重篤に陥り、[[糜竺]]に徐州を劉備に譲るよう遺言を託し、間もなく死去した。享年63。 |
しかし陶謙は病で重篤に陥り、[[糜竺]]に徐州を劉備に譲るよう遺言を託し、間もなく死去した。享年63。 |
2020年7月15日 (水) 21:26時点における版
陶謙 | |
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後漢 安東将軍・徐州牧・溧陽侯 | |
出生 |
陽嘉元年(132年) 揚州丹陽郡 |
死去 |
興平元年(194年) 徐州彭城国 |
拼音 | Táo Qiān |
字 | 恭祖 |
陶 謙(とう けん、陽嘉元年(132年) - 興平元年(194年))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は恭祖。揚州丹陽郡の人[1]。『後漢書』と『三国志』魏志に伝がある。子は陶商・陶応。妻は甘氏[2]。
生涯
軍人として頭角を現す
幼い頃から好んで学問に励み[3]、やがて太学に行った。地方に戻ると郡・州の役人となり、やがて茂才に推挙された[4]。以後は、廬県令に任命されたのを皮切りに、幽州刺史に昇進した。
中平2年(185年)、中央に召還され議郎となり、韓遂らを討伐するため張温の指揮下で涼州に派遣された[5]。
徐州で黄巾党の残党が蜂起したため、徐州刺史に任命され、その討伐にあたった[6]。
勢力の拡大
初平元年(190年)、董卓に反対する義兵が近隣の州郡で蜂起したが、陶謙は事態を徐州から静観した。
黄巾の残党が再び活発化すると、陶謙が孫堅に援軍を依頼したため、孫堅軍の朱治が援軍を率いてやって来たこともあったという[7]。
董卓の死後、李傕・郭汜が長安の朝廷を牛耳るようになると、陶謙は朱儁に太師となることを勧め、諸侯同盟の復活を目論んだが、孔融・鄭玄など一部の太守や学者の賛同しか得られず、まもなく朱儁本人が長安の朝廷への帰順を決めたため、 陶謙の目論見は頓挫した[8]。陶謙は間道を使って長安に貢物を送ったため、安東将軍・徐州牧に任命され、溧陽侯の爵位を得た。
関東の諸侯が互いに争う中で、陶謙の推挙した王朗が会稽太守に任命されるなど、陶謙は揚州にもその勢力圏を伸ばすようになった。
この頃の徐州は豊かな土地であり、流民が戦乱を避けて身を寄せるほどだったといわれる。
しかし、その中にあって陶謙は次第に道義へ背くようになり、感情に任せて行動するようになっていった[9]。
曹操との敵対
袁紹・曹操と袁術・公孫瓚が争うようになると、陶謙は公孫瓚に呼応して発干に出陣し、袁紹を圧迫しようとしたが、曹操に打ち破られた(魏志「武帝紀」)。
初平4年(193年)、下邳郡の闕宣[10]が勢力を振るうようになると、陶謙は闕宣と同盟して泰山郡の費県・華県において略奪を働いた。しかしやがて仲違いが起こったため、闕宣を殺害しその軍勢を吸収した。また、同時期に曹操の父曹嵩が、陶謙の勢力圏内で殺害されるという事件が起きた。一説には陶謙が殺害したともいわれ、陶謙は兗州を治めていた曹操の仇敵となった[11]。
同年秋、陶謙は曹操の侵攻により領内の十数城を奪われ、彭城での大戦や曹仁率いる別働隊と戦った傅陽戦を始め、取慮・睢陵・夏丘の各地で敗退した。陶謙は郯の地でようやく侵攻を押し留めたという。一方の曹操は兵糧を切らしたため撤退した。この一連の軍事行動の中で、曹操は各地で男女合わせ数十万人規模の住民を殺戮し、さらに犬や鶏まで残らず殺したため、泗水の流れが堰き止められるほどであったという。これによって、中央の戦乱からの避難民で豊かとなっていた徐州は、壊滅的な打撃を受けた[12]。また、この頃陶謙の配下であった笮融が徐州の経済的中心である下邳・広陵・彭城をもって半ば自立をしたため、陶謙軍が苦境に立たされたとする見方もある[13]。
この戦いでは、公孫瓚軍の田楷・劉備が陶謙側の援軍に来ていた。陶謙は劉備を引き留め、豫州刺史に推挙し小沛に駐屯させ、丹陽兵4,000人を与えるなど厚遇した[14]。
興平元年(194年)、徐州に曹操が再侵攻した。五城が陥落させられ、さらに琅邪を越え東海まで攻め込まれた。郯の東に曹豹・劉備を駐屯させていたが、曹操は帰還途中に郯を通過した時、両者を撃破した。曹操は通過した地域で多数の者を虐殺したという。陶謙は、琅邪・東海の諸県を曹操が蹂躙していることに怖気付き、故郷の丹陽へ逃げ帰ろうとしたが、曹操の本拠地である兗州で、張邈・張超兄弟と陳宮らが呂布を引き入れ反乱を起こしたため、曹操軍が撤退することになり、危機を脱した。
しかし陶謙は病で重篤に陥り、糜竺に徐州を劉備に譲るよう遺言を託し、間もなく死去した。享年63。
二人の子は仕官しなかった。
評
- 陳寿の評
- 「あるべき規範を守らず、感情に任せて行動したので、司法と行政の連携が取れず、多くの善良な人々が害を被り、これらによって生じた乱れは時を追うごとに大きくなった」[15]
- 「訳も分からないままに憂いの中で死んでいった」[16]
- 「州郡に拠って立ったが、凡人でもここまで酷い事にはならなかっただろう。論じるに値しない」[17]
- 韋昭『呉書』の評
- 「陶謙の性質は剛直で、世の規範を守って行動する人物だった」
- 「良い面構えをしている。将来必ずや大きな成功を収めるに違いない」(甘公)
- 「美徳と武勇と知性を兼ね備え、性質は剛直であり、その統治は恩愛をもって行われた」(張昭)
配下
脚注
- ^ 盧弼の『三国志集解』では、丹陽郡丹陽県の人と述べている。
- ^ 魏志「陶謙伝」が引く『呉書』よると、同県の人である蒼梧太守甘公の娘とする。
- ^ 魏志「陶謙伝」が引く『呉書』によると、陶謙の父は余姚県の県長であったが、陶謙が幼い頃に亡くなった。その後、陶謙は誰の世話にもならず生計を立て、良い評判が立ったとされる。その一方で、14歳(成人直前)になっても近所の子供たちを集めて、大将のように振舞って遊んでいた。14歳の時、蒼梧太守の甘公の娘婿となった件については別項で記す。
- ^ 「陶謙伝」が引く『呉書』によると、剛直で節義があったため孝廉に挙げられ、尚書郎に採り立てられた。後に叙県令に転じたところ、同郡出身で陶謙の父の友人でもあった、上役の郡太守張磐から折り有る毎に酒を強要され、それを断ったことで彼と不和となった。また、県の役人による着服行為を発見したが、陶謙は己の身は律しても、犯罪を暴き立てる事を好まぬ性質であったため、官職を棄てて任地を後にしたという。
- ^ 「陶謙伝」が引く『呉書』によると、皇甫嵩とともに西羌討伐で功績を立てた。しかし、張温の下に転属されると、その人となりや指揮能力に不満を抱くようになったという。ある時、張温から宴席で諸将に酒をついで回るよう命じられたことに怒り、満座の中で張温を面罵した。そのために張温の怒りを買って、辺境に左遷された。後に、同僚の弁護があって復帰したとされる。
- ^ 魏志「臧覇伝」によると、このとき騎都尉として臧覇が採り立てられている
- ^ 呉志「朱治伝」による。
- ^ 『後漢書』「朱儁伝」による。
- ^ その有様は次のようであったとされる。
- ^ 自分勝手に皇帝を名乗った宗教指導者。「武帝紀」によると、曹操には朝廷から闕宣追討の勅令が出ていた。
- ^ 曹嵩殺害の経緯についてはいくつか説が有るので載せる。
- ^ 『後漢書』「陶謙伝」による
- ^ 柿沼陽平「後漢末の群雄の経済基盤と財政補填策」(初出:『三国志研究』第11号(2016年)/所収:柿沼『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P119.
- ^ 蜀志「先主伝」による
- ^ 原文「背道任情、刑政失和、良善多被其害、由是漸乱」
- ^ 原文「昏乱而憂死」
- ^ 公孫瓚・公孫度・張楊とあわせての評価。
参考文献
- 陳寿著、裴松之注「正史 三国志」1巻 (魏書I) 、今鷹真・井波律子訳、筑摩書房 (ちくま学芸文庫) 、1992年2月 ISBN 4-480-08041-4
- 陳寿著、裴松之注「正史 三国志」2巻、井波律子・今鷹真訳、筑摩書房 (ちくま学芸文庫) 、1993年1月、81 - 90頁 ISBN 4-480-08042-2
- 陳寿著、裴松之注「正史 三国志」3巻、井波律子・今鷹真訳、筑摩書房 (ちくま学芸文庫) 、1993年2月 ISBN ISBN 4-480-08043-0
- 陳寿著、裴松之注「正史 三国志」6巻、小南一郎訳、筑摩書房 (ちくま学芸文庫) 、1993年5月、32・280頁 ISBN 4-480-08046-5
- 陳寿著、裴松之注「正史 三国志」7巻、小南一郎訳、筑摩書房 (ちくま学芸文庫) 、1993年6月 ISBN 4-480-08088-0
- 渡辺精一著、「三国志・人物鑑定事典」、学研、1998年5月、53 - 55頁、ISBN 4-05-400868-2