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'''崇仁親王妃百合子'''(たかひとしんのうひ ゆりこ、[[1923年]]〈[[大正]]12年〉[[6月4日]] - )は、[[日本]]の[[皇族]]。元[[華族]]。[[三笠宮家]]第2代当主。[[三笠宮崇仁親王]]の妃。[[身位]]は[[親王妃]]。[[敬称]]は[[殿下]]<ref>[[皇室典範]]第二十三条第二項「前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする。」</ref>。[[勲等]]は[[宝冠章|勲一等宝冠章]]。[[お印]]は'''[[キリ|桐]]'''(きり)。旧名は'''高木 百合子'''(たかぎ ゆりこ)。 |
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2020年7月15日 (水) 09:45時点における版
崇仁親王妃 百合子 | |
---|---|
三笠宮家 | |
2012年(平成24年) 新年一般参賀にて | |
続柄 | 高木正得第2女子 |
全名 | 百合子(ゆりこ) |
身位 | 親王妃 |
敬称 | 殿下 |
お印 | 桐 |
出生 |
1923年6月4日(101歳) 日本・東京府東京市赤坂区(現:東京都港区南青山) 高木子爵邸 |
配偶者 | 三笠宮崇仁親王 |
子女 |
甯子内親王 寬仁親王 桂宮宜仁親王 容子内親王 高円宮憲仁親王 |
父親 | 高木正得 |
母親 | 高木邦子 |
栄典 |
勲一等宝冠章 |
役職 |
皇室会議予備議員 日本赤十字社名誉副総裁 母子愛育会総裁 民族衣裳文化普及協会名誉総裁 中宮寺奉賛会名誉総裁 他多数 |
称号:親王妃 | |
---|---|
敬称 |
殿下(妃殿下) Her Imperial Highness the Princess |
皇室 |
---|
|
崇仁親王妃百合子(たかひとしんのうひ ゆりこ、1923年〈大正12年〉6月4日 - )は、日本の皇族。元華族。三笠宮家第2代当主。三笠宮崇仁親王の妃。身位は親王妃。敬称は殿下[1]。勲等は勲一等宝冠章。お印は桐(きり)。旧名は高木 百合子(たかぎ ゆりこ)。
子爵・高木正得第2女子。子女に甯子内親王、寬仁親王、桂宮宜仁親王、容子内親王、高円宮憲仁親王がいる。皇室会議予備議員。2020年(令和2年)現在、存命の皇族の中では最年長者であり、明仁(現・上皇)のおじ・おばとしては皇族外も含め唯一の存命者である。
略歴
1923年(大正12年)6月4日、東京府東京市赤坂区の高木子爵邸に誕生[2]。華族・高木正得子爵の二女[2]。母の邦子は入江為守子爵令嬢。1928年(昭和3年)、女子学習院幼稚園に入園。1941年(昭和16年)、女子学習院本科(現:学習院初等科・学習院女子中等科・高等科)を卒業[2][3]。同年10月3日、納采の儀を経て婚約。同年10月22日、結婚の儀を行う。2年6か月後の1944年(昭和19年)4月26日に第一女子・甯子内親王が生まれる。その後、寬仁親王、桂宮宜仁親王、容子内親王、高円宮憲仁親王が誕生。
皇室では、1963年(昭和38年)から[4]1967年(昭和42年)まで皇室会議の予備議員を務め、1991年(平成3年)より皇室会議の議員を務めたが[5]、2007年(平成19年)9月より再び予備議員となった[6]。
政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では「皇太子」を除いて、皇族に宮号が冠されることはないため、官報での表記は「崇仁親王妃百合子」とされ、「三笠宮」が冠されることはない。
宮内庁の発表(2007年(平成19年)7月10日)によると大腸癌が見つかり、同日、聖路加国際病院で摘出手術を受けた。
2016年(平成28年)、夫である三笠宮崇仁親王の薨去に伴い、三笠宮家の当主になる。
年譜
- 1923年(大正12年)6月4日、東京府東京市赤坂区高樹町(現:東京都港区南青山)の高木子爵邸にて華族令嬢として誕生。
- 1928年(昭和3年)、女子学習院幼稚園に入園。
- 1931年(昭和6年)、女子学習院本科に入学。
- 1941年(昭和16年)10月22日、皇室会議を経て婚約し三笠宮崇仁親王と成婚。
- 同日付で宝冠大綬章(勲一等宝冠章)を受章。
- 1944年(昭和19年)、甯子内親王を出産。
- 1946年(昭和21年)、寬仁親王を出産。
- 1948年(昭和23年)、宜仁親王(桂宮)を出産。
- 1951年(昭和26年)、容子内親王を出産。
- 1954年(昭和29年)、憲仁親王(高円宮)を出産。
生家・高木子爵家
高木家は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武家で、江戸時代は河内国丹南藩1万石の大名であった。母・邦子は入江為守子爵の娘で、弟に侍従長・エッセイストとして有名な入江相政がいる(百合子の叔父にあたる)。入江家は藤原北家の支流・冷泉家の流れを汲み、中世の大歌人藤原俊成や藤原定家を祖先とする歌道の家だった。
なお、父の高木正得は昆虫学者であったが華族制度廃止に落魄し(貴重な蔵書や標本を戦災で失っていた心痛もあったとされる)、1948年(昭和23年)7月8日、遺書を残して失踪、11月1日に東京都と山梨県の県境にある西多摩郡氷川町(現・奥多摩町)の七ツ石山の中で首つり自殺の白骨死体となって発見された。遺書にはインフレ等による生活苦がつづられており、生活力の無い華族が淘汰されることを国民に印象付けた。
百合子 | 父: 高木正得 |
祖父: 高木正善 |
曾祖父: 高木守庸 |
曾祖母: 鈴木加津 | |||
祖母: 高木銑子 |
曾祖父: 松平輝聴 | ||
曾祖母: 堀田万子 | |||
母: 高木邦子 |
祖父: 入江為守 |
曾祖父: 冷泉為理 | |
曾祖母: 柳原良子 | |||
祖母: 入江信子 |
曾祖父: 柳原前光 | ||
曾祖母: 伊達初子 |
- 曾祖父:松平輝聴(上野国高崎藩第9代藩主)
- 曾祖母:万子(下総国佐倉藩第5代藩主・堀田正睦の長女)
- 曾祖父:冷泉為理(羽林家・冷泉家第20代当主)
- 曾祖母:良子(名家・柳原家第20代当主・柳原隆光の長女)
- 曾祖父:柳原前光(第123代大正天皇の皇伯父、貴族院議員、伯爵)
- 曾祖母:初子(伊予国宇和島藩第8代藩主・伊達宗城伯爵令嬢)
- 祖父:高木正善(河内国丹南藩第13代藩主)
- 祖父:入江為守(子爵、東宮侍従長、侍従次長、皇太后宮大夫)
- 祖母:信子(柳原前光伯爵令嬢、入江子爵夫人)
- 父:正得(子爵、貴族院議員、貴族院請願委員長)
- 母:邦子(堂上華族の入江家出身[注釈 1]。入江為守子爵令嬢、高木子爵夫人)
- 姉:衣子(陸軍中将・木越安綱男爵令息・正順を継嗣にする。次代当主[7])
- 妹:桃子(旧但馬国豊岡藩15代藩主・京極高晴子爵夫人)
- 妹:小夜子(西友会長、ファミリーマート会長・高丘季昭子爵夫人)
- 伯父:入江為常(大正天皇の生母・柳原愛子の姪、柳原白蓮伯爵令嬢の異母姉)
- 伯母:坊城朔子(皇太后宮大夫、伊勢神宮大宮司・坊城俊良伯爵夫人)
子女
夫の三笠宮崇仁親王との間に、3男2女を出産し5人の子女をもうける。
諱・身位 | 読み | 生年月日 | 没年月日 | 続柄 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
甯子内親王 | やすこ | 1944年〈昭和19年〉 4月26日(80歳) |
第一女子 (第1子) |
近衞忠煇(日本赤十字社名誉社長)と結婚。 皇籍離脱後、近衞甯子(姓読み:このえ)となる。 (皇室典範第12条[8]の規定による) 子女:1男(1人)。 | ||
寛仁親王 | ともひと | 1946年〈昭和21年〉 1月5日 |
2012年〈平成24年〉 6月6日(満66歳没) |
第一男子 (第2子) |
寛仁親王 麻生信子と結婚(→寛仁親王妃信子)。 子女:2女(2人)。 | |
宜仁親王 | よしひと | 1948年〈昭和23年〉 2月11日 |
2014年〈平成26年〉 6月8日(満66歳没) |
第二男子 (第3子) |
桂宮宜仁親王(宮号読み:かつらのみや) 配偶者及び子女:無し。 | |
容子内親王 | まさこ | 1951年〈昭和26年〉 10月23日(73歳) |
第二女子 (第4子) |
千宗室と結婚 皇籍離脱後、千容子(姓読み:せん)となる。 (皇室典範第12条[8]の規定による) 子女:2男1女(3人)。 | ||
憲仁親王 | のりひと | 1954年〈昭和29年〉 12月29日 |
2002年〈平成14年〉 11月21日(満47歳没) |
第三男子 (第5子) |
高円宮(たかまどのみや) 高円宮憲仁親王 鳥取久子と結婚(→憲仁親王妃久子)。 子女:3女(3人)。 |
系図
栄典
日本
外国
- イラン帝国:プレアデス勲章[10]
- イラン帝国:イラン建国二千五百年祭典記念メダル(1971年)[11]
名誉役職
- 日本赤十字社名誉副総裁
- 母子愛育会総裁
- 民族衣裳文化普及協会名誉総裁
- 中宮寺奉賛会名誉総裁
注釈
脚注
- ^ 皇室典範第二十三条第二項「前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする。」
- ^ a b c 『人事興信録 第14版 下』タ99頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年9月10日閲覧。
- ^ 三笠宮家、崇仁親王妃百合子殿下、宮内庁公式サイト。
- ^ 1963年(昭和38年)9月19日宮内庁告示第6号「皇族たる皇室会議の議員及びその予備議員の互選において当選した件」
- ^ 1991年(平成3年)9月10日宮内庁告示第7号「皇族たる皇室会議の議員及び予備議員の互選において当選した件」
- ^ 2007年(平成19年)9月12日宮内庁告示第9号「皇族たる皇室会議の議員及びその予備議員の互選において当選した件」
- ^ “高木衣子さん死去 三笠宮妃百合子さまの姉”. Web東奥 - 東奥日報. (2019年7月8日) 2020年7月3日閲覧。
- ^ a b 皇室典範(昭和二十二年法律第三号)「第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」
- ^ 『官報』第4438号、「叙任及辞令」、昭和16年10月23日。p.719
- ^ Persepolis
- ^ Badraie Archived 2016-03-05 at the Wayback Machine.
参考文献
- 人事興信所 編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
外部リンク
- 三笠宮家 - 宮内庁