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* 『鷹の爪』([[日本クラウン|クラウンレコード]]) - [[香川伸行]]・[[吉田博之]]・[[畠山準]]・[[湯上谷竑志|湯上谷宏]]と合唱。 |
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=== 出演番組 === |
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2020年7月14日 (火) 20:11時点における版
九州三菱自動車 投手コーチ #80 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 鳥取県倉吉市 |
生年月日 | 1965年7月19日(59歳) |
身長 体重 |
181 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1983年 ドラフト1位 |
初出場 | 1984年4月30日 |
最終出場 | 2004年9月24日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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加藤 伸一(かとう しんいち、1965年7月19日 - )は、鳥取県倉吉市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者、野球解説者。
経歴
プロ入り前
倉吉北高校1年次から速球派投手として期待される。練習試合ではあるが、鳥取西高校戦でノーヒットノーランも記録している。最上級生に進級した際は、チームの不祥事で対外試合禁止処分となってしまった。結局、加藤の公式戦登板は2年夏の1試合(3-8鳥取城北高校)のみだったが、この試合での登板がスカウトたちの目にとまった。1983年度ドラフト会議にて南海ホークスから1位指名を受けて入団。鳥取県の高校生として史上初のドラフト1位指名でもあった。
プロ入り後
南海・ダイエー時代
シュートを武器として入団1年目から活躍し、同年代である藤本修二、畠山準と共に『トリオ・ザ・10代』と呼ばれた。1年目の1984年は中継ぎや抑えでの登板が多かったが5勝4敗4セーブ、防御率2.76の成績を残した。
1985年からは先発として投げ9勝11敗1セーブ、防御率4.09の成績を残した。
1986年は精彩を欠き、3勝10敗2セーブで防御率も4.68で終わった。
1987年は防御率3点台と良化したが、14試合で4勝5敗の成績で終わった。
南海最終年となった1988年は防御率4.54と再び安定感を欠いたが、8勝10敗3セーブの成績を残した。
1989年に球団名が福岡ダイエーホークスへ変更。その際に(1989年3月)、博多駅の井筒屋の壁面に成長株の同僚である佐々木誠(同い年同期入団)と「福岡の、新しい顔です」というコピーとともに、新球団の真新しいユニフォームに身をつつんだ全身写真の垂幕が飾られた。移転1年目のこの年は、自身初のシーズン二桁勝利となる12勝を挙げる。
しかし1990年に右肩故障によりプロ入り後初めて一軍登板なしに終わった。
1991年は2年ぶりに1軍登板するも14試合で2勝7敗、防御率6.03と不本意な成績に終わった。
1992年に右肩の手術。92年、1993年の2年間は右肩のリハビリのため一軍登板なしに終わった。
1994年は3年ぶりに1軍登板を果たしたが、17試合で3勝5敗、防御率4.82と結果を残せなかった。
1995年は故障で出遅れてしまい二軍登板が可能になった頃には一軍はBクラスに低迷してしまい若手中心の起用に切り替わっていたため一軍登板できず、オフに戦力外通告を受けた。
広島時代
1996年、広島東洋カープにテスト入団を果たし、開幕から先発ローテーションに入ると6年ぶりに規定投球回に達して9勝を挙げカムバック賞を獲得するなど再び活躍を見せる。
1997年は不調で1勝5敗で終わり、防御率も7点台だった。
1998年は8勝6敗を記録し規定投球回数をクリアしての防御率は自己最高の2.99と安定感を見せるなど年間通じてローテーションを守ったが、チームの若返り策の為、2度目の自由契約となる。
オリックス時代
1999年にオリックス・ブルーウェーブへ移籍。戦力外に近い自由契約の身ではあったが、前年より大幅に好条件(推定年俸2,200万円→6,000万円)の契約となった。この年は故障で出遅れて一軍初登板が6月だったこともあり6勝にとどまったが、自己最多の3完封(リーグトップタイ)と無四球完投3回(リーグトップ)を記録した。
2000年は3勝6敗に終わる。
2001年に先発の一角として12年ぶりに二桁勝利となる11勝を挙げる。5月で早くも6勝と、1989年の記録を上回ることが期待されていたが、上回らなかった。なおこの年は小倉恒も2桁勝利を挙げたが、チームでは2002年から2004年は最下位に低迷し、2004年オフに大阪近鉄バファローズと合併。その3年間に2桁勝利を挙げた投手がいなかったことから小倉と共にブルーウェーブ時代最後の2桁勝利投手となった。オフにFAで、大阪近鉄バファローズへ移籍。ダイエーを自由契約になり広島へ移籍した以降も福岡に居を構えていることを好材料にオリックスからFA宣言時には当時のダイエーも声をかけ、交渉を行ったが不首尾に終わった。
人的補償として近鉄のユウキがオリックスへ移籍。
近鉄時代
移籍1年目の2002年4月1日の西武ライオンズ戦に移籍後初先発したがKOされるなど、故障にも苦しみ、わずか2試合にしか登板できず未勝利に終わる。
2003年は6勝6敗の成績を残した。
2004年は2勝しか挙げられず、戦力外通告を受けた。その後自身が所属する近鉄は古巣のオリックスと合併し、オリックスと新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスにそれぞれ近鉄とオリックスの選手を振り分ける分配ドラフトが行われたが、自身は戦力外のため分配ドラフトの対象に入らなかった。そして自身を獲得しようとする球団も現れなかったことから現役を引退し、数回のAクラスはあっても一度も優勝はできなかった。
なお、加藤は近鉄球団唯一のFA獲得選手だった。
引退後
2005年より福岡を拠点に野球解説者としての活動を行い、ホークスのOBとして野球教室に参加することもあり、RKB毎日放送・日刊スポーツで解説者を務める傍ら、プロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズに参加。また同年、郷土鳥取で社会人野球チーム・鳥取キタロウズの創設に関わり、監督を務めた。
2011年、ソフトバンク二軍投手コーチに就任。二保旭・千賀滉大・岩嵜翔・飯田優也・嘉弥真新也を一軍に送り出し[1]、2014年は一軍投手コーチとなり秋季キャンプまで務めた[2]。同年12月26日に編成・育成部育成担当に就任することが発表された[3]。2016年限りで退任。
2017年からRKB毎日放送(主にRKBラジオ本数契約)・FOX SPORTS→スポーツライブ+の野球解説者に復帰するかたわら、東京スポーツの野球評論家に復帰する。また山内孝徳に代わって九州三菱自動車の投手コーチに就任。第88回都市対抗野球大会では長く低迷が続いていたチームを5年ぶりに本大会出場へ導いた。[4]
人物
いわゆる昭和40年生まれの選手で構成された「40年会」一員で、同会会員は古田敦也、山本昌、佐々木誠、八木裕、水野雄仁、吉井理人、池山隆寛、香田勲男、紀藤真琴、村上隆行、長嶋一茂ら(『ボク達同級生!プロ野球昭和40年会VS48年会』〈関西テレビ放送〉)。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984 | 南海 ダイエー |
33 | 3 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 4 | -- | .556 | 314 | 75.0 | 62 | 7 | 37 | 4 | 1 | 46 | 0 | 0 | 25 | 23 | 2.76 | 1.32 |
1985 | 34 | 21 | 9 | 1 | 0 | 9 | 11 | 1 | -- | .450 | 818 | 189.1 | 180 | 32 | 87 | 5 | 9 | 79 | 2 | 1 | 100 | 86 | 4.09 | 1.41 | |
1986 | 22 | 15 | 6 | 0 | 0 | 3 | 10 | 2 | -- | .231 | 469 | 107.2 | 105 | 20 | 46 | 4 | 4 | 52 | 3 | 0 | 61 | 56 | 4.68 | 1.40 | |
1987 | 14 | 12 | 2 | 1 | 1 | 4 | 5 | 0 | -- | .444 | 332 | 78.0 | 87 | 0 | 22 | 0 | 2 | 31 | 1 | 0 | 33 | 28 | 3.23 | 1.40 | |
1988 | 27 | 22 | 2 | 0 | 1 | 8 | 10 | 3 | -- | .444 | 607 | 138.2 | 164 | 20 | 42 | 2 | 4 | 53 | 3 | 0 | 77 | 70 | 4.54 | 1.49 | |
1989 | 26 | 25 | 8 | 2 | 0 | 12 | 8 | 1 | -- | .600 | 758 | 176.2 | 193 | 19 | 62 | 6 | 7 | 68 | 3 | 0 | 81 | 72 | 3.67 | 1.44 | |
1991 | 14 | 14 | 1 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | -- | .222 | 348 | 77.2 | 97 | 12 | 24 | 2 | 2 | 24 | 1 | 0 | 54 | 52 | 6.03 | 1.56 | |
1994 | 17 | 16 | 1 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 346 | 80.1 | 88 | 6 | 25 | 1 | 4 | 32 | 1 | 0 | 44 | 43 | 4.82 | 1.41 | |
1996 | 広島 | 25 | 25 | 2 | 1 | 0 | 9 | 7 | 0 | -- | .563 | 644 | 152.1 | 159 | 12 | 35 | 1 | 3 | 55 | 1 | 2 | 71 | 64 | 3.78 | 1.27 |
1997 | 17 | 9 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | -- | .167 | 231 | 49.1 | 72 | 13 | 14 | 1 | 4 | 18 | 3 | 1 | 42 | 41 | 7.48 | 1.74 | |
1998 | 22 | 22 | 3 | 1 | 0 | 8 | 6 | 0 | -- | .571 | 608 | 141.2 | 157 | 15 | 27 | 1 | 5 | 62 | 5 | 2 | 64 | 47 | 2.99 | 1.30 | |
1999 | オリックス | 19 | 17 | 4 | 3 | 3 | 6 | 5 | 1 | -- | .545 | 402 | 98.2 | 99 | 8 | 20 | 0 | 3 | 44 | 1 | 2 | 40 | 38 | 3.47 | 1.21 |
2000 | 24 | 14 | 4 | 0 | 0 | 3 | 6 | 0 | -- | .333 | 402 | 94.0 | 103 | 15 | 23 | 0 | 2 | 42 | 1 | 3 | 57 | 52 | 4.98 | 1.34 | |
2001 | 27 | 26 | 2 | 0 | 0 | 11 | 7 | 0 | -- | .611 | 703 | 168.1 | 175 | 27 | 45 | 1 | 3 | 92 | 1 | 1 | 78 | 69 | 3.69 | 1.31 | |
2002 | 近鉄 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 40 | 7.1 | 14 | 2 | 3 | 0 | 1 | 4 | 1 | 0 | 8 | 8 | 9.82 | 2.32 |
2003 | 16 | 16 | 0 | 0 | 0 | 6 | 6 | 0 | -- | .500 | 355 | 82.0 | 98 | 10 | 21 | 1 | 5 | 23 | 1 | 0 | 46 | 39 | 4.28 | 1.45 | |
2004 | 11 | 10 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 216 | 47.1 | 63 | 13 | 12 | 0 | 3 | 18 | 2 | 0 | 39 | 37 | 7.04 | 1.58 | |
通算:17年 | 350 | 269 | 44 | 9 | 5 | 92 | 106 | 12 | -- | .465 | 7593 | 1764.1 | 1916 | 231 | 545 | 29 | 62 | 743 | 30 | 12 | 920 | 825 | 4.21 | 1.39 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更
表彰
- カムバック賞:1回(1996年)
記録
- 初記録
- 初登板:1984年4月30日、対西武ライオンズ6回戦(大阪スタヂアム)、6回表1死に2番手で救援登板、2回2/3を1失点
- 初奪三振:同上、6回表に秋山幸二から
- 初勝利:1984年5月5日、対ロッテオリオンズ7回戦(大阪スタヂアム)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初先発:1984年5月11日、対阪急ブレーブス7回戦(阪急西宮球場)、7回1/3を3失点で敗戦投手
- 初セーブ:1984年7月31日、対西武ライオンズ19回戦(大阪スタヂアム)、8回表に2番手で救援登板・完了、2回1失点(自責点0)
- 初先発勝利・初完投勝利:1985年4月7日、対阪急ブレーブス2回戦(阪急西宮球場)、9回4失点
- 初完封勝利:1985年6月17日、対近鉄バファローズ14回戦(大阪スタヂアム)
- 節目の記録
- 1000投球回:1996年7月10日、対読売ジャイアンツ17回戦(東京ドーム)、5回裏3死目に川相昌弘を三振にとり達成 ※史上269人目
- 1500投球回:2001年5月5日、対千葉ロッテマリーンズ7回戦(千葉マリンスタジアム)、4回裏3死目にサブローを遊撃ゴロで達成 ※史上147人目
- その他の記録
背番号
- 17 (1984年 - 1995年)
- 12 (1996年 - 1998年)
- 1 (1999年 - 2001年)
- 14 (2002年 - 2004年)
- 72 (2011年 - 2014年)
- 44 (2017年 - )
脚注
- ^ 加藤伸一 コーチ #72 促すのはマウンドでの自立 週刊ベースボール、2014年12月26日
- ^ コーチの退団について 福岡ソフトバンクホークス公式サイト 2014年11月8日配信
- ^ ソフトB 石渡茂氏が副本部長補佐に就任 スポーツニッポン、2014年12月26日
- ^ ドーム出場に力…元ダイエー・加藤伸一さん毎日新聞 2017年7月4日付 2017年7月6日閲覧
関連情報
歌
出演番組
- ザ・プロ野球
- RKBエキサイトホークス
- 中西一清スタミナラジオ(月曜のショートコーナー「スポーツエンタテイメント」8:20頃)
- 瞬感スポーツ
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 加藤伸一 - NPB.jp 日本野球機構