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「女性天皇」の版間の差分

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*{{note|2|2}} - [[1952年]](昭和27年)[[10月10日]]結婚(21歳):[[池田隆政]](たかまさ)夫人。
*{{note|2|2}} - [[1952年]](昭和27年)[[10月10日]]結婚(21歳):[[池田隆政]](たかまさ)夫人。
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*{{note|4|4}} – [[1966年]](昭和41年)[[12月18日]]結婚(22歳):[[近衛忠てる|近衞忠煇]](ただてる)夫人。
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*{{note|6|6}} – [[2014年]](平成26年)[[10月5日]]結婚(26歳):[[千家国麿]](くにまろ)夫人。
*{{note|6|6}} – [[2014年]](平成26年)[[10月5日]]結婚(26歳):[[千家国麿]](くにまろ)夫人。

2020年7月14日 (火) 20:01時点における版

女性天皇(じょせいてんのう)は、日本における女性天皇のこと。古代から女帝漢音じょてい、呉音にょたい)とも呼ばれていた。

とりわけ現代においては、皇位継承問題の議論が盛んとなった2004年(平成16年)以降、日本の公文書報道では「女性天皇」の表現が用いられることが多くなった。

歴史上全く存在しない「女系天皇」(じょけいてんのう)(「母系〈ぼけい〉天皇ともいう」)と混同されがちであるが、全く異なる概念である。

概説

日本では過去、初代の神武天皇から今上天皇(徳仁)に至る歴代126代天皇の中で(基本的にはほぼ男性だが)、8人10代の女性天皇が存在した。そのうちの6人8代は6世紀末から8世紀後半に集中している。

彼女ら全員が男系祖先(父方)に天皇を有する男系女性天皇(または父系女性天皇)である。

ゆえに、女性天皇と非皇族の(=皇室に全く血縁関係のない)男性との間に誕生した人物(=男女の性別は問わず)が天皇となった例(いわゆる「女系天皇」、「母系天皇」ともいう)は、日本の皇室史上で一度もない詳細後述)。

なお、全員独身寡婦未婚)で即位し、譲位(退位)以後も独身を通した[1]

読み 在位年 在位期間 続柄 配偶者 生没年 後継
継承
1 1. 33 推古天皇 すいこ 0592年 - 628年 35年5ヶ月 029代欽明天皇皇女 030代敏達天皇 554年 - 628年 崩御
2 2. 35 皇極天皇 こうぎょく 0642年 - 645年 03年5ヵ月 030代敏達天皇男系曾孫 高向王
第34代舒明天皇
594年 - 661年 譲位
2 3. 37 斉明天皇 さいめい 0655年 - 661年
(重祚)
06年6ヵ月 594年 - 661年 崩御
3 4. 41 持統天皇 じとう 0686年 - 697年 07年6ヵ月 038代天智天皇皇女 040代天武天皇 645年 - 703年 譲位
4 5. 43 元明天皇 げんめい 0707年 - 715年 08年2ヵ月 038代天智天皇皇女 草壁皇子 661年 - 721年 譲位
5 6. 44 元正天皇 げんしょう 0715年 - 724年 08年5ヵ月 040代天武天皇男系孫
第43代元明天皇皇女
(生涯独身) 680年 - 748年 譲位
6 7. 46 孝謙天皇 こうけん 0749年 - 758年 09年1ヶ月 045代聖武天皇皇女 (生涯独身) 718年 - 770年 譲位
6 8. 48 称徳天皇 しょうとく 0764年 - 770年
(重祚)
05年9ヶ月 718年 - 770年 崩御
7 9. 109 明正天皇 めいしょう 1629年 - 1643年 13年11ヶ月 第108代後水尾天皇皇女 (生涯独身) 1624年 - 1696年 譲位
8 10. 117 後桜町天皇 ごさくらまち 1762年 - 1770年 08年4ヶ月 第115代桜町天皇皇女 (生涯独身) 1740年 - 1813年 譲位
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我堅塩媛
 
29欽明天皇
 
石姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
33推古天皇
 
30敏達天皇
 
広姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大俣女王
 
押坂彦人
大兄皇子
 
糠手姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉備姫王
 
茅渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
35皇極天皇
37斉明天皇
 
 
 
34舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我遠智娘
 
38天智天皇
 
蘇我姪娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
40天武天皇
 
 
41持統天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
49代以降
 
 
草壁皇子
 
 
 
 
43元明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
44元正天皇
 
藤原宮子
 
42文武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光明皇后
 
45聖武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
46孝謙天皇
48称徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
108後水尾天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
109明正天皇
 
110後光明天皇
 
111後西天皇
 
112霊元天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
115桜町天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
117後桜町天皇
 
116桃園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
118後桃園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 

奈良時代末期から江戸時代初期までの900年近くにわたって女性天皇は誕生しなかったが、平安時代末期の鳥羽天皇の皇女であった暲子内親王(不婚内親王)が近衛天皇崩御時[2]安徳天皇西走時の皇位空白の際の2度にわたって皇位継承候補として名前が挙がっている。また、即位式の際の礼服御覧の儀の際に女性天皇の礼服が用意されていたこと、鎌倉時代の文学作品である『とりかへばや物語』には不婚内親王の女性東宮(皇太子)、『わが身にたどる姫君』には天皇の后妃だった内親王の女性天皇が登場している[2]ことから、「中世前期において実現こそしなかったものの、女性天皇の可能性は意識されていた」とする考えもある[3]

なお江戸時代中期の1704年(宝永元年)6月、東山天皇が五歳の姫宮(のちの秋子内親王)への譲位の意向を示しているが、幕府の承認が得られず実現しなかった[4]

他にも神功皇后も天皇の歴代に数えることが近代以前は行われた。飯豊皇女は、『古事記』では履中天皇の娘、『日本書紀』では市辺押磐皇子の娘であるため公式には天皇とされていないが、扶桑略記に「第24代飯豊天皇」とあるため、「天皇として扱うべき」との意見もある。二人とも男系祖先(父方)に天皇を有する。

「女性」天皇と「女系」天皇

上記のように女性天皇とは、個々の天皇の性別に基いて区別する概念であるが、全く別の概念である女系天皇(母系天皇ともいう)と混同されることも少なくない。

女系天皇とは、その天皇自身の男女の性別にかかわらず、母方のみから皇室の血統を受け継ぐという血筋に着目した概念である。

2つの概念を組み合わせると、男系/父系の男性天皇(歴史上、最も多い)、男系/父系の女性天皇(本項で列挙)、女系/母系の男性天皇(過去に存在せず)女系/母系の女性天皇(過去に存在せず)の4通りがあり得ることになる。

なお、皇室は初代天皇である神武天皇からの男系(父系)の血統であるため、現実には皇室から神武天皇からの女系(母系)の血統を受け継ぐことは有り得ない。また、「女系天皇が誰からの女系であるか」について定義はない

ちなみに、歴史上の女性天皇は全て男性の皇親(皇族)と婚姻しているため、その子孫が皇位に即いても男系天皇とされているが、それは「女性天皇の子孫」による皇位継承がなかったことにはならない、という見解がある。例えば、文武天皇は天武天皇の孫であると同時に持統天皇(天智天皇の皇女)の孫でもあったためにその子孫は天智・天武両天皇の直系子孫として皇位継承において特殊な地位を占めたとする説がある[注釈 1]。また、和銅8年2月25日に元明天皇が自身の娘である吉備内親王と長屋王(天武天皇の孫)との間に生まれた子供は(天武)天皇の曾孫ではなく、(元明)天皇の孫として扱うように命じた(『続日本紀』)ことも傍証として挙げられる[5]。ただし、女性天皇が婚姻をした事例は全て即位前でかつ配偶者は既に死去していたこと、そもそも女性天皇を含めた女性の皇親は平安時代前期まで男性の皇親以外との婚姻が認められていなかった[注釈 2]ために、男系のつながりの無い女性天皇の子孫は存在しえなかったことに注意する必要がある。

歴史的役割

一般的には記紀の記述を尊重し、「過去に存在した8人10代の女性天皇は全員が男系(父系)血統」であり、また「女性天皇が皇族男子以外と結婚して誕生した子(母親である女性天皇が非皇族男性の父親との間にもうけて出産した子)が皇位継承したことは一度としてない」とされている。

歴史学界では、「女性天皇は男系男子天皇と男系男子天皇の間を繋ぐために存在していた」とする「女帝中継ぎ論」が通説であるが、孝謙天皇のように女性皇太子を経て正式に即位した女性天皇も存在する。

ただし、その孝謙天皇についても、彼女を皇太子とした父の聖武天皇遺詔において道祖王を皇太子として指名(後、廃太子)していることから、彼女もまた「適切な候補者が見つかるまでの中継ぎであった」とする説がある[6]

即位の背景

詳細は、各天皇の項目を参照のこと。

第33代推古天皇

欽明天皇の皇女。夫で異母兄の敏達天皇の崩御後、同母兄の用明天皇が大王位に立つが2年で崩御。その次は異母弟の崇峻天皇が即位するも5年後に暗殺。諸皇子の候補擁立勢力に対立が予想されたことから、これを抑えるため周囲に薦められ自身が大王(天皇)となる。甥の厩戸王(聖徳太子)を皇太子としたとされる(実際には大臣蘇我馬子・厩戸王・大王の3人が共同で政に当たったとされる)。

第35代皇極天皇

敏達天皇曾孫。夫で叔父の舒明天皇の崩御後、後継の有力候補に対立があったことから、各勢力の妥協案として、大后(皇后)から大王に即位する。皇太子は立てなかった。645年(皇極天皇4年)、乙巳の変により、蘇我入鹿も含め蘇我氏宗家が滅亡。この政変により、同母弟の軽皇子(第36代孝徳天皇)に譲位した(初の譲位)。孝徳天皇は、皇極天皇の子で乙巳の変の首謀者であった中大兄皇子を皇太子に立てた。

第37代斉明天皇

孝徳天皇の崩御の前年から、皇太子・中大兄皇子との不和が表面化しており、次期大王への即位は大王位の強奪に見える恐れがあったため、皇祖母尊(前大王)の皇極天皇が第37代斉明天皇として62歳で即位した(重祚)。また、これまで通り中大兄皇子が皇太子の地位にあったほうが実権を持ちやすいと判断したという説もある[注釈 3]。即位した斉明天皇は、全権を皇太子・中大兄皇子に委任した[注釈 4]。斉明天皇はそのまま崩御するまで在位し続けた[7]。中大兄皇子は、斉明天皇の崩御後は称制し、数年の後大王となる。

第41代持統天皇

天智天皇の皇女。天武天皇の皇后。皇后時代から政治に参画した。天武天皇には皇子が10人おり、このうち5人は天智天皇の皇女を母に持っていた。皇后の子・草壁皇子が皇太子となっていたが、皇后の姉・大田皇女の子である大津皇子も有力な後継候補と期待されていた。天武天皇の死の約1ヶ月後、大津皇子と30余名が謀反の罪で逮捕され、翌日に大津皇子は処刑された。一味として逮捕された者の殆どは放免されたことからも、草壁皇子の対立候補を抹殺したのは明らかだった。こうした混乱から即位が見送られるうちに3年後、近親婚の結果として病弱であった草壁皇子が薨去してしまった。そのため、その翌年、天皇として即位した。太政大臣に、母の出自は劣るが天武天皇の長子で実績ある高市皇子を据えた。高市皇子は実質の皇太子と目されていたが、7年後に薨去。これを受けた群臣の協議により、草壁皇子の遺児で14歳の軽皇子を皇太子とした。半年後、軽皇子(文武天皇)に譲位し、日本史上初の「太上天皇」となった。

第43代元明天皇

天智天皇の皇女。草壁皇子の妃で文武天皇の母。文武天皇が25歳の若さで崩御し、遺児・首皇子(のちの聖武天皇)はわずか7歳であったため、即位した(第43代元明天皇)。首皇子は、父・文武天皇と同じく14歳で立太子した。翌年元明天皇は譲位したが、次代は皇太子・首皇子ではなく娘の氷高内親王(元正天皇)だった[注釈 5]

第44代元正天皇

草壁皇子と元明天皇の皇女。文武天皇の同母姉。元明天皇の譲位により即位した元正天皇この時すでに36歳であったが、未婚であった。なぜ未婚だったのかと言う仮説の一つが元正天皇の即位が早くから予定されていたからではないかということである。文武天皇が早世する可能性を見越して備えており、もし元正天皇に夫がいた場合この皇配にも即位の可能性が出てきてしまうため、これを避け直系継承を続けるために結婚しなかったというものである[8][注釈 6]。以後の女性天皇たちもこれを踏襲し生涯独身を貫くこととなる[注釈 7]。元正天皇は9年在位した。藤原不比等及び元明太上天皇の死から2年後、45歳の元正天皇は首皇子(聖武天皇)に皇位を譲った。

第46代孝謙天皇

聖武天皇の皇女。聖武天皇と光明皇后藤原不比等の娘)との間には皇子が1人生まれたが夭折した(基王)。皇后に皇子の誕生を待つため、皇女の阿倍内親王(のちの孝謙・称徳天皇)が立太子した。初のそして史上唯一の女性皇太子である。中継ぎ的に阿倍内親王を即位させることを狙ったものだった。しかしその後も皇后に皇子は生まれず、皇后所生ではないが、聖武天皇の唯一成長した皇子の安積親王も17歳の若さで薨去した[注釈 8]。 元正太上天皇崩御の翌年、聖武天皇は自身の出家に伴って皇太子・阿倍内親王に譲位した(男性天皇で譲位したのは初)。こうして第46代孝謙天皇となった。即位した孝謙天皇だが、実権は光明皇太后にあった。聖武太上天皇は崩御に際して、道祖王(天武天皇の孫)を皇太子にする遺言を残したが、しかし翌年には道祖王は廃太子となる。その後に立てられた大炊王に譲位した(第47代淳仁天皇)。

第48代称徳天皇

淳仁天皇への譲位の2年後に光明皇太后が崩御すると、元々関係が良くなかった孝謙太上天皇と淳仁天皇の状況が緊迫化する。この2人はそれまでの太上天皇・天皇間とは違い、孝謙が淳仁を自分で選んだわけではなく、続柄も7親等も離れている遠い親戚にしか過ぎなかった。764年淳仁天皇と縁の深い藤原仲麻呂反乱を起こして敗死した。そして淳仁天皇も皇位を追われ、淡路に配流した。こうして孝謙は史上2人目・現在でも最後の例となる重祚をし第48代称徳天皇となった。

第109代明正天皇

江戸時代の女帝、明正天皇後桜町天皇。明治維新後に想像で描かれたもの。皇室の菩提寺・泉涌寺は、江戸期の天皇14人のうち12人の肖像を所蔵しており、仏事の際に掲げていたが、女帝の肖像だけが存在しない[9]

後水尾天皇の皇女。紫衣事件で幕府に激怒した後水尾天皇が幕府への通告を全くしないまま当時7歳の興子内親王に譲位。治世中は後水尾上皇による院政が敷かれ実権を持つことはなかった。14年後異母弟の紹仁親王(後光明天皇)に譲位。

第117代後桜町天皇

桜町天皇の皇女。桃園天皇の異母姉。桃園天皇が22歳の若さで崩御。皇子の英仁親王(のちの後桃園天皇)が5歳の幼さだったこと、摂関家が宝暦事件の時のように天皇との対立を恐れたことから即位。8年後甥である後桃園天皇に譲位して上皇となった。

子孫

推古天皇には敏達天皇との間に二男五女いるが男子は竹田皇子は若くして薨去、尾張皇子は聖徳太子の妃である橘大郎女を儲けているものの詳細は謎である。

皇極・斉明天皇には舒明天皇との間に天智天皇天武天皇がいる。その天智の皇女・持統天皇には天武天皇との間に草壁皇子が、同じく天智の皇女・元明天皇には草壁皇子との間に元正天皇文武天皇吉備内親王がいる。しかし持統・元明の男系子孫は孝謙天皇らを最後に途絶えてしまっている。

元正孝謙(称徳)明正後桜町の各天皇は生涯独身だったため子はいない。

宮中祭祀

宮中祭祀においては今なお伝統を重んじ、「何人たりとも常に清浄な状態でなくてはならない」とされる。

賢所で祭祀に携わる内掌典は、外出時には下界の「穢れ」を宮中に持ち込まないよう専用の衣服に着替える[10]。死も「穢れ」とされるので、内掌典は拝命時、身内が危篤に陥った際にはまだ命のあるうちに宮中を離れるようあらかじめ厳命される[10]。身内の訃報を宮中で聞いた内掌典は「穢れ」となるので、着ていた着物などは全て処分しなければならないという[10]。そして、女性特有の出産月経も、神道においては「穢れ」である。月経は「まけ」と呼ばれ、最も穢れた状態とみなされる[10]

さて、天皇は「祭祀王」であり、歴史的に見るとその最も重要な務めは神事であったとされる。しかし、女性であるがゆえの「穢れ」が定期的に生じるのを避けられないがために、江戸時代の女帝たちは、天皇の本質的部分である祭祀を、不安定、不十分な形でしかおこなえなかった[11]

女帝に「御障り」がある際には、代行できるものは摂政や神祇伯が代行した[12]。しかし、天皇自身がおこなわねばならない祭祀は中止された。明正天皇は、在位中に四方拝小朝拝をおこなわなかった[12]。後桜町天皇は、四方拝にも新嘗祭にも出御しなかった[11]。後桜町天皇の大嘗祭は、当日が「御障り」になった際には後日おこなうという二段構えの計画が立てられた[11]

こうした事情を踏まえると、仮に(皇室典範を改正して)女性天皇が今後実現した場合、日本国憲法に規定される象徴としての世俗的な公務については何ら問題なく果たせるであろうが、伝統的な宮中祭祀に関しては問題が生じることが予想される。代理による執り行いが不可能な祭祀は延期・中止にせざるをえず、代理による執り行いが可能な祭祀とて完全に委任することはできない。実例として、昭和天皇大正時代後期(当時:皇太子裕仁親王、1921年 - 1926年)に摂政として代拝をおこなったが、「天皇同様の祭祀行為はできず、新嘗祭では供物奉納までしかできなかった」という[13]

女性天皇を巡る動き

先述のように「女性天皇では宮中祭祀に差し障りがあること」が指摘されているが、そもそも日本国憲法は天皇の伝統的な宗教的性格を考慮していない[14]。法的には、象徴天皇としての本質的仕事は国事行為だけであって、たとえ歴史的に天皇の本質的部分とされてきた祭祀を満足にこなせないとしても国家としては構わない[14]

現行の皇室典範第1条には、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と定められている。皇族男子は秋篠宮文仁親王以来、40年間誕生せず、今上天皇の第一子も女子である敬宮愛子内親王であったことから、「女性天皇や女系天皇を容認するように皇室典範を改正しよう」とする動きが見られていた(「皇位継承問題」を参照)。平成18年(2006年9月6日に41年ぶりの男性皇族である悠仁親王が誕生したが、若年層の男性皇族が不足している問題は解決されていない。

2019年10月に共同通信社によって行われた世論調査では、回答者の「81.9%」が「女性天皇に賛成」と回答している[15]

現在の女性皇族(内親王・女王)

2024年11月27日現在
日本の皇室における内親王女王[16][17]
読み 御称号 生年月日 現年齢 続柄[18] 世数[19] 摂政就任順位
1 愛子内親王 あいこ 敬宮としのみや 2001年(平成13年)12月1日 22歳 皇女
今上天皇第一皇女子
一世 6
2 佳子内親王 かこ 1994年(平成6年)12月29日 29歳 皇姪
上皇の皇孫
文仁親王第二女子
二世 7
3 彬子女王 あきこ 1981年(昭和56年)12月20日 42歳 皇再従妹
大正天皇皇曾孫
寬仁親王第一女子
三世 8
4 瑶子女王 ようこ 1983年(昭和58年)10月25日 41歳 皇再従妹
大正天皇の皇曾孫
寛仁親王第二女子
三世 9
5 承子女王 つぐこ 1986年(昭和61年)3月8日 38歳 皇再従妹
大正天皇の皇曾孫
憲仁親王第一女子
三世 10

※順序は、摂政の就任順。(成年に達した場合の順序。皇位継承の順序に準ずる。)

また、現在皇族男子で最年少は悠仁親王の18歳である。

元皇族の女性

2020年(令和2年)4月1日現在
日本における元皇族の女性(皇室典範第12条[20]による臣籍降嫁をした内親王及び女王)[21][22][23]
姓名 読み 御称号 皇族としての
名・身位
生年月日 現年齢 天皇から見た続柄 / 皇統
1 黒田清子1 くろだ さやこ 紀宮(のりのみや) 清子内親王 1969年(昭和44年)4月18日 55歳 皇妹 / 第125代天皇上皇第一皇女子
2 池田厚子2 いけだ あつこ 順宮(よりのみや) 厚子内親王 1931年(昭和6年)3月7日 93歳 皇伯母 / 昭和天皇第四皇女子
3 島津貴子3 しまづ たかこ 清宮(すがのみや) 貴子内親王 1939年(昭和14年)3月2日 85歳 皇叔母 / 昭和天皇第五皇女子
4 近衞甯子4 このえ やすこ 甯子内親王 1944年(昭和19年)4月26日 80歳 大正天皇の皇孫/ 三笠宮崇仁親王第一女子
5 千容子5 せん まさこ 容子内親王 1951年(昭和26年)10月23日 73歳 大正天皇の皇孫/ 三笠宮崇仁親王第二女子
6 千家典子6 せんげ のりこ 典子女王 1988年(昭和63年)7月22日 36歳 皇再従妹 / 大正天皇の皇曾孫/
高円宮憲仁親王第二女子
7 守谷絢子7 もりや あやこ 絢子女王 1990年(平成2年)9月15日 34歳 皇再従妹 / 大正天皇の皇曾孫/
高円宮憲仁親王第三女子

脚注

注釈

  1. ^ 通常の男系の概念のみで系図を作成すると、「天武天皇-草壁皇子(持統天皇即位前に死去)-文武天皇-聖武天皇」となるが、女性天皇の子孫による皇位継承を考慮すると、「天智天皇-持統天皇-(草壁皇子)-文武天皇-聖武天皇」という系図も成り立つことになる。
  2. ^ 天皇の孫にあたる女王と臣下の婚姻が許されたのは延暦12年9月1日の桓武天皇の詔による(『日本紀略』)。天皇の皇女と臣下の婚姻の禁止はその後もしばらく続き、一旦臣籍降下した皇女と臣下との婚姻は藤原良房が初例、内親王宣下を受けた皇女と臣下との婚姻は藤原師輔が初例であった。
  3. ^ この他、同母妹・間人皇女との不倫倫理上問題とされたためとする説(直木孝次郎)、孝徳の皇子の有間皇子も有力候補だったためとする説(吉村武彦森公章)、斉明自身が重祚したいとの強い意志を持っていたのだとする説(熊谷公男遠山美都男)もある。
  4. ^ 藤氏家伝』に「悉く庶務を以って皇太子に委ねる。皇太子、言毎に諮りて決し、然るして後に施行す」とある。
  5. ^ 元明天皇は首皇子に譲位しなかった理由は「この神器を以って皇太子に譲らんと欲すれども、年歯幼稚にして未だ深宮を離れず。庶務多端にして一日に万機あり」と述べている。また、自分の息子・文武天皇が早くに即位して25歳で亡くなってしまったことから、首皇子は即位を急がないで育成したいという想いがあったのだとも推測される。
  6. ^ ただ、元正・文武の下にはもうひとり同母妹の吉備内親王がいた。彼女は姉と違い長屋王と結婚している。これは結婚時にまだ祖母の持統太上天皇が存命であり、懇意にしてた高市皇子の遺児・長屋王には即位の可能性を与えたが、他の皇子・皇孫に与えるのは嫌ったのだと見られる。
  7. ^ 他の論として首皇子(聖武)は元正天皇の養子だったというものがある。二人は本来伯母甥の間柄であるが、『続日本紀』の宣命など複数の資料で母子と記すものが見られるのである(東野治之 『元正天皇と赤漆文欟木厨子』『橿原考古学研究所論集 第13』)。また、首皇子(聖武)の立太子は元正天皇の時のことであるというものもある。これは、『続日本紀』のおける聖武天皇の即位前紀(巻第十)に和銅7年6月に立太子をしたと記されているのに対し、『続日本紀』本文の和銅7年6月の記事(巻第六)には「皇太子が元服した」としか書かれておらず、これを元服と立太子が同時に行われたのではなく立太子の記事自体が欠落して正確な立太子の日付が不明になったと解する立場に拠る。加えて首皇子の皇太子としての活動も東宮職の活動も元正天皇の即位後に始まっており、これも首皇子の立太子が元正天皇の即位後に行われたことを意味するとしている(本間満「首皇子の元服立太子について」『昭和薬科大学紀要』35号/本間『日本古代皇太子制度の研究』雄山閣、2014年)。
  8. ^ 安積親王は藤原氏の血を引かないが、藤原氏出身の后妃を娶らせることによって婚姻関係は成立できるため、即位が計画されていたという説がある。

出典

  1. ^ 所(2006年), p. 51.
  2. ^ a b 荒木(2016年), p. 13.
  3. ^ 山田(2010年), p. 281-282.
  4. ^ 藤田(2018年), p. 125.
  5. ^ 中野渡俊治「奈良時代の天智天皇観」『古代太上天皇の研究』、思文閣出版、2017年、18-19頁。
  6. ^ 佐藤長門「史実としての古代女帝」(初出:『東アジアの古代文化』121号、2004年/所収:佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6
  7. ^ 『女帝と譲位の古代史』水谷千秋 文藝春秋 平成15年 p102-p112
  8. ^ 松尾光による 『元正女帝の即位をめぐって』『高岡市万葉歴史館紀要 第6号』
  9. ^ 藤田(2018年), p. 180.
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  14. ^ a b 横坂(2007年), p. 28.
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  16. ^ 2021年(令和3年)10月26日眞子内親王皇籍離脱以降から現在の内親王女王一覧
  17. ^ 皇室の構成図 - 宮内庁”. 宮内庁. 2021年12月24日閲覧。
  18. ^ 天皇及び親王からの続柄
  19. ^ 直系尊属天皇から数えた数
  20. ^ 皇室典範(昭和二十二年法律第三号)「第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」
  21. ^ 2018年(平成30年)10月29日の絢子女王(守谷絢子皇籍離脱以降から現在の元内親王・元女王一覧
  22. ^ 皇室の構成図 - 宮内庁
  23. ^ ご結婚により,皇族の身分を離れられた内親王及び女王 – 宮内庁

参考文献

関連項目

外部リンク