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建安24年([[219年]])、[[呂蒙]]の攻撃で麦城に追い詰められた劉備軍の[[関羽]]は、孫権に使者を送り降伏を申し入れた。孫権が本当かどうか聞くと、呉範は「麦城には逃げ走ろうという気が現れています。本心からの降伏ではないでしょう」と言った。このため孫権は[[潘璋]]に命じて、予想される逃走路に網を張らせた。斥候が麦城に関羽の姿が既にないことを報告すると、呉範は「明日の正午には捕えられましょう」と予言した。翌日の正午、関羽捕縛の報告が孫権に届いたという。
建安24年([[219年]])、[[呂蒙]]の攻撃で麦城に追い詰められた劉備軍の[[関羽]]は、孫権に使者を送り降伏を申し入れた。孫権が本当かどうか聞くと、呉範は「麦城には逃げ走ろうという気が現れています。本心からの降伏ではないでしょう」と言った。このため孫権は[[潘璋]]に命じて、予想される逃走路に網を張らせた。斥候が麦城に関羽の姿が既にないことを報告すると、呉範は「明日の正午には捕えられましょう」と予言した。翌日の正午、関羽捕縛の報告が孫権に届いたという。


[[黄初]]2年([[221年]])、孫権が[[魏 (三国)|魏]]と友好関係を結ぶと、呉範は「魏は企みを抱いているので、それに対する備えを怠らないようにすべきです」と予言し、[[夷陵の戦い|劉備の侵攻]]後に「(呉[[蜀漢|蜀]])両国はやがて和親するでしょう」と予言した。その後、[[合肥の戦い#222年から223年にかけての三方面での戦い|魏は3方向から呉を攻め]]て来た。また劉備死後、蜀の[[諸葛亮]]は呉との和平を望み[[トウ芝|鄧芝]]を使者として送ってきた。結果的に彼の予言は2つとも的中した。また孫権がまだ将軍だった頃、呉範は孫権に対し「[[江南]]には王者の気があるため、[[220年]]から221年あたりに大きな喜びがあるでしょう」と予言していた。この年、予言通り孫権は魏から呉王に封じられた。
[[黄初]]2年([[221年]])、孫権が[[魏 (三国)|魏]]と友好関係を結ぶと、呉範は「魏は企みを抱いているので、それに対する備えを怠らないようにすべきです」と予言し、[[夷陵の戦い|劉備の侵攻]]後に「(呉[[蜀漢|蜀]])両国はやがて和親するでしょう」と予言した。その後、[[合肥の戦い#222年から223年にかけての三方面での戦い|魏は3方向から呉を攻め]]て来た。また劉備死後、蜀の[[諸葛亮]]は呉との和平を望み[[鄧芝]]を使者として送ってきた。結果的に彼の予言は2つとも的中した。また孫権がまだ将軍だった頃、呉範は孫権に対し「[[江南]]には王者の気があるため、[[220年]]から221年あたりに大きな喜びがあるでしょう」と予言していた。この年、予言通り孫権は魏から呉王に封じられた。


後に呉範は[[騎都尉]]に任じられ、太史令(暦法や祭祀、国家文書の起草などの責任者)を兼任した。
後に呉範は[[騎都尉]]に任じられ、太史令(暦法や祭祀、国家文書の起草などの責任者)を兼任した。

2020年7月12日 (日) 21:41時点における版

呉 範(ご はん、? - 226年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。字は文則揚州会稽郡上虞県の出身。暦数(暦法:毎年の暦を作成するための諸原則)を修め、風気(風占い)をよく知っているということで会稽郡全体で有名になった。「八絶(江南八絶)」[1]の一人。 『三国志』呉志 に伝がある。

生涯

官に推挙されたため洛陽に赴こうとしたが、中原が乱れていたので叶なわなかった。そのため、孫策の後を継いだ孫権の配下となった。孫権の下でも何度か予言をすると、それが見事に的中したので、さらに名を知られるようになった。

建安12年(207年)、黄祖討伐に向かおうとする孫権に対し「今年は利が少ないので来年がいいでしょう。来年には劉表も死去し国が滅びます」といって諌めた。孫権は構わず出兵したが、やはり黄祖を降す事が出来なかった。

翌年(208年)、孫権が再び黄祖討伐に向かうと、呉範もそれに同行した。尋陽近くまで進んだとき、呉範は風気を観察するや「勝利は疑いありません」と祝いの言葉を述べた。孫権は黄祖の本拠地に着くや否や攻撃を仕掛け、黄祖軍を打ち破った。しかし黄祖は闇に紛れて逃走した。取り逃がしたかと悔しがる孫権に対し、呉範は「必ず生け捕りにできます」と占った。すると夜明け前に黄祖が捕えられ、同年劉表も死去したという。

建安17年(212年)、呉範は「2年後、劉備益州を得るでしょう」と予言した。益州の調査から帰還した呂岱は「劉備の配下が散らばってしまい、死者も半数に達しているので、劉備の進行は失敗するでしょう」と孫権に報告した。しかし2年後(214年)、呉範の占い通り劉備は劉璋を降した。

建安24年(219年)、呂蒙の攻撃で麦城に追い詰められた劉備軍の関羽は、孫権に使者を送り降伏を申し入れた。孫権が本当かどうか聞くと、呉範は「麦城には逃げ走ろうという気が現れています。本心からの降伏ではないでしょう」と言った。このため孫権は潘璋に命じて、予想される逃走路に網を張らせた。斥候が麦城に関羽の姿が既にないことを報告すると、呉範は「明日の正午には捕えられましょう」と予言した。翌日の正午、関羽捕縛の報告が孫権に届いたという。

黄初2年(221年)、孫権がと友好関係を結ぶと、呉範は「魏は企みを抱いているので、それに対する備えを怠らないようにすべきです」と予言し、劉備の侵攻後に「(呉)両国はやがて和親するでしょう」と予言した。その後、魏は3方向から呉を攻めて来た。また劉備死後、蜀の諸葛亮は呉との和平を望み鄧芝を使者として送ってきた。結果的に彼の予言は2つとも的中した。また孫権がまだ将軍だった頃、呉範は孫権に対し「江南には王者の気があるため、220年から221年あたりに大きな喜びがあるでしょう」と予言していた。この年、予言通り孫権は魏から呉王に封じられた。

後に呉範は騎都尉に任じられ、太史令(暦法や祭祀、国家文書の起草などの責任者)を兼任した。

黄武5年(226年)、病気のため死去した[2]

逸話

孫権はよく呉範のもとを訪れその予言の秘訣を尋ねたが、呉範が惜しみ隠して応えなかったので、孫権は不満に感じていた。呉範は「私が重んじられているのは、この秘術があるからであり、この秘術がなくなれば、孫権に棄てられるであろう」と考え、誰にも教えなかったという[3]

孫権が呉王になるであろう事を予言した時、孫権はそれが当たったら呉範を侯に封じると約束した。呉王になった後、呉範に約束の事を聞かれた孫権は、呉範に侯の印綬を与えようとした。しかし呉範は、それが形だけのパフォーマンスであると悟ったため、固辞して印綬を受け取らなかった。

後に功績が評定され、本当に呉範が都亭侯に任ぜられる事になったのだが、孫権は以前から呉範が秘術を教えようとしなかった事を思い出し、詔が公布される直前に呉範の名前を削り取ってしまった。

呉範は一本気な性格で自負心が高かったが、親しい者たちとは終始変わりのない交わりを保っていた。あるとき、呉範の友人である魏騰が罪を犯した。孫権の魏騰に対する怒りは尋常では無く、助命を乞うようなものがいれば死罪に処すると宣言した。呉範は魏騰のために頭を坊主にし(罪人の証)、自らを縄で縛って孫権の下に出向すると、頭を床に打ちつけて血を流しながら魏騰の助命を乞うた。このため流石に孫権の気持ちも収まり、魏騰は罪を赦された[4]

呉範は前もって自らの死ぬ日を知ると、孫権に向かっていった。「陛下はこれこれの日に軍師を失われることになりましょう」孫権がいった「俺は軍師などもたぬのに、どうしてそれを失うことなどあろう」呉範がいった。「陛下が軍を動かして敵に臨まれますとき、臣の言葉を待って、しかるのちに行動をおこされてきました。臣はとりなおさず陛下の軍師なのでございます」その日になると、はたして呉範は死去したという[5]

呉範が死んだ時、長男が早くに亡くなっており、次男もまだ幼かったため、呉範の秘術は誰にも伝えられなかった。孫権は呉範の死後、呉範のような秘術を持った人物を探し出すように各地に命令を出したが、結局そういう人物を見つけることができなかったという。

参考文献

脚注

  1. ^ 皇象(書)、厳武(囲碁)、宋寿(夢占い)、曹不興(絵画)、鄭嫗(人相判断)、呉範(暦法・風占い)、劉惇(天文・占数)、趙達(九宮一算術)
  2. ^ 三国志』呉志 呉範伝
  3. ^ 呉録
  4. ^ 魏騰は孫策の時代にも、孫策の怒りを買い死罪にされかけた事があったが、その時は孫策の母である呉夫人の助命により助かっている。
  5. ^ 『呉録』