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戦乱を避けて[[江東]]へ移住し、同じく徐州より疎開してきた[[諸葛瑾]]や[[歩騭]]と親交を結び、彼らと並ぶ名声を得た<ref>『[[呉書]]』</ref>。その後、[[張昭]]の推挙で[[孫権]]に仕え、[[騎都尉]]・従事中郎となった。 |
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[[建安 (漢)|建安]]22年([[217年]])に[[魯粛]]が死去すると、後任として一万の兵を率いて陸口に駐屯するよう命じられた。だが、厳畯は「私は書生に過ぎず、軍事に明るくありません。非才の者を用いれば、必ずや後悔します」と涙ながらに訴えたため、孫権も辞退を聞き入れ、代わりに[[呂蒙]]を起用した。世の人々は、己の力量を弁え謙虚であると厳畯を褒め称えた。この時、孫権は試しに厳畯を馬に乗せてみたところ、すぐに落馬してしまったという<ref>『三国志』呉志 厳畯伝注引『志林』</ref>。 |
2020年7月11日 (土) 12:23時点における版
厳畯 | |
---|---|
呉 尚書令 | |
出生 |
生年不詳 徐州彭城国 |
死去 | 没年不詳 |
拼音 | Yán Jùn |
字 | 曼才 |
主君 | 孫権 |
厳 畯(げん しゅん、生没年不詳)は、中国三国時代の学者・政治家。字は曼才。徐州彭城国の人。子は厳凱・厳爽。従甥(いとこの子)は厳武。『三国志』呉書に伝がある。
略歴
戦乱を避けて江東へ移住し、同じく徐州より疎開してきた諸葛瑾や歩騭と親交を結び、彼らと並ぶ名声を得た[1]。その後、張昭の推挙で孫権に仕え、騎都尉・従事中郎となった。
建安22年(217年)に魯粛が死去すると、後任として一万の兵を率いて陸口に駐屯するよう命じられた。だが、厳畯は「私は書生に過ぎず、軍事に明るくありません。非才の者を用いれば、必ずや後悔します」と涙ながらに訴えたため、孫権も辞退を聞き入れ、代わりに呂蒙を起用した。世の人々は、己の力量を弁え謙虚であると厳畯を褒め称えた。この時、孫権は試しに厳畯を馬に乗せてみたところ、すぐに落馬してしまったという[2]。
黄龍元年(229年)、孫権は皇帝に即位すると厳畯を衛尉に任命し、蜀漢へ使者として派遣した。諸葛亮は厳畯を高く評価したという。
後に罪を犯した友人を弁護したため、孫権の怒りを買って免職されたが、しばらくして復職し尚書令となった。
78歳で没した[3]。没年は不明だが孫登(赤烏2年(241年)没)の遺言に名前が見えるので、死去はそれ以降ということになる。
小説『三国志演義』では、孫権が呉の国主となり集めた人材の一人として名が挙がる。赤壁の戦いの際、降伏派の一人として諸葛亮に論戦を挑むが敗れた。
人物
若い頃より学問に励み、『詩経』・『書経』・三礼(『儀礼』・『周礼』・『礼記』)に通じ、『説文解字』を好んだ。
実直で純朴な人柄であり、他者に対しては真心をもって教え導き、至らぬ点を補い助けるよう心掛けていた。
財を蓄えることをせず、すべて親戚や知人に分け与えたため、家は常に貧しかった。
『孝教伝』・『潮水論』を著し、裴玄や張承と共に、管仲や子路について論じた内容は、広く世間に伝えられた。
陳寿は厳畯を「程秉・闞沢と並んで一代の学者であった。己の栄達を犠牲にして友人を救った」と評している。潁川の周昭は自身の書物の中で、顧邵・諸葛瑾・歩騭・厳畯・張承の人物を比較し、それぞれの人物を称賛している。
参考文献
脚注