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「横浜ドリームランド」の版間の差分

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1970年代から1980年代初頭にかけては、京浜地区で競合する施設が少なかったことなどから苦戦のうちにも年間160万人の入場者を数えたが、[[1983年]]の[[東京ディズニーランド]]開園などを契機として入場者数は下降の道をたどる。時をほぼ同じくして、日本ドリーム観光本体では創業者である松尾國三の死去([[1984年]])をきっかけに、松尾の遺族と経営陣との間で泥沼の経営権争いが発生した。最終的に経営権は遺族の手に移るが、後に日本ドリーム観光は遺族を支援した[[中内]]によって[[1988年]]に[[ダイエー]]に吸収され、横浜ドリームランドはダイエーの子会社であるドリームパークによって運営されることとなった。
1970年代から1980年代初頭にかけては、京浜地区で競合する施設が少なかったことなどから苦戦のうちにも年間160万人の入場者を数えたが、[[1983年]]の[[東京ディズニーランド]]開園などを契機として入場者数は下降の道をたどる。時をほぼ同じくして、日本ドリーム観光本体では創業者である松尾國三の死去([[1984年]])をきっかけに、松尾の遺族と経営陣との間で泥沼の経営権争いが発生した。最終的に経営権は遺族の手に移るが、後に日本ドリーム観光は遺族を支援した[[中内]]によって[[1988年]]に[[ダイエー]]に吸収され、横浜ドリームランドはダイエーの子会社であるドリームパークによって運営されることとなった。


ダイエーは当時、プロ野球球団・[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]の買収など積極的な事業拡大を進めており、横浜ドリームランドにも再興の期待が膨らんだが、間もなく訪れた[[バブル崩壊]]とともに水泡に帰した。その後も[[横浜・八景島シーパラダイス]]や[[よこはまコスモワールド]]などの競合施設の出現に加え、[[少子化]]やレジャーの多様化も要因となって客数は減少を続け、年間入場者数は最盛期の約半分程度まで落ち込んだ。結果、陳腐化が進んだ園内アトラクションの大規模な入れ替えや施設改修に資金が回らず、それがさらなる入場者数減少に結びつくという悪循環に陥っていった。また、長年にわたり開店休業状態であったホテルエンパイアも[[1995年]]に営業終了し、以後閉園に至るまで廃墟として残されることになる。
ダイエーは当時、プロ野球球団・[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]の買収など積極的な事業拡大を進めており、横浜ドリームランドにも再興の期待が膨らんだが、間もなく訪れた[[バブル崩壊]]とともに水泡に帰した。その後も[[横浜・八景島シーパラダイス]]や[[よこはまコスモワールド]]などの競合施設の出現に加え、[[少子化]]やレジャーの多様化も要因となって客数は減少を続け、年間入場者数は最盛期の約半分程度まで落ち込んだ。結果、陳腐化が進んだ園内アトラクションの大規模な入れ替えや施設改修に資金が回らず、それがさらなる入場者数減少に結びつくという悪循環に陥っていった。また、長年にわたり開店休業状態であったホテルエンパイアも[[1995年]]に営業終了し、以後閉園に至るまで廃墟として残されることになる。

2020年7月11日 (土) 10:08時点における版

横浜ドリームランド
Yokohama Dream Land
情報
用途 遊園地ホテルなど
事業主体 日本ドリーム観光
管理運営 日本ドリーム観光
敷地面積 (開園時)約1,320,000 m²
(閉園時)145,776 m²
開館開所 1964年8月1日
所在地 245-0066
神奈川県横浜市戸塚区俣野町700番地
座標 北緯35度23分5秒 東経139度29分42秒 / 北緯35.38472度 東経139.49500度 / 35.38472; 139.49500 (横浜ドリームランド
Yokohama Dream Land
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座標: 北緯35度23分5秒 東経139度29分42秒 / 北緯35.38472度 東経139.49500度 / 35.38472; 139.49500 (横浜ドリームランド
Yokohama Dream Land
)
備考 2002年2月17日閉園。
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横浜ドリームランド(よこはまドリームランド)は、かつて神奈川県横浜市戸塚区俣野町字沖原700番地で営業していた遊園地日本ドリーム観光株式会社により1964年に開園。同社により、翌1965年には併設の高層ホテルホテルエンパイア」、1966年にはアクセス路線としてドリームランドモノレールが開業(翌1967年運行休止)、一大レジャーランドとなった。2002年に経営悪化のため閉園、翌2003年にモノレールも廃止された。

姉妹園的存在として、先行して開園した奈良ドリームランドがあった。日本ドリーム観光がダイエーに吸収合併された後は、ダイエーの子会社であるドリームパークによって運営されていた。

概要

営業内容

  • 営業時間: 10:00-17:00(3-11月)、10:00-16:30(1・2・12月)
  • 入園料: 大人800円、小人400円
  • マスコットキャラクター: ドリちゃん、ランちゃん

キャンペーンガール

1980年代には毎年、若手アイドル歌手キャンペーンガールとして起用したが、アイドル歌手の登竜門といわれた大磯ロングビーチのキャンペーンガールに対し、同じ神奈川県下でも横浜ドリームランドのキャンペーンガールは翌年には名を消すような地味なタレントばかりであった。

歴史

開園

「昭和の興行師」と呼ばれた松尾國三率いる日本ドリーム観光が、毎日新聞社の後援のもとに総工費約200億円を投じて建設。松尾は「観光立国」を標榜し、かねて東京近郊での一大娯楽施設を開設することを目論んでいた。開園当初の横浜ドリームランドは、「日本のディズニーランドを目指す」という松尾の構想に基づき、横浜郊外の小高い丘陵丸々一つを開発した約132万平方メートルの広大な敷地に、遊園地やボウリング場、スケート場、ショッピングモール、映画館を備えた、当時の日本国内でも屈指のレジャー施設であった。開業翌年の1965年には、敷地内に当時の国内で随一の高層建築物であった「ホテルエンパイア」も完成した。

アクセス問題と経営悪化

開業から2年後の1966年5月2日には、それまで路線バスまたはマイカーに限られていたドリームランドへのアクセスの目玉として、国鉄(当時)大船駅とを結ぶドリームランドモノレールが開通。路線バスでは15分であった大船-ドリームランド間の所要時間を、約半分の8分に短縮するという触れ込みであった。

しかし、ドリームランドモノレールは技術上の欠陥により、わずか1年半弱後の1967年9月24日に運行休止に追い込まれる。その代替として神奈川中央交通のバス便を平日70往復、休日300往復させる措置が取られたが、ドリームランドへのアクセスは再びバスかマイカーに限定されることになった。しかも開園当初はのどかな田園地帯であった戸塚周辺は、高度経済成長によって急激にベッドタウン化が進むとともに道路交通量も著しい増加をみせており、特にバス・マイカーともにたどり着くために通過しなければならない国道1号原宿交差点は、神奈川県内でもトップクラスの渋滞箇所に発展していた。このため、バスの場合では空いていれば大船駅から15分ないし20分程度で済む乗車時間も、場合によっては1時間以上要することがあった。また、東京都内や横浜市街からマイカーで来場するケースでも、週末などは原宿交差点を先頭に5km以上、横浜新道内まで続く渋滞がしばしば発生した。いずれの場合においても、来場者はレジャーを楽しむ前に少なからぬ時間ロスと疲労を強いられることになった。 このような交通アクセスの悪さは、開園当初から閉園に至るまで経営を圧迫する致命的な欠点となり、1970年(昭和45年)には早くも収支悪化によって敷地東側の部分売却(全敷地の約4分の1)を余儀なくされる。以後も段階的に敷地売却が行われ、売却された土地には、神奈川県住宅供給公社横浜市住宅供給公社によって「ドリームハイツ」という名の高層団地が建設されている。

一方、日本ドリーム観光本体の経営も、1972年に発生した千日デパート火災の補償問題により急速に悪化していった。

ダイエー傘下入りと衰退

1990年頃の園周辺
左後方にホテルエンパイアを望む

1970年代から1980年代初頭にかけては、京浜地区で競合する施設が少なかったことなどから苦戦のうちにも年間160万人の入場者を数えたが、1983年東京ディズニーランド開園などを契機として入場者数は下降の道をたどる。時をほぼ同じくして、日本ドリーム観光本体では創業者である松尾國三の死去(1984年)をきっかけに、松尾の遺族と経営陣との間で泥沼の経営権争いが発生した。最終的に経営権は遺族の手に移るが、後に日本ドリーム観光は遺族を支援した中内㓛によって1988年ダイエーに吸収され、横浜ドリームランドはダイエーの子会社であるドリームパークによって運営されることとなった。

ダイエーは当時、プロ野球球団・南海ホークスの買収など積極的な事業拡大を進めており、横浜ドリームランドにも再興の期待が膨らんだが、間もなく訪れたバブル崩壊とともに水泡に帰した。その後も横浜・八景島シーパラダイスよこはまコスモワールドなどの競合施設の出現に加え、少子化やレジャーの多様化も要因となって客数は減少を続け、年間入場者数は最盛期の約半分程度まで落ち込んだ。結果、陳腐化が進んだ園内アトラクションの大規模な入れ替えや施設改修に資金が回らず、それがさらなる入場者数減少に結びつくという悪循環に陥っていった。また、長年にわたり開店休業状態であったホテルエンパイアも1995年に営業終了し、以後閉園に至るまで廃墟として残されることになる。

閉園とその後

1990年代末期、ダイエーは本業不振や過度の事業拡大が負担となって赤字に転落し、深刻な経営危機が表面化した。2001年には日本ドリーム観光の買収にも大きく関わった創業者の中内功が辞任へと追い込まれ、債権を持つ銀行側から「2002年の内に約100億の負債を処理しない限り今後の融資は不可能」と通告されたことから、ダイエーは大規模な系列事業の見直しを行うこととなった。これによって細々と営業を続けてきた横浜ドリームランドも整理の対象となり、遊園地として存続したまま経営権の譲渡をするよりも、整地した上で不動産として売却するほうが有利との判断から閉園が決定した。翌2002年2月17日、横浜ドリームランドは37年半の歴史に幕を閉じた。閉園時の敷地面積は、度重なる縮小によって開園当初の132万平方メートルからおよそ10分の1の14万6千平方メートルとなっていた。

横浜薬科大学図書館棟となった旧ホテルエンパイア

横浜ドリームランドの土地は最終的にダイエー系列の十字屋が所有していたが、ダイエーの債権者である銀行の仲介により、閉園に先立つ2001年10月に中古車流通会社・ユー・エス・エスへ約88億円で売却され、同社がオートオークション会場として使用する計画を発表した。しかし原宿交差点の渋滞悪化などを懸念した近隣住民によって強い反対運動が起こったことから、ユー・エス・エスはドリームランド跡地への進出を断念。同地を横浜市に約104億円で買い取らせ、同市鶴見区大黒町コスモ石油横浜製油所跡地を代替地として確保した。

横浜市は取得した土地を南北に分割し、旧ホテルエンパイアの建物やボウリング場を含む敷地の南側を都築第一学園に売却した。2006年、同学園は取得した土地に横浜薬科大学を開校させ、旧ホテルエンパイアおよびボウリング場の建物も改装を経て校舎の一部として転用されている。残る跡地北側は横浜市によって再開発され、2008年に俣野公園と市営墓地メモリアルグリーンが開設された。俣野公園内には俣野公園・横浜薬大スタジアム(収容人員、約3,000人)も落成している。これらの再開発事業に先立って、周辺にあったダイエー系の商業店舗はすべて閉鎖・解体されたことから、横浜ドリームランドの痕跡は相州春日神社や、横浜薬科大学の校舎に転用された一部の建物を残して消滅している。

閉園記念ビデオ

閉園後、横浜ドリームランド監修のメモリアルビデオ『さよなら横浜ドリームランド』(VHS)がISP出版より発売された。ドリちゃん、ランちゃんの2人がアルバムを眺めながら、開園から閉園までの出来事や施設を振り返るというストーリーになっている。主に過去のスチール写真と閉園時の映像から構成され、ヘイヘイおじさんや来場客のインタビューも収録されている。全編約25分。営業最終日の様子も収録されており、閉園前には園内で購入希望者から予約を募り、後日発送するという形がとられた。

施設

閉園後は伊豆ぐらんぱる公園の「のりものと太陽の広場」に、バーアイランド・トップスインガー・おとぎ列車・キッズコースター・グランデッシュの館や、装飾品の一部が譲渡されている[1]

宮廷庭園

ヨーロッパの宮廷庭園をイメージした4200平方メートルの大花壇。正門を入ってすぐのグランドアベニューにあった。庭園の両脇にはヨーロッパの町並みを摸したショッピングモールが造られていた。1980年に撤去された。

冒険の国

Adventureland。開園当初の目玉の一つで、アメリカのディズニーランドのジャングルクルーズを摸した「冒険の国巡航船」などがあった。建設費約30億円をかけて造られたが、経営悪化の影響で1970年に土地が売却され、ドリームハイツの一部となった。 巡航船はその後、スポーツランドのフリーウェイを壊し、移設された。

子供の国

Kiddyland。お伽の城、おとぎ列車、レインボーブリッジ、ピーターパン、空飛ぶじゅうたん、デイジーチェアー、ティーカップ、スワンボート(水上スクーター)、飛行塔があった。

スポーツランド

潜水艦、ボブスレー、ショッキングカー、フリーウェイ、オクトパス、スイジングスウィング(空中ブランコ)、ロープウェイ、後述のワンダーホイールがあった。特に潜水艦は日本で唯一のアトラクションとして人気を博した(奈良ドリームランドにもあったが、途中で池が埋められ消滅していた)。 その他にも子供遊戯場(普通の公園のように滑り台、ブランコ、ジャングルジム等がある)、シェトラントポニー(ロバに乗り、砂漠やピラミッドがありラクダのいる世界を散歩する)があった。

ワンダーホイール

ドリームランドの目玉ともいうべき大観覧車。高さ75メートルで、開園当時は世界一の大きさと言われていた。ゴンドラは1台おきに通常のタイプとフレーム内に設置されたいびつな楕円形のレールに沿って滑車で移動するタイプに分かれており、観覧車の回転に応じて自重でレールに沿って移動しつつ揺れる構造となっていた。このためスリルを味わう人が多く、動くゴンドラに人気が集中した。

シャトルループ

1979年3月1日に登場したジェットコースター。日本におけるループコースターの嚆矢。突然急発進した後、360度宙返りを猛スピードで前向き、後ろ向きで繰り返す往復型コースター。

メリーゴーランド

おやまゆうえんハーヴェストウォークに移設されたメリーゴーランド

1976年に設置されたフランス製の2層式メリーゴーランド。閉園後は、同じくダイエーが経営に関わっていた小山ゆうえんち(現 おやまゆうえんハーヴェストウォーク)に、園内の備品などとともに引き取られた。

ミュージックエキスプレス

円周上の走路を波状に上下しながら高速回転するアトラクション。閉園後は「レインボー」とともにクウェートAbu Halifaの、Kuwait Magic Island Parkに引き取られた[2]

ヘイヘイおじさん

ミュージックエキスプレスの運行を担当していた従業員男性の愛称。地味なアトラクションを盛り上げるために派手な衣装を纏い、即興でフィンガー5の「学園天国」の節で、「ヘーイヘイヘイ…」と声を掛けることで有名になった。奈良ドリームランドで働いていた妹の勧めで開園とともに就職し、定年を迎えた後も嘱託として閉園まで勤務。閉園まで「ミュージックエキスプレス」の操作を7年間担当。その後は併設のボウリング場「ドリームボウル」にボウリング指導員として再就職し、2004年12月12日の閉鎖とともに退職している[3]

レインボープール

開園当初はこの場所に大噴水があったが取り壊され、1967年にプールが建設された。冬期はスケートリンクとして活用され、近隣の小学校などのスケート教室で利用されていた。閉園後はスケート教室の廃止および場所の移動といった措置がとられた。

ゲームコーナー

エレメカピンボールなど、非常に古いアーケードゲームが残っていることで一部のゲームマニアに知られていた。これはゲームコーナーの運営者がドリームランド自体とドリームランドに入っている業者の2者であったためで、それらのレトロゲームは後者により運営されていた。ほとんどのゲームは閉園後に売却され、その一部を遊ぶことができた(2010年現在、台場一丁目商店街において)。

外周列車

開園時に園内の外周を走っていた、狭軌のSL風のミニ列車。敷地の一部売却により、1970年までに廃止された。 先頭車両のうち1台は、横浜市泉区の岡津幼稚園に譲渡された[4][5]

併設施設など

ドリームランドモノレール

ホテルエンパイア

ホテルドリームランド

横浜薬科大学の校舎がある場所に建てられていた低層ホテル。「夢のホテル」として開業し、のちに「ホテルドリームランド」に改称。1990年に廃業。修学旅行・一般宿泊者用。

ドライブインシアター

ホテルドリームランド跡の駐車場に、1994年から2001年までの間、ドライブインシアター「MOVIX横浜ドリームランド」が設けられた。株式会社松竹シネ・ファイジャパンが設置。

ドリームボウル

現在の横浜薬科大学が位置する入園口の外側にあったボウリング場。遊園地の閉園後も存続し、フリーマーケットなどの催しも行われていたが2004年12月12日に閉鎖。その後も建物は解体されずに残され、2019年現在は横浜薬科大学の厚生棟として学生食堂やローソンが入っている。ボウリング場の設備も6レーンが厚生設備として残され、ドリームボウル時代の設備をそのままに学生に利用されている[6]。ボウリング場のほか、屋内テニスコートと屋内体育館もドリームランド時代のものが引き続き使用されている[6]

ドリーム銀座

ドリームハイツ向けのアーケード商店街。個人商店や相鉄ローゼンドリームランド店などがあったが、閉園時には診療所だけが残っていた。閉園後に取り壊されたため、現存しない。

ドリームビル

俣野公園・横浜薬大前バス停のそばにある、ドリーム開発・ドリームパークが入居していたビル。現在は横浜銀行戸塚南支店や、横浜薬科大学のカフェテリア Rose Gardenが入居している。

相州春日神社

横浜ドリームランドの建設に際して発展と繁盛を願い、1964年8月に奈良ドリームランドのある奈良市春日大社分霊を勧請し、敷地内に神社「ドリームランド春日神社」が建立された[7]祭神は、武甕槌神経津主神。その後、神社とドリームランドとは敷地・組織とも切り離され、宗教法人として独立し「相州春日神社」と改名した。境内には「神鹿」として春日大社から賜わった奈良の鹿の子孫が飼育され、参拝客が鹿せんべいを与えられるようになっている。横浜ドリームランドの廃園時には相州春日神社はすでに別組織であったため、跡地の整地・売却後も神社は現存し[8]、鹿たちも健在である[9][10]なお鳥居は、かつては道路を挟んで向かい側のドリームランドの敷地内にあったが、閉園後に現在の位置に移動した。

ドリームハイツ

かつて横浜ドリームランドの敷地の一部であった場所に、1972~1974年に横浜市と神奈川県によって建設された団地。1970年に横浜ドリームランドの土地が一部売却されたことにより誕生した。深谷町(横浜薬科大学側)は横浜市住宅供給公社によって開発された通称「市ドリームハイツ」(1号棟-4号棟) 、俣野町(俣野公園野球場から北側)は神奈川県住宅供給公社によって開発された通称「県ドリームハイツ」(5号棟-23号棟)になっている。団地の開発時には、当時運行休止していたドリームランドモノレールの運行再開が予定されていたが、運行再開されないまま2003年に廃止されている。大船駅戸塚駅湘南台駅等への路線バスが主な公共交通であり、団地内に神奈川中央交通の「ドリームハイツ」バス停留所がある。直線距離で2kmほど離れた位置に、いずれも1999年開業の相鉄いずみ野線ゆめが丘駅横浜市営地下鉄ブルーライン下飯田駅(両駅は隣接している)があり、下飯田駅前を通るバス路線が存在する。やや距離はあるが、Eバス ばんどうクリニック前バス停から下飯田駅・いずみ中央駅へ行くことも可能。

ロケ地

1970-1990年代にはテレビドラマの撮影が数多く行われ、中でもTBSの『キイハンター』『東京警備指令 ザ・ガードマン』には複数回登場した。その他にも映画やテレビコマーシャルのロケ地として使われた。

テレビドラマ

映画

テレビコマーシャル

  • au(2001年)

その他

参考文献

脚注

  1. ^ 伊豆ぐらんぱる公園」『横浜ドリームランドファンクラブ』 2017年8月21日
  2. ^ ヘイヘイおじさん取材レポート」『横浜ドリームランドファンクラブ』 2018年8月7日
  3. ^ 横浜南支局(2013年10月10日). “人物風土記 新井俊次さん”. タウンニュース 戸塚区版 2013年10月10日号(株式会社タウンニュース社)。
  4. ^ 五大路子「ドリームランドにあった外周列車」『五大路子オフィシャルブログ「夢を紡いで」』 2013年8月27日
  5. ^ 船山史家「横浜ドリームランド外周列車を発見」『船山史家の呟きⅡ』 2014年5月7日
  6. ^ a b 大学の図書館になった旧ドリームランドのホテルの中ってどうなってるの?”. はまれぽ.com (2011年9月5日). 2019年10月30日閲覧。
  7. ^ 由緒 相州春日神社 公式ホームページ
  8. ^ 神鹿の杜 春日さま 相州春日神社 公式ホームページ
  9. ^ 神鹿の社 相州春日神社で鹿せんべいをあげてきた! 戸塚新聞、2014年9月8日、2019年11月14日閲覧。
  10. ^ 旧ドリームランド敷地内にある相州春日神社の鹿がすごく礼儀正しいって本当? はまれぽ.com、2015年4月7日、2019年11月14日閲覧。

関連項目

外部リンク

横浜ドリームランド

相州春日神社

ドリームハイツ