「神呪寺」の版間の差分
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2020年7月5日 (日) 05:16時点における版
神呪寺 | |
---|---|
本堂 | |
所在地 | 兵庫県西宮市甲山町25-1 |
位置 | 北緯34度46分23.3秒 東経135度19分47.2秒 / 北緯34.773139度 東経135.329778度座標: 北緯34度46分23.3秒 東経135度19分47.2秒 / 北緯34.773139度 東経135.329778度 |
山号 | 武庫山 |
宗旨 | 古義真言宗 |
宗派 | 真言宗御室派 |
寺格 | 別格本山 |
本尊 | 如意輪観音 |
創建年 |
天長5年(828年) 天長4年(827年) |
開基 |
如意尼 正子内親王 |
別称 |
甲山大師 感應寺(旧称) |
札所等 |
新西国三十三箇所第21番 摂津国八十八箇所第75番 摂津国三十三箇所第3番 仏塔古寺十八尊第17番 |
文化財 |
木造如意輪観音坐像 木造聖観音立像 木造不動明王坐像 木造弘法大師坐像 (重要文化財) |
公式サイト | “甲山大師”神呪寺のホームページ |
法人番号 | 9140005015970 |
神呪寺(かんのうじ、神咒寺)は兵庫県西宮市甲山山麓にある真言宗御室派別格本山の寺院。通称甲山大師(かぶとやまだいし)と呼ばれる。新西国三十三箇所第21番札所。
寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、仏の真の言葉という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ。
歴史
鎌倉時代末期の禅僧、虎関師錬の『元亨釈書』「如意尼伝」に神呪寺の開基について、載っている[1]。 それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせた。
皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺にて、丹後国余佐郡香河(かご)村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩(こはぎ)という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い。
『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために天長5年(828年)にひそかに宮中を抜け、頂法寺=六角堂で修行をしてその後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現西宮神社)から廣田神社、その神奈備山、甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。
天長7年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。
この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。
空海は海人系の氏族の出身だったといわれる。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、元亨釈書18巻にも登場するこの神とは六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。
鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。
戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建。
当初の寺領は淳和天皇より、150町歩の寄進があり、合わせて250町歩となったが、現在は境内地の20町歩となった。
山号は「武庫山」(六甲山のこと)であったが、光玄大和尚が現在の「甲山」に変更した。
神呪寺の住所は上記の通り甲山町であるが、これとは別に寺の南東約3km離れた地、新幹線と阪急今津線の交差点付近に「神呪町」という地名が存在する。この地名はこの寺が中世に一時的に移転したことを示しているとも言われている。
信仰
神呪寺の本尊・如意輪半跏(はんか)像は、河内観心寺、大和室生寺の如意輪観音像と合わせて、日本三如意輪と呼ばれている。家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。融通さん、融通観音とも称されている。
5月18日に融通観音大祭があり、本尊の開扉がある。
大師堂に祀られている弘法大師像は、大師58歳の姿で、厄除大師として信仰されている。甲山大師と称されている。
文化財
重要文化財
- 木造如意輪観音坐像
- 平安時代。当時の本尊。寺伝にいう空海の時代の作ではなく、10世紀後半から11世紀前半の作とされる。如意輪観音像には6臂像と2臂像があるが、この像は6臂像である。通常の如意輪観音像は右脚を立て膝とするが、本像は右脚を斜めにして左脚の上に乗せた珍しい形をしており、頭部が斜め上向きになっている点と合わせ、図像的に珍しい作例である。
- 木造聖観音立像 - 平安時代
- 木造不動明王坐像 - 鎌倉時代
- 木造弘法大師坐像 - 鎌倉時代
西宮市指定文化財
- 仁王門 - 江戸時代(1804年)建立、三間一戸八脚門(中央高屋根四脚門)
- 神呪寺縁起絵巻
札所
- 新西国三十三箇所
- 20 立木山寺 -- 21 神呪寺 -- 22 忉利天上寺
- 摂津国八十八箇所
- 74 金龍寺 -- 75 神呪寺 -- 76 東光寺
- 摂津国三十三箇所
- 2 平林寺 -- 3 神呪寺 -- 4 忉利天上寺
- 仏塔古寺十八尊
- 16 鏑射寺 -- 17 神呪寺 -- 18 室生寺
他
- 甲山八十八ケ所-1798年創設(西宮まちなび博(甲山八十八ケ所巡り))
- 廣田明神影向岩 山門から約200メートルの磐座群(甲山八十八か所)に廣田神社祭神(天疎向津姫=瀬織津姫)と役行者が邂逅した場所があり、役行者、前鬼・後鬼の像が岩の上に安置されている。
- 九想の滝 甲山森林公園入口の東約200メートルのところに位置する。空海・真名井御前(如意尼)が修行されたとする。
交通
脚注
- ^ 「御影史学論集(18)」御影史学研究会 1993‐10