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「リヒャルト・ゾルゲ」の版間の差分

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{{Redirect|ゾルゲ|中華人民共和国四川省の県|若爾蓋県}}
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{{Infobox 人物
{{Infobox 人物
| 氏名 = リヒャルト・ゾルゲ<br /><small>{{lang|de|Richard Sorge}}<br />{{lang|ru|Рихард Зорге}}</small>
| 氏名 = リヒャルト・ゾルゲ<br /><small>{{lang|de|Richard Sorge}}<br />{{lang|ru|Рихард Зорге}}</small>
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| 墓地 = {{JPN}}、[[東京都]]、[[多磨霊園]]
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| 記念碑 = <!-- 多数 -->
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| 国籍 =ドイツ
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| 別名 = ラムゼイ
| 別名 = ラムゼイ、インソン
| 民族 = ロシア系ドイツ人
| 民族 = ロシア系ドイツ人
| 市民権 =
| 市民権 =
| 教育 =
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| 出身校 = [[ハンブルク大学]]
| 出身校 = [[ハンブルク大学]]
| 職業 = [[ジャーナリスト]]、[[諜報員]]
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| 活動期間 = [[1924年]] - [[1941年]]
| 活動期間 = [[1924年]] - [[1941年]]
| 雇用者 = [[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|労農赤軍参謀本部第4局]]
| 雇用者 = [[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|労農赤軍参謀本部第4局]]
| 団体 = [[ゾルゲ諜報団]]
| 団体 = [[ゾルゲ諜報団]]
| 著名な活動 = [[ゾルゲ事件]]の主導
| 著名な活動 = [[ゾルゲ事件]]の主導
| 肩書き = 『[[フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング|フランクフルター・ツァイトゥング]]』東京特派員<br />[[駐日ドイツ大使館]]情報官
| 肩書き = 『[[フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング|フランクフルター・ツァイトゥング]]』東京特派員<ref group="注釈">新聞社側は正式な特派員契約を結ばなかったとしている(本文参照)。</ref><br />[[駐日ドイツ大使館]]情報官
| 政党 = [[国家社会主義ドイツ労働者党]]<br />[[ソビエト連邦共産党]]
| 政党 = [[国家社会主義ドイツ労働者党]]<br />[[ソビエト連邦共産党]]
| 政治運動 =
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| 刑罰 = [[日本における死刑|死刑]]
| 刑罰 = [[日本における死刑|死刑]]
| 親戚 = {{仮リンク|フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲ|en|Friedrich Sorge}}(大叔父)
| 親戚 = {{仮リンク|フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲ|en|Friedrich Sorge}}(大叔父)
| 配偶者 = クリスティアーネ・ゾルゲ<br />エカテリーナ・ゾルゲ
| 配偶者 =
| 非婚配偶者 = [[石井花子]]
| 非婚配偶者 = [[石井花子]]
| 受賞 = [[ソビエト連邦英雄]]<br />[[レーニン勲章]]<br />[[二級鉄十字章]]
| 受賞 = [[ソビエト連邦英雄]]<br />[[レーニン勲章]]<br />[[二級鉄十字章]]
}}
}}
'''リヒャルト・ゾルゲ'''({{lang-de|Richard Sorge}}, {{lang-ru|Рихард Зорге}}, [[1895年]][[10月4日]] - [[1944年]][[11月7日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[スパイ]]。[[1933年]]([[昭和]]8年)から1941年(昭和16年)にかけて[[ゾルゲ諜報団]]を組織して[[日本]]で諜報活動をい、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]と日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事し、[[ゾルゲ事件]]の[[首謀者]]として日本を震撼た。
'''リヒャルト・ゾルゲ'''({{lang-de|Richard Sorge}}, {{lang-ru|Рихард Зорге}}, [[1895年]][[10月4日]] - [[1944年]][[11月7日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[スパイ]]。[[1933年]]([[昭和]]8年)から1941年(昭和16年)にかけて[[ゾルゲ諜報団]]を組織して[[日本]]で諜報活動をおこない、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]と日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事していたが、[[ゾルゲ事件]]の[[首謀者]]として日本の警察機関によって逮捕され、刑事裁判で[[治安維持法]]および[[国防保安法]]違反により[[死刑]]判決受け、処刑た。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[石油]]会社に勤め[[コーカサス]]で仕事をしていた[[ドイツ人]]鉱山技師のヴィルヘルムと[[ロシア人]]ニナとの間に9人兄弟の1人として、[[ロシア帝国]][[バクー県]]の[[サブンチュ (バクー)|サブンチ]]で生まれる。
[[石油]]会社に勤め[[コーカサス]]で仕事をしていた[[ドイツ人]]鉱山技師のヴィルヘルムと[[ロシア人]]ニナとの間に9人兄弟の1人として、[[ロシア帝国]][[バクー県]]の[[サブンチュ (バクー)|サブンチ]]で生まれる。ヴィルヘルムは石油精製の知見を買われて招かれ、採掘機械工場を設立してこの地でニーナと結婚した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=34-36}}{{refnest|group="注釈"|ニーナについては再婚説があり、それによればゾルゲの兄弟のうち5人がニーナの連れ子だったという{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=34-36}}。一方で兄弟全員が両親の実子という説もある{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=34-36}}。}}


父方の大叔父[[フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲ]]([[:de:Friedrich Adolf Sorge|Friedrich Adolf Sorge]])は[[カール・マルクス]]の秘書であり、[[ハーグ]]大会後の[[第一インターナショナル]]・[[ニューヨーク]]本部の書記長であった。3歳の時に家族とともに[[ベルリン]]に移住、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]に通う
父方の大叔父[[フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲ]]([[:de:Friedrich Adolf Sorge|Friedrich Adolf Sorge]])は[[カール・マルクス]]の秘書であり、[[ハーグ]]大会後の[[第一インターナショナル]]・[[ニューヨーク]]本部の書記長であった。

3歳の時に父は工場を売却して、ゾルゲを含めた家族とともに[[ベルリン]]に移住した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=36-40}}。ベルリンの{{仮リンク|リリエンタールギムナジウム|de|Lilienthal-Gymnasium (Berlin-Lichterfelde)}}(当時の名称はオーバーレアルシューレ)に1902年から1914年まで在籍し、途中1年の[[原級留置|留年]]を経験している{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=36-40}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=60-61}}。自身の「獄中手記」では、歴史や哲学、文学、政治学は得意だったが、他の教科は「通常以下」で、学校の規則を守らずめったに口をきかない生徒だったと記している{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=36-40}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=60-61}}。


=== スパイになるまで ===
=== スパイになるまで ===
[[1914年]]10月に[[第一次世界大戦]]が勃発すると、ゾルゲは[[ドイツ陸軍]]に志願した。1916年3月に[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]で両足に重傷を負、入院していた時に[[クリスティアン・アルブレヒト大学キール|キール大学]]で[[社会学]]を専攻する従軍看護婦から[[社会主義]]理論を聞かされる。
[[1914年]]10月に[[第一次世界大戦]]が勃発すると、学校の卒業を待たずにゾルゲは[[ドイツ帝国陸軍|ドイツ陸軍]]に志願した{{sfn|三宅正樹|2010|pp=60-61}}。軍役中にゾルゲは3度負傷する{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=36-40}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=60-61}}。1916年3月に[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]で両足に重傷を負う。この負傷は重く[[野戦病院]]に入院(その後除隊)することとなった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=41-42}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=60-61}}。入院していた時に[[クリスティアン・アルブレヒト大学キール|キール大学]]で[[社会学]]を専攻する[[従軍看護婦]]から[[社会主義]]理論を聞かされる。向学心が芽生えたゾルゲに対し、この看護婦とその父親は、社会主義、革命、美術史、歴史などゾルゲが関心を示した分野に文献の提供を惜しまなかった{{sfn|三宅正樹|2010|pp=60-61}}


1917年11月に[[ロシア革命]]が起こり、ゾルゲは衝撃を受ける。第一次世界大戦の終戦後はベルリン大学・キー大学を経て[[ハブルク大学]]で学ここで[[1919]]最優秀の評価得て[[政治学]]の[[博士号]]を取得した。その後は教員、炭坑作業員、新聞への寄稿で生計を立てた。1919年[[ドイツ共産党]]が結成されるとハンブク支部入した。1924年4月に[[フランクフルト・アム・マイン]]で開催された第9回ドイツ共産大会に参加し、[[オシップ・ピアトニツキー]]、[[ドミトリー・マヌイリスキー]]、[[ソロモン・ロゾフスキー]]などロシアの共産関係の要人に強い印象を与えた
1917年11月に[[ロシア革命]]が起こり、ゾルゲは衝撃を受ける。第一次世界大戦の終戦前から[[フンボルト大学ベルリン|ベン大学]]で書を読み19181月正式に軍除隊るとキー大学に入した{{sfn|三宅正樹|2010|pp=60-61}}キール大学時代に[[ドイツ独立社会民主党]]に入する{{sfn|三宅正樹|2010|pp=60-61}}


1919年に[[ハンブルク大学]]に移る{{sfn|三宅正樹|2010|pp=60-61}}。同年10月に[[ドイツ共産党]]に入党する{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=43}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=61-62}}。1920年に国家学の[[博士号]]を取得した{{sfn|三宅正樹|2010|pp=61-62}}。論文のテーマは賃金問題だったという{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=47-49}}。
同年、[[ソビエト連邦共産党]]に加入するために[[モスクワ]]へ派遣され、軍事諜報部門である[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|労農赤軍参謀本部第4局]]に配属された。この所属変更は後に日本において[[特別高等警察]](特高)の管轄か、陸軍[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]の所管かに関わることとなる。

その後、[[アーヘン]]の高等学校で教員となるも、1921年末には政治論争をおこなったことから解職される{{sfn|三宅正樹|2010|pp=61-62}}。炭鉱作業員に転じて、職場に共産主義組織を立ち上げる{{sfn|三宅正樹|2010|pp=61-62}}。しかしアーヘンでの就職が困難となり、[[フランクフルト・アム・マイン]]に移って[[ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト大学]]社会学部助手となった{{sfn|三宅正樹|2010|pp=61-62}}。1922年に[[イルメナウ]]で開かれた第1回マルクス主義研究集会に参加し、記念の集合写真では留学中だった[[福本和夫]]と一緒に写っている{{sfn|三宅正樹|2010|pp=61-62}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=45}}。

1924年4月にフランクフルト・アム・マインで開催されたドイツ共産党大会に参加した際、ソ連から派遣された[[コミンテルン]]幹部である[[オシップ・ピアトニツキー]]、[[ドミトリー・マヌイリスキー]]、[[ソロモン・ロゾフスキー]]、[[オットー・クーシネン]]<ref group="注釈">後述する[[アイノ・クーシネン]]の夫。</ref> の警護と接待を担当した{{sfn|三宅正樹|2010|pp=63-64}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=44}}。彼らは親しくなったゾルゲにコミンテルンでの勤務を勧誘した{{sfn|三宅正樹|2010|pp=63-64}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=44}}。ゾルゲは同年末に[[モスクワ]]に移り、1925年からコミンテルンに所属した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=47-49}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=63-64}}。コミンテルン勤務とともに、ピアトニツキーによりゾルゲの党籍は[[ソビエト連邦共産党]]に変更された{{sfn|三宅正樹|2010|pp=63-64}}。

コミンテルンでは各国の党から送られてくる情報などを基にした報告・分析活動が中心であった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=47 - 49}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=63-64}}。ヨーロッパの現地視察をおこなったほか、作成した報告を書籍として刊行もしている{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=47-49}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=63-64}}。

[[1929年]]5月、ゾルゲはコミンテルンを離れ、軍事諜報部門である[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|労農赤軍参謀本部第4局]]に所属を変更した{{sfn|三宅正樹|2010|pp=64-65}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=50-52}}。この所属変更の理由として、ゾルゲ自身は日本の検察の訊問調書において、コミンテルンでは諜報活動ができないこと、世界革命の見通しが裏切られたこと、ソ連における[[一国社会主義論|一国社会主義]]路線への転換を挙げている{{sfn|三宅正樹|2010|pp=64-65}}。[[ヨシフ・スターリン]]の政権掌握後、コミンテルンはセクト主義に傾斜し、それに反対する人員は組織を追われたが、ゾルゲもその一人だったという指摘がある{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=50-52}}。


===上海でスパイ活動開始===
===上海でスパイ活動開始===
[[ファイル:Hotsumi Ozaki.JPG|thumb|尾崎秀実]]
[[ファイル:Hotsumi Ozaki.JPG|thumb|尾崎秀実]]
{{See also|獲得工作|ゾルゲ諜報団#上海における諜報活動|尾崎秀実#上海へ|川合貞吉#経歴・人物|ヌーラン事件}}
[[1930年]]にドイツの有力新聞『[[フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング|フランクフルター・ツァイトゥング]]』の記者という隠れ蓑を与えられ、日本や[[イギリス]]、[[フランス]]などの大国の[[租界]]が存在し、多くのスパイが動いていたといわれる[[中華民国]]の[[上海市|上海]]にソ連の諜報網の強化と指導を目的として派遣される。なおこの頃より「ラムゼイ」という[[コードネーム]]を与えられている。
赤軍に移ったゾルゲは、上司の[[ヤン・ベルジン]]との話し合いにより、[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]の[[上海市|上海]]に赴くことになる{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=58 - 59}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=66-67}}。その使命は、[[蔣介石政権]]に派遣されていたドイツの軍事顧問団の情報収集のほか、中華民国の内政外交や中華民国に対する日本・[[イギリス]]・[[アメリカ合衆国]]の外交政策など調査対象は多岐にわたっていた{{sfn|三宅正樹|2010|pp=66-67}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=61-62}}。1929年末にモスクワを発ち、[[1930年]]より[[1932年]]まで上海で諜報活動をしながら自分に協力するグループを築いた{{sfn|三宅正樹|2010|pp=66-67}}。

なおこの頃「ラムゼイ」という[[コードネーム]]を与えられている{{refnest|group="注釈"|後に1941年頃からは「インソン」というコードに変更された{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=166-167}}。}}。

半年程度で現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つに至った。活動は[[漢口]]、[[南京市|南京]]、[[広東省|広東]]、[[北京市|北京]]、そして[[1932年]]に[[満州国]]として独立することとなる満州地方などを中心にして行われている。ゾルゲ自身も各地を巡り、中華民国および日本の政治、歴史、文化に関する書物を読み、両国の言葉も学習し、アジア問題に通じるようになった。上海におけるゾルゲ諜報団の[[日本人]]は、[[尾崎秀実]]、[[鬼頭銀一]]、[[川合貞吉]]、[[水野成]]、[[山上正義]]、[[船越寿雄]]であった<ref name="sekaisensoutokakumei">白井久也『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』[[社会評論社]]、2003年、{{要ページ番号|date=2022-11}}</ref>。


上海では、仕事を通じて当時[[中国共産党]]の[[毛沢東]]に同行取材するなど活躍していたアメリカ人左翼ジャーナリストの[[アグネス・スメドレー]]と知り合う。スメドレーはゾルゲが中華民国を去るまで彼のスパイ組織の一人として活動した。[[朝日新聞]]記者だった尾崎秀実とは、[[アメリカ共産党]]から派遣された鬼頭銀一から紹介を受けて知り合った{{sfn|三宅正樹|2010|pp=66-67}}{{refnest|group="注釈"|ゾルゲは日本での取り調べの過程で尾崎との接触がスメドレーによるものであると供述を変更し{{sfn|三宅正樹|2010|pp=66-67}}、長らくそれが定説化していた。}}。水野成をゾルゲに紹介したのも、尾崎ではなく鬼頭である<ref name="sekaisensoutokakumei" />。ゾルゲは、ドイツの軍事顧問団長の[[ハンス・フォン・ゼークト]]や[[蔣介石]]から軍事情報を入手し、蒋介石軍の飛行機を爆破し、武器を略取するなど、中国共産党を支援した<ref name="sekaisensoutokakumei" />。また、[[オットー・ブラウン (共産主義者)|オットー・ブラウン]]や{{仮リンク|ゲアハルト・アイスラー|de|Gerhart Eisler}}ら、コミンテルンから中国共産党に派遣されたドイツ人顧問とも接点を持った<ref name="kato"/>。のちに核兵器情報をソ連にもたらしたことで知られる、[[ウルスラ・クチンスキー]]はゾルゲの助手かつ愛人であった{{要出典|date=2022-05}}。
半年程度で現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つに至った。活動は[[漢口]]、[[南京市|南京]]、[[広東省|広東]]、[[北京市|北京]]、そして[[1932年]]に[[満州国]]として独立することとなる満州地方などを中心にして行われている。ゾルゲ自身も各地を巡り、中華民国および日本の政治、歴史、文化に関する書物を読み、両国の言葉も学習し、アジア問題に通じるようになった。上海におけるゾルゲ諜報団の[[日本人]]は、[[尾崎秀実]]、[[鬼頭銀一]]、[[川合貞吉]]、[[水野成]]、[[山上正義]]、[[船越寿雄]]であった<ref name="sekaisensoutokakumei">白井久也『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社</ref>。


ゾルゲは1932年1月には日中両軍が衝突した[[第一次上海事変]]を報道した。同年12月にモスクワに戻る。
上海では、仕事を通じて当時[[中国共産党]]の[[毛沢東]]に同行取材するなど活躍していた[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人左翼ジャーナリストの[[アグネス・スメドレー]]と知り合う。スメドレーはゾルゲが中華民国を去るまで彼のスパイ組織の一人として活動し、[[朝日新聞]]記者だった尾崎秀実とゾルゲの橋渡しをしている。実際に二人の出会いに重要な役割を演じたのは、[[アメリカ共産党]]から派遣された[[鬼頭銀一]]である。また、[[水野成]]をゾルゲに紹介したのも、尾崎ではなく鬼頭である<ref name="sekaisensoutokakumei" />。ゾルゲは、ドイツの軍事顧問団長の[[ハンス・フォン・ゼークト]]や[[蒋介石]]から軍事情報を入手し、蒋介石軍の飛行機を爆破し、武器を略取するなど、中国共産党を支援した<ref name="sekaisensoutokakumei" />。ゾルゲは1932年1月には日中両軍が衝突した[[第一次上海事変]]を報道した。同年12月にモスクワに戻る。


[[上海共同租界]]の[[工部局]]イギリス警察は1932年1月頃から、ゾルゲをソ連のスパイではないかと疑い始め、その後捜査を進めた結果、[[1933年]]5月にゾルゲをソ連のスパイとほぼ断定した<ref name="sekaisensoutokakumei" />。
[[上海共同租界]]の工部局イギリス警察は1932年1月頃から、ゾルゲをソ連のスパイではないかと疑い始め、その後捜査を進めた結果、[[1933年]]5月にゾルゲをソ連のスパイとほぼ断定した<ref name="sekaisensoutokakumei" />。


===日本でのスパイ活動===
===日本でのスパイ活動===
[[ファイル:Richard Sorge press pass.jpg|thumb|ゾルゲの外国通信員身分証明票]]
[[ファイル:Richard Sorge press pass.jpg|thumb|ゾルゲの外国通信員身分証明票]]
[[File:Max Christiansen-Clausen.PNG|thumb|マックス・クラウゼン]]
[[File:Max Christiansen-Clausen.PNG|thumb|マックス・クラウゼン]]
{{See also|ゾルゲ諜報団#日本における諜報活動}}
1933年9月6日に、日本やドイツの動きを探るために『フランクフルター・ツァイトゥング』の[[東京]]特派員かつ[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]党員というカバーで日本に赴き、[[横浜市|横浜]]に居を構える。
[[1933年]]、次にゾルゲに出された指示は日本での活動だった{{sfn|三宅正樹|2010|pp=68-69}}。その主な内容は日本の対ソ政策や軍備の動向、日独関係([[国民社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権を握ったのはこの年1月だった)や日本の対中国政策などの調査だった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=85-86}}。ゾルゲはまずドイツに赴いてからアメリカ経由で日本に向かった{{sfn|三宅正樹|2010|pp=68-69}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=87}}。ドイツでゾルゲは地政学者の[[カール・ハウスホーファー]]らから[[駐日ドイツ大使館]]員への紹介状を得る{{sfn|三宅正樹|2010|pp=68-69}}。職業をジャーナリストとしたドイツのパスポートも入手した{{sfn|三宅正樹|2010|pp=68-69}}。


来日前に『[[フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング|フランクフルター・ツァイトゥング]]』の特派員となったという記述もあるが{{sfn|三宅正樹|2010|pp=68-69}}、1941年の逮捕後に当時の日本支局代表者がドイツ外務省に出した書簡では、ゾルゲと正式な特派員契約を交わしたことはなく、ゾルゲを寄稿者として利用するようになったのも1936年2月にゾルゲからベルリンの本社に宛てた売り込みの手紙を受け取ってからであるとしている{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=91-94}}。1933年9月6日にゾルゲは[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]発のカナダ客船で[[横浜港]]に到着し、日本での活動を開始する{{sfn|三宅正樹|2010|pp=68-69}}。
当時日本におけるドイツ人社会で、日本通かつナチス党員として知られるようになっていたゾルゲは、[[駐日ドイツ大使館]]付[[駐在武官|陸軍武官補]]から駐日ドイツ[[特命全権大使]]に出世した[[オイゲン・オット]]の信頼を勝ち取り、[[第二次世界大戦]]の開戦前には最終的に大使の私的顧問の地位を得た。彼は来日前にオットの戦友である『テークリッヒェ・ルントシャウ』紙論説委員であるツェラーの紹介状を入手していた上、政治的逃避のため日本に派遣されることになった当時のオット中佐は日本に関する知識をほとんど持っておらず、そのため日本の政治などに関して豊富な知識とコネクションを持ったゾルゲとの出会いを喜んだ。


ゾルゲは寄稿記者ながらジャーナリストとして駐日ドイツ大使館で信頼を得ていった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=90}}。来日間もない1933年秋に東京からナチスに入党申請し、1934年10月に正式なナチス党員となった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=90}}。
[[1936年]]の[[二・二六事件]]の際にはドイツ大使館内にいたことが、大使館と戒厳司令部の連絡将校として館内に出入りしていた[[馬奈木敬信]]によって戦後証言されている<ref>[[中田整一]]『盗聴 二・二六事件』文藝春秋社、2007年、pp131 - 136</ref>。ゾルゲはこの事件を日本の対外政策と内部構成を理解する好機ととらえた。オットや[[ヘルベルト・フォン・ディルクセン]]大使にも協力を求めて情報収集に努め、事件を分析した報告書をドイツ外務省や所属先である赤軍第四本部、ドイツの雑誌に送っている(ドイツ外務省と雑誌では匿名)。これを契機に大使館側のゾルゲに対する信頼は向上した。なおドイツの雑誌に掲載された論文は、[[カール・ラデック]]がゾルゲの筆とは知らずに評価してソ連の新聞に転載した。ゾルゲはこれに抗議し、以後はこうした事態は避けられた。


日本におけるドイツ人社会で、日本通かつナチス党員として知られるようになっていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付[[駐在武官|陸軍武官補]]の[[オイゲン・オット]]の信頼を得た。彼は来日前に『テークリッヘ・ルントシャウ』紙論説委員であるツェラーの紹介状を入手していた{{sfn|三宅正樹|2010|pp=78-79}}。政治的逃避のため日本に派遣されることになった当時のオット中佐は日本に関する知識がほとんどなく、そのため日本の政治などに関して豊富な知識とコネクションを持ったゾルゲとの出会いを喜んだ。
日本人共産党員とは接触を避け、[[ロシア語]]は口にしないなど行動に注意を払いつつ待っていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付[[ドイツ軍]]武官や[[ゲシュタポ]]将校の[[ヨーゼフ・マイジンガー]]の信頼も得ることになり、やがてオットが駐日ドイツ大使となると、ゾルゲも1939年頃には公文書を自由に見ることが出来る立場となっていた。[[ヨーロッパ]]で戦争が始まるとオットはゾルゲを大使館情報官に任命し、ゾルゲはドイツ大使館の公的な立場を手に入れた。ゾルゲはドイツ大使館と彼の諜報網の両方から日本の戦争継続能力、軍事計画などを入手できる立場となり、[[1940年]]9月27日の[[日独伊三国軍事同盟]]後にはより多くの情報が得られるようになった。


一方、ゾルゲよりも先に来日していた[[ユーゴスラビア]]人の[[ブランコ・ド・ヴーケリッチ]](当初はユーゴスラビアの新聞『[[ポリティカ (セルビアの新聞)|ポリティカ]]』特派員、1935年に[[フランス]]の[[アヴァス通信社]]東京支局に移籍)、ゾルゲより少し遅れて帰国した[[アメリカ共産党]]員の洋画家[[宮城与徳]]と接触を持って諜報団のメンバーとした{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=99-102}}。ソ連との交信のための無線通信士としてブルーノ・ヴェントという人物があてがわれたが、ゾルゲはその能力や性格に問題があると判断し、上海でもともに活動したドイツ人無線技士の[[マックス・クラウゼン]]の派遣を要請、クラウゼンは1935年12月に来日した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=102-104}}<ref group="注釈">ヴェントは日本で「ベルンハルト」という偽名で活動しており、ゾルゲらは警察や検察での取り調べでもその名を使用したため、「ベルンハルト」と記載する文献がある。</ref>。
ゾルゲは、その肩書ゆえに諜報入手に大切な当時の日本の支配階級との接触の機会を持てず、スパイとしては物足りなかった[[アメリカ共産党]]員の洋画家[[宮城与徳]]に代えて、支配階級との接触の機会を持つ男を必要とした。
{{See also|ゾルゲ諜報団#初期の活動とメンバーとの接触}}


だが、ゾルゲは日本の政府や軍の最高レベルでの決定事項を探ることのできる人材を欠いていた(ヴーケリッチや宮城は諜報活動に未熟で人脈もなかった){{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=104 - 106}}。そこでゾルゲは、当時[[大阪朝日新聞]]に勤務していた尾崎秀実をその任に充てることとし、1934年春に[[奈良市|奈良]]の[[猿沢池]]で尾崎と再会、尾崎はゾルゲの依頼を受け入れた{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=104-106}}。尾崎は1934年秋に朝日新聞社の東亜問題調査会勤務となり、東京に転勤する{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=107}}。
そこでゾルゲが選んだのが上海時代に知り合い[[近衛内閣]]の[[ブレーントラスト]]のひとりとなっていた尾崎秀実である。尾崎を仲間にして[[日本政府]]に関する情報が入手できるようになった。こうして[[アヴァス通信社]]の[[ユーゴスラビア]]人特派員の[[ブランコ・ド・ヴーケリッチ]]、宮城、ドイツ人無線技士の[[マックス・クラウゼン]]とその妻アンナらを中心メンバーとするスパイ網を日本国内に構築し、スパイ活動を進めた。ゾルゲが報告した日本の情報は[[武器]]弾薬、[[航空機]]、輸送船などのための[[工場]]設備や生産量、鉄鋼の生産量、石油の備蓄量などに関する最新の正確な数字であった。


こうしてゾルゲは少しずつ諜報網と情報源を築いていったが、来日から1935年までは「積極的な活動をするための土台を作るのに精いっぱい」であり、「任務を遂行するどころの話ではな」<!--原典は「なく」で終わっているので、正確な引用とするため、カギ括弧の位置は変えないでください-->かったと後の手記に記している{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=95}}。
=== 独ソ戦への貢献 ===
ゾルゲは大使の私的顧問として大使親展の機密情報に近づきやすい立場を利用して、ドイツの[[バルバロッサ作戦|ソ連侵攻作戦]]の正確な開始日時を事前にモスクワに報告した。他のスパイの情報やイギリスからの通報も、これを補強するものであったが、[[ヨシフ・スターリン]]は、ゾルゲ情報を無視した<ref group="注釈">スターリンがゾルゲの情報を無視したのは、ゾルゲはドイツとの[[二重スパイ]]ではないかとスターリンが疑っていたためだという説がある。また、実際にゾルゲは二重スパイであったという説もあり、[[手嶋龍一]]や[[佐藤優 (外交官)|佐藤優]]らがこの説を主張しているが、この説は現在では否定的な意見が多い。</ref>。結果ソ連は緒戦で大敗し、モスクワまで数十キロに迫られるという苦境に陥った。


クラウゼン・尾崎以外のメンバーの役割は、ヴーケリッチは[[同盟通信社]]や外国通信各社<ref group="注釈">これらはいずれも[[電通銀座ビル]]に入居していた。</ref> での検閲前のニュース収集と、集めた資料の写真撮影([[マイクロフィルム]]に焼いた)、宮城は日本人協力者からの情報収集、資料の英訳、および尾崎とゾルゲの連絡だった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=109-113}}。集まった資料の分析と報告はゾルゲ一人が担い、短いものはクラウゼンが自作した無線機による無線通信、長文の報告書はマイクロフィルムにして[[在日ロシア連邦大使館|駐日ソ連大使館]]の[[クーリエ]]に託された{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=109-113}}。無線通信の場合は、文章を数字に置換の上、1935年版『ドイツ統計年鑑』を[[乱数表]]としてさらに加工した暗号が使用された{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=109-113}}。日本の官憲は、怪しい無線電波が送信されていることを把握していたが<ref group="注釈">1937年以降、傍受した記録がある。</ref>、クラウゼンが複数の拠点を転々としながら送信したために発信元を特定できず、また暗号も解読できなかった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=200}}<ref name="kenpei"/><ref name="kato2"/>。
近衛内閣のブレーンで政権中枢や軍内部に情報網を持つ尾崎は、日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、[[イギリス領マラヤ]]や[[オランダ領東インド]]、アメリカ領[[フィリピン]]などの南方へ向かうのかを探った。日本軍部は、[[独ソ戦]]開戦に先立つ1941年4月30日に[[日ソ中立条約]]が締結されていた上、南方資源確保の意味もあってソ連への侵攻には消極的であった。1941年9月6日の[[御前会議]]でイギリスやオランダ、アメリカが支配する南方へ向かう「[[帝国国策遂行要領]]」を決定した。これには近衛内閣の内閣嘱託としての[[尾崎秀実]]による働きかけも有効であった。
{{See also|ゾルゲ諜報団#ゾルゲのモスクワ帰還と新たな無線技師}}


ゾルゲは1935年7月から9月まで、[[モスクワ]]に戻った{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=96 - 98}}。これがゾルゲにとって最後の帰国となる。その後、ゾルゲがソ連への帰任を希望した電報が複数残されている(1939年1月20日付、同6月4日付){{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=120-122}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=125-131}}。しかし代わりの人員がいないという理由でゾルゲの希望は認められなかった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=125-131}}。その一方、ソ連本国では上司だったベルジンらが粛清され、「帰れば粛清される」ことをゾルゲは察してもいた{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=162-163}}。同時期に日本で諜報活動を行っていた[[アイノ・クーシネン]]の回想では、1937年11月にゾルゲから彼女にソ連への帰国命令を伝えられた際に、ゾルゲは自分にも命令が出ているが組織維持のため今は帰れないと伝えるよう頼んだという{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=162-163}}<ref group="注釈">帰国したクーシネンは、実際に逮捕されて収容所に送られた。</ref>。
この情報を尾崎を介して入手することができたゾルゲは、それを10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊をヨーロッパ方面へ移動させ、[[モスクワの戦い|モスクワ前面の攻防戦]]でドイツ軍を押し返すことに成功し、イギリスやアメリカによる西部戦線における攻勢にも助けられ最終的に[[1945年]]5月に独ソ戦に勝利する。


[[1936年]]の[[二・二六事件]]の際にはドイツ大使館内にいたことが、大使館と戒厳司令部の連絡将校として館内に出入りしていた[[馬奈木敬信]]によって戦後証言されている<ref>[[中田整一]]『盗聴 二・二六事件』文藝春秋社、2007年、pp.131 - 136</ref>。ゾルゲはこの事件を日本の対外政策と内部構成を理解する好機ととらえた。オットや[[駐日ドイツ大使|大使]]の{{仮リンク|ヘルベルト・フォン・ディルクセン|de|Herbert von Dirksen}}にも協力を求めて情報収集に努め、事件を分析した報告書をドイツ外務省や所属先である赤軍第四本部、ドイツの雑誌に送っている(ドイツ外務省と雑誌では匿名)。これを契機に大使館側のゾルゲに対する信頼は向上した。なおドイツの雑誌に掲載された論文は、[[カール・ラデック]]がゾルゲの筆とは知らずに評価してソ連の新聞に転載した。ゾルゲはこれに抗議し、以後はこうした事態は避けられた。
情報は[[クーリエ]]を使って秘密裏にソ連へ運ばれただけではなく、クラウゼン自身で部品調達して組み立てた[[短波]]送信機と市販のラジオ受信機を改造した短波受信機を使い[[ウラジオストク]]と交信していた。特別高等警察(特高)は早いうちから怪しい無線電波が[[東京市]]内からソ連や中国大陸方面に向けて送信されていることを把握していたが、ゾルゲは送信地点を特定されることを避けるために、携帯式の簡易な無線装置と室内に設置したアンテナを使用して住宅密集地にある複数の拠点を転々としながら送信しており、また特高側もクラウゼンにより生成された暗号を解読できなかったため、一味が逮捕されるまで発信源を特定できなかった。
{{See also|ゾルゲ諜報団#二・二六事件の報告}}


馬奈木は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の「ドイツ通」とされ、やはりドイツへの駐在経験のある[[山県有光]]・[[西郷従吾]]・[[武藤章]]らとともに、ゾルゲから手記で「陸軍省の情報源」として名を挙げられている<ref>松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」NHK取材班&下斗米伸夫、1995年、pp.281 - 282</ref>。松崎昭一は、[[日中戦争]]の状況打開を狙ってドイツとの関係強化を図る陸軍側が、ドイツ大使館を通じて(ギブアンドテイクの形で)情報をゾルゲに与えていたのではないかと指摘している<ref>松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」NHK取材班&下斗米伸夫、1995年、pp.285 - 286</ref>。
===ゾルゲ事件===
特高はアメリカ共産党員である宮城やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリカ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。満州の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の『特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の[[捜査]]開始は「1940年6月27日」であったと記されている<ref name="sekaisensoutokakumei" />。


1936年11月にオットの補佐官として駐在武官のショル中佐が着任、第一次世界大戦で同じ戦闘に参加したこともあり、ゾルゲはショルとも親交を深めた{{sfn|三宅正樹|2010|pp=79-80}}。日中戦争([[支那事変]])が1937年に勃発すると、駐日ドイツ大使館ではオット(1938年4月に大使就任)がショル、ゾルゲとの3人で「支那事変に関する日本軍」という調査研究を始め、これにより収集された資料をゾルゲは撮影してソ連本国に送った<ref>松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」NHK取材班&下斗米伸夫、1995年、p.280</ref>。
この前後に、[[駐日ドイツ大使館]]付警察武官兼[[国家保安本部]]の[[将校]]で、ゾルゲと親しく特高との関係も深かった[[ヨーゼフ・マイジンガー]]は、大使館付き警察武官が在日ドイツ人に対して行う調査を一通り行った上で、ゾルゲを「信頼できる人物である」として、憲兵隊や特高に身分保証してゾルゲに対する尾行を中止するように依頼している<ref>全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』研文書院, 1976年</ref>。このようなマイジンガーの依頼も関わらず、特高は外国の新聞の特派員に対する通常の任務の一環として、その後もゾルゲに対する尾行や調査を続け、これがゾルゲ事件の摘発に繋がることとなる<ref>加藤哲郎『新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相』ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集第28号, 2011年</ref>。


一見順調な諜報活動だったが、ショルは1939年の始めに離任し{{sfn|三宅正樹|2010|pp=79-80}}、前記の研究会も不活発になった<ref name="NHK取材班 p.287">松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」NHK取材班&下斗米伸夫、1995年、p.287</ref>。ゾルゲは同年6月に送った報告で、「活動をつづける上での障害の増大」を訴え、その理由として駐日ドイツ大使館の増員によって新たな関係を作ることが困難になったこと、古くから残っている人物がオットのみとなった上にオットが大使に就任したことで個人的に面談・討議できる機会が激減したことを挙げている{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=128-129}}。ゾルゲは後の手記において、日本の軍事情報に関しては1939年 - 1940年頃を境に駐日ドイツ大使館よりも尾崎や宮城が収集してくる情報の方が価値が高くなったと記している<ref name="NHK取材班 p.287"/>。尾崎は1938年7月には[[第1次近衛内閣]]嘱託となる(1939年1月まで)とともに、[[近衛文麿]]のブレーンによる[[朝食会|朝飯会]]のメンバーにも加えられていた<ref>松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」NHK取材班&下斗米伸夫、1995年、pp.290 - 291</ref>。
1941年9月27日<ref group="注釈">特高資料では「9月28日」とされているが、上記「褒賞上申書」や和歌山県で北林の逮捕に立ち会った元和歌山県警刑事の証言により実際の逮捕日は9月27日であることが[[渡部富哉]]によって確認されている [https://web.archive.org/web/20120312145501/http://chikyuza.net/modules/news2/article.php?storyid=110]。</ref>の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕された<ref group="注釈">戦後の長期間、「[[伊藤律]]が北林の名を供述していたことが検挙の発端である」という内容が通説化していたが、現在はほぼ否定されている。詳細は伊藤の項目を参照。</ref>。その後、尾崎が10月14日に、ゾルゲら外国人は10月18日に、スパイ容疑で[[警視庁]]特高一課と同[[外事課]]によって相次いで[[逮捕]]された([[ゾルゲ事件]])。
{{See also|ゾルゲ諜報団#尾崎秀実の活動}}


日独の接近は、それが対ソ軍事同盟につながるのではないかという点で、ソ連の重大な関心事となった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=136-141}}。1939年前半にゾルゲはこの動きに関する情報を複数本国に送り、イギリスとの関係悪化を避けたい日本が同盟締結に消極的で、ドイツも対英戦を対ソ戦より優先していると分析した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=136-140}}。この後ソ連は同年8月に[[独ソ不可侵条約]]を締結、9月にドイツの[[ポーランド侵攻]]によって[[第二次世界大戦]]が勃発する{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=136-141}}。
一味の逮捕後、尾崎の友人で[[衆議院]]議員かつ[[汪兆銘政権|南京国民政府]]の顧問も務める[[犬養健]]、同じく友人で近衛内閣の嘱託であった[[西園寺公一]]、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であった[[フランス人]]特派員の[[ロベール・ギラン]]など、数百人の関係者も参考人として取調べを受けた。なお当然ながら[[近衛文麿]]総理の責任と関与も疑われたが、10月18日の総辞職とその後の英米開戦で不問となった。


[[ヨーロッパ]]で戦争が始まるとオットはゾルゲを大使館情報官に任命し、ゾルゲはドイツ大使館の公的な立場を手に入れた。ゾルゲはドイツ大使館と彼の諜報網の両方から日本の戦争継続能力、軍事計画などを入手できる立場となり、[[1940年]]9月27日の[[日独伊三国軍事同盟]]後にはより多くの情報が得られるようになった。
これに対し、ゾルゲをナチス党員の記者だと信じ込んでいたオット大使やマイジンガーなどが外務省に対して正式に抗議を行ったほか、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]東京支部、在日ドイツ人[[特派員]]一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した<ref>エルヴィン・ヴィッケルト『戦時下のドイツ大使館』P.33 中央公論社</ref>。さらにマイジンガーは、ゾルゲの逮捕後にベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している<ref>エルヴィン・ヴィッケルト『戦時下のドイツ大使館』P.34 中央公論社</ref>。


===ゾルゲへの疑い===
なお当初ゾルゲは否認を続けていたものの、数々の[[証拠]]を突きつけられるとスパイであることを認め、面会に訪れたオットに対しても別れの言葉を口にすることで自らの罪を認めることとなった。
{{See also|ゾルゲ諜報団#捜査}}
一方、長い活動の間にゾルゲに対して行動や前歴を不審と感じる向きが出ていた。[[ヴァルター・シェレンベルク]](当時[[国家保安本部]]海外情報部長)の回想『秘密機関長の手記』によると、シェレンベルクは[[ドイツ通信社]]の総裁からゾルゲの調査を依頼された{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=201 - 202}}。その理由は、総裁がナチス党方面からゾルゲの「不可解な」政治的前歴の情報を伝えられたことだった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=201-202}}。


シェレンベルクは、ゾルゲを共産主義者とは裏付けられなかったが不審な印象を拭えず、[[保安警察]]長官の[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の意向で、駐日大使館付警察武官として1941年5月に赴任することになった[[国家保安本部]]の[[ヨーゼフ・マイジンガー]]にゾルゲを監視する任務を与えた{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=201-202}}。しかしゾルゲはマイジンガーと酒席も通じて交友を結び、隙を見せなかった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=202-203}}。
その後ゾルゲら20名は[[1942年]]に[[国防保安法]]、[[治安維持法]]違反などにより[[起訴]]され、一審によって刑が確定し、それぞれに1年半、[[執行猶予]]2年(西園寺)から[[死刑]](ゾルゲ、尾崎)までの[[判決]]が言い渡された。ゾルゲや尾崎らは[[巣鴨拘置所]]に[[拘留]]され、日独両国の敗色が濃厚となってきた[[1944年]]11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。ゾルゲの最後の言葉は、[[日本語]]で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際[[共産主義]]万歳」であった。ゾルゲの死刑執行に立ち会った[[市島成一]][[東京拘置所]]所長は、「ゾルゲは死刑執行の前に、『世界の[[共産党]]万歳』と一言、そういって刑に服した。従容としておりました」と証言している<ref>『法曹』1970年3月号、白井久也『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』</ref>。

=== 独ソ戦に関する諜報活動 ===
{{See also|ゾルゲ諜報団#日独関係をめぐって}}
1940年12月29日にゾルゲが送った報告では、ドイツが東部国境に80個師団を配備しているというドイツ軍人からの情報を伝え、ドイツ軍が[[ハルキウ|ハリコフ]]・モスクワ・[[サンクトペテルブルク|レニングラード]]の線に沿って領土占領が可能だと記した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=142-144}}。だが、この情報はソ連本国では疑問視された{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=142-144}}。

5月に入るとゾルゲはドイツの対ソ開戦の兆候があるという連絡を複数送り、さらに[[タイ王国]]への赴任の途中東京に立ち寄ったショル中佐から、「6月15日にドイツが対ソ開戦する」と伝えられ、6月1日付で送信した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=149 - 150}}{{refnest|group="注釈"|ゾルゲは日本の訊問調書ではショルから入手した開戦予定を「6月20日」と述べているが{{sfn|三宅正樹|2010|pp=79-80}}、ゾルゲが実際に送った通信ではこの日付である。}}。しかし、この通信に対してもソ連では「疑わしい、挑発のための電報のリストに入れるよう」という書き込みがなされ、6月20日付で送った「オットが対ソ開戦不可避と述べた」という通信に対しても重要情報として扱われた形跡はない{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=149-150}}。[[バルバロッサ作戦|ソ連侵攻作戦]]が開始されると、ソ連[[赤軍]]は緒戦で大敗した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=149-150}}。

他のスパイの情報やイギリスからの通報も独ソ開戦を補強していたにもかかわらず、スターリンはこれらを無視した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=151 - 154}}。その理由については、諜報機関の情報自体への不信、イギリスによる独ソ離間策という疑念、独露混血であるゾルゲに対する二重スパイ疑惑、赤軍への悪感情等が挙げられている{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=151-154}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=80-82}}{{refnest|group="注釈"|[[手嶋龍一]]や[[佐藤優 (外交官)|佐藤優]]らは実際に二重スパイであったという説を主張している<ref>手嶋龍一&佐藤優、2006年、{{要ページ番号|date=2020-08}}。</ref>。}}。また、ソ連本国でゾルゲの通信の翻訳を担当したシロトキンには「日本のスパイ」という疑惑がかけられており、ゾルゲが所属した労農赤軍参謀本部第4局のコルガノフ少将は「シロトキンとゾルゲはスパイ」とする報告書を同年8月11日付で記していた{{sfn|三宅正樹|2010|pp=80-82}}。

独ソ開戦後、ソ連からゾルゲには、改めて日本政府の対ソ政策やソ連国境への軍隊の移動について情報を探る指示が出された{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=166-167}}。日本の対ソ開戦を恐れたためだった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=168}}。外務大臣の[[松岡洋右]]が[[日ソ中立条約]]を破棄しても対ソ開戦すべきと主張したことはゾルゲにも伝わったが、ゾルゲは日本の関心は南方だとしてこれを疑問視した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=178}}。日本政府や軍部の多くは、ソ連への侵攻には消極的ではあったものの、まだ流動的であった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=179-182}}。

諜報団は諜報活動以外の宣伝や謀略を禁じられていたが、ゾルゲはドイツ大使館で日本の対ソ開戦は期待できないという意見を説いて回り、尾崎は「朝飯会」でソ連は崩壊せず日本がソ連に開戦するのは無意味だと主張した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=182-184}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=187-189}}。もっともこれらの効果については両人とも限定的なものだったと後の訊問調書で述べている{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=182-184}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=187-189}}。

7月2日の[[御前会議]]決定([[情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱]])では、南進<ref group="注釈">この時点では南部[[仏印進駐|仏印への進駐]]。</ref> を主眼としつつ、[[独ソ戦]]の形勢が日本に有利になれば参戦できるよう準備をする<ref group="注釈">[[満州国]]のソ連国境に70万人を動員する[[関東軍特種演習]]が実行された。</ref> という「両構え」の方針となる{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=189-190}}。ゾルゲはオットと尾崎の両方からこの決定を入手する{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=193-197}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=204-211}}。尾崎は、日本軍の矛先が南北いずれに向かうのかを政権中枢に近い筋から探った([[西園寺公一]]や[[田中慎次郎]]が主な情報源だった){{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=204-211}}。ゾルゲは、対ソ戦準備を重視するオットの見解ではなく、南進が主眼だとする尾崎の分析を採用して、7月10日に本国に送った{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=193-197}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=204-211}}。

さらに、8月以降、日本の対ソ開戦の可能性が低下したことがオットや尾崎の情報によって確認され、ゾルゲは9月14日に送った報告で「オット大使の意見によると、日本の対ソビエト攻撃は今ではもはや問題外であり、日本が攻撃可能なのは、ソビエトが極東から軍隊を大規模に移動させた場合にだけだろう」と記した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=216-220}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=180-194}}。このゾルゲの情報に加え、[[内務人民委員部]](NKVD)のセルゲイ・トルストイらによる日本の外交暗号電報([[パープル暗号]])の傍受解読情報、さらに日本政府内の協力者「エコノミスト」(コードネーム)の情報によって日本の対ソ開戦が低いことを確認したソ連は、ソ満国境に配備された部隊の一部を抽出してヨーロッパ方面へ移動させ、[[モスクワの戦い|モスクワ前面の攻防戦]]でドイツ軍を押し返すことに成功した{{sfn|三宅正樹|2010|pp=166-178}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=180-194}}{{refnest|group="注釈"|「エコノミスト」の「年内に日本の対ソ開戦がない」という情報(情報源は[[左近司政三]])は1941年9月9日に[[ラヴレンチー・ベリヤ]]からスターリンと[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]に報告されており、これはゾルゲの報告よりも5日早い{{sfn|三宅正樹|2010|pp=180-194}}。}}。

1941年10月4日付の最後の諜報報告{{sfn|三宅正樹|2010|pp=166-178}}{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=224}}に対し、ソ連本国からは「皆さんの実りある仕事に感謝する。あなたとあなたのグループの東京での協力は円満に終ったものと考える」との返信がなされた{{sfn|三宅正樹|2010|pp=166-178}}。

=== 逮捕と処刑 ===
{{See also|ゾルゲ諜報団#一斉検挙|ゾルゲ事件}}
[[特別高等警察]](特高)はアメリカ共産党員である宮城やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリカ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。満州の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の『特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている<ref name="sekaisensoutokakumei" />。

前出のマイジンガーは、密かに内偵していた憲兵隊に「信頼できる人物である」と身分保証してゾルゲに対する尾行を中止するように依頼している<ref name="kenpei">全国憲友会連合会編纂委員会(編)『日本憲兵正史』研文書院、1976年、pp.678 - 684</ref><ref name="kato2">[[加藤哲郎 (政治学者)|加藤哲郎]]「{{PDFlink|[http://www.npointelligence.com/NPO-Intelligence/study/%E8%AB%9C%E5%A0%B1%E7%A0%94%E5%A0%B1%E5%91%8A20191109s.pdf ゾルゲ事件研究の新段階――思想検事・太田耐造と特高警察・天皇上奏・報道統制]}}」『第29回諜報研究会報告』(2019年11月9日。p.2に『日本憲兵正史』の抜粋がある)</ref>。マイジンガーからゾルゲの調査依頼を受けた[[警視庁 (内務省)|警視庁]]特高部[[外事課]]も1941年夏にゾルゲを内偵したが、怪しい点を見つけることはできなかった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=201-202}}。

これらにかかわらず、特高は外国の新聞の特派員に対する通常の任務の一環として、その後もゾルゲに対する尾行や調査を続け、これがゾルゲ事件の摘発につながることとなる<ref>加藤哲郎『新発掘資料から見たゾルゲ事件の実相』ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集第28号, 2011年</ref>。

1941年9月27日<ref group="注釈">特高資料では「9月28日」とされているが、上記「褒賞上申書」や和歌山県で北林の逮捕に立ち会った元和歌山県警刑事の証言により実際の逮捕日は9月27日であることが[[渡部富哉]]によって確認されている [https://web.archive.org/web/20120312145501/http://chikyuza.net/modules/news2/article.php?storyid=110]。</ref> の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕された<ref group="注釈">戦後の長期間、「[[伊藤律]]が北林の名を供述していたことが検挙の発端である」という内容が通説化していたが、現在はほぼ否定されている。詳細は伊藤の項目を参照。</ref>。北林の供述から10月10日に宮城が、10月中旬に尾崎が逮捕される([[ゾルゲ事件]]){{refnest|group="注釈"|尾崎の逮捕日について、尾崎自身の手記や『特高月報』では「10月15日」となっているが、渡部富哉は10月14日であると主張している<ref>[http://chikyuza.net/archives/87315 質問に答える─「尾崎秀実の逮捕は14日」は誤りか(上)] - ちきゅう座(2018年9月8日)</ref><ref>渡部富哉「[http://chikyuza.net/archives/99424 反論「尾崎秀実の14日逮捕」は誤りか─「太田耐造資料」からゾルゲ事件端緒説を追う─(その3)] - ちきゅう座スタディルーム(2019年12月5日)</ref>。}}。

ゾルゲは宮城や尾崎と連絡が取れなくなったことに不安を抱き、10月17日の夜、自宅にクラウゼンとヴーケリッチが集まった際にもそれを口にした{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=227-230}}。ヴーケリッチの訊問調書によるとこの夜ゾルゲとクラウゼンはドイツに帰国する意思を示し、ゾルゲは本国にその可否を本国の本部に尋ねる電文の原稿も作成していた{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=227-230}}。だが、翌10月18日朝にゾルゲは自宅で特高外事課と検察によって逮捕された{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=231-233}}。ヴーケリッチとクラウゼンも同日逮捕されている{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=231-233}}。

これに対し、ゾルゲをナチス党員の記者だと信じ込んでいたオット大使やマイジンガーなどが外務省に対して正式に抗議をおこなったほか、ナチス党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した{{sfn|エルヴィン・ヴィッケルト|1998|p=33}}。さらにマイジンガーは、ゾルゲの逮捕後にベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している{{sfn|エルヴィン・ヴィッケルト|1998|p=34}}。

逮捕されたゾルゲは当初特高外事課の警部補だった[[大橋秀雄 (警察官)|大橋秀雄]]によって取り調べを受けた{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=234-238}}。ゾルゲは当初は容疑を否認し、ナチス党員・大使館嘱託で新聞記者であると主張して、検挙が日独関係を害すると訴えた{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=234-238}}。だが、大橋が逮捕後の家宅捜索で押収したソ連への離日申請原稿や、クラウゼンの自供で発見された通信機の存在をゾルゲに告げると、ゾルゲは自らが「単なる新聞記者ではない」ことを自供した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=234-238}}。翌日(逮捕から一週間後の10月25日)、ゾルゲは大橋や検事の[[吉河光貞]]に対して自分がスパイであるとついに白状し「今までどこにも負けなかったけれど、今度はじめて日本の警察に負けた」と付け加えた{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=234-238}}。

オット大使の命を受けて外務省と折衝した大使館員の{{仮リンク|エーリヒ・コルト|de|Erich Kordt}}は、「ゾルゲはソ連のスパイ」と知らされ、オットとコルトは[[巣鴨拘置所]]の所長室でゾルゲに面会する{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=234-238}}。その際ゾルゲはオットに「私はあなたにさよならを言います。奥さんやお嬢さんによろしく」とだけ述べ、沈黙したオットを残してゾルゲは退出した{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=234-238}}。

ゾルゲは警察や検察の取り調べに対して自らの所属を明確にせず、訊問調書には「モスコウ中央部」(文献によっては「モスコーセンター」)と記されている{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=239-240}}{{sfn|三宅正樹|2010|pp=100-110}}。これについて取り調べを担当した大橋秀雄は「『国際共産党のために働いた』と言わせる目的で、ゾルゲと相談して作った架空の組織である」と戦後に証言している{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=239-240}}。日本側には[[治安維持法]]で検挙するという事情があった{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=239-240}}<ref group="注釈">治安維持法は「[[国体]]を変革することを目的」とした「結社」への関与を対象としており、外国の軍隊や国家ではなかった。</ref>。ところがゾルゲは公判段階に入ると労農赤軍に所属していたことを認め、「モスコウ中央部」としたのは自らの策略と述べ、その理由として憲兵への引き渡しの回避、ソ連における複雑な組織が理解されづらいと考えたことなどを挙げている{{sfn|三宅正樹|2010|pp=100-110}}{{refnest|group="注釈"|公判に先立ち、ゾルゲが吉河光貞の前で作成した『手記』において、その途中から労農赤軍からの指示で動いたことを明記していた{{sfn|三宅正樹|2010|pp=100-110}}。}}。

ゾルゲら20名は[[1942年]]に[[国防保安法]]、治安維持法違反などにより起訴され、一審によって刑が確定し、ゾルゲの死刑判決が下された。同じく死刑が決まった尾崎とともに巣鴨拘置所に拘留され、[[1944年]]11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所で死刑が執行された。ゾルゲの死刑執行に立ち会った[[市島成一]][[東京拘置所]]所長<ref group="注釈">当時、巣鴨拘置所の正式名称は東京拘置所だった。</ref> は、「ゾルゲは死刑執行の前に、『世界の[[共産党]]万歳』と一言、そういって刑に服した。従容としておりました」と証言している<ref>『法曹』1970年3月号(白井久也『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社、2003年に引用)</ref>。

処刑後のゾルゲの遺体は、引き取り手がない無縁仏として、巣鴨拘置所に近い[[雑司が谷霊園]]の共同墓地に埋葬された{{sfn|石井花子|2003|pp=184、191-193}}。戦後、ゾルゲの処刑と埋葬を知った[[石井花子]](詳細は後述)の奔走により1949年11月16日にゾルゲの遺体(白骨化していた)は発掘されて火葬され、約1年後の1950年11月8日に石井の手により[[東京都]]郊外の[[多磨霊園]]に埋葬された{{sfn|石井花子|2003|pp=227-238、251}}。当初は墓碑がなく、「尾崎・ゾルゲ事件犠牲者救援会」と石井花子の手により墓碑が建立されたのは、1956年11月である{{sfn|石井花子|2003|pp=307-311}}。


== ソ連邦英雄 ==
== ソ連邦英雄 ==
[[Image:Dr Richard Sorge spy.jpg|thumb|ゾルゲを顕彰したソ連の切手(1965年)]]
[[Image:Dr Richard Sorge spy.jpg|thumb|right|170px|ゾルゲを顕彰したソ連の切手(1965年)]]
[[ファイル:Richard Sorge's Grave 02.jpg|thumb|280px|<center> 来日した[[セルゲイ・ショイグ|ショイグ国防相]] と[[ロシア連邦軍]] 将官による墓参]]
ゾルゲは日本の警察や駐日ドイツ大使に対してソ連のスパイであることを自供したものの、当時日本との間で[[日ソ不可侵条約]]を結んでいたソ連政府は、日本との関係の悪化を恐れた事と、当時本国では[[大粛清]]の時期にあたり、[[ラヴレンチー・ベリヤ]]によって、政争相手である[[ヤン・ベルジン]]が[[1938年]]に処刑されたのち、ベルシンの部下であったという理由でゾルゲの報告を握りつぶした挙句、かたくなにゾルゲが自国のスパイであることを否定し、いわば見殺しにされる形で見捨てられ、戦後もソ連の諜報史からゾルゲの存在は消し去られていた。 [[1961年]]、映画『[[スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜]]』が日仏合作で作成され、[[スターリン批判]]をおこなった指導者の[[ニキータ・フルシチョフ]]の判断でモスクワで封切りされたのをきっかけに再評価され、ゾルゲの生まれたバクーの町にゾルゲの銅像が建つなど顕彰が進んだ<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO59332450Q0A520C2BC8000/ |title=[[私の履歴書]] 岸恵子 (20)復帰 ゾルゲ主人公の映画企画 フルシチョフ感動 ソ連でも上映|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2020-05-21|accessdate=2020-05-22}}</ref>。[[1964年]]11月5日に、ゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」が授与された。ただし、このタイミングはフルシチョフが失脚した直後に当たる。


ゾルゲは日本の警察に対してソ連のスパイであることを自白してしまったものの、当時日本との間で[[日ソ中立条約]]を結んでいたソ連政府は、日本との関係の悪化を恐れたこと、ゾルゲの上司だった[[ヤン・ベルジン]]が[[大粛清]]によって[[1938年]]に処刑されていたこと、ドイツとの二重スパイを疑ったことからゾルゲが自国のスパイであることを否定した。日本側からゾルゲと日本の将官との交換釈放を持ちかけられた際に[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|GRU]]のイリショフ大将が無視したという指摘がある<ref name="will">アンドレイ・フェシュン、名越健郎訳「{{PDFlink|[http://www.kaiken.takushoku-u.ac.jp/pdf/research_activity011.pdf 没後七十年 ゾルゲ事件 衝撃の新事実]}}」『[[WiLL (雑誌)|Will]]』2014年12月号、[[ワック (メディア企業)|ワック]]、pp.56 - 67。後に『ゾルゲ・ファイル』みすず書房で刊。</ref>。
以後、ゾルゲは「ソ連と日独の戦争を防ぐために尽くした英雄」として尊敬され、ソ連の駐日特命全権大使が日本へ赴任した際には[[東京都]]郊外の[[多磨霊園]]にあるゾルゲの墓に参るのが慣行となっていた。ソ連崩壊後も[[ロシア]]駐日大使がこれを踏襲している。また、[[ロシア連邦大統領]]である[[ウラジミール・プーチン]]はフランスが製作したゾルゲの映画を少年時代に見て[[KGB]]のスパイを志したとされる<ref>{{Cite web|url=https://www.fsight.jp/1553|publisher=[[新潮社]]|author=[[フォーサイト (雑誌)|フォーサイト]]|title=ロシアでゾルゲがブームになる不気味な理由|date=2004-12|accessdate=2019-09-19}}</ref>。


このときに[[事務次官等の一覧|陸軍次官]]であった[[富永恭次]]によれば、日本側はゾルゲと日本人捕虜の交換を何度も[[在日ロシア連邦大使館|ソ連大使館]]に要求しているが、ソ連側はその都度「リヒャルト・ゾルゲという人物は知らない」と回答しゾルゲを見捨てたとされる{{sfn|レオポルド・トレッペル|1978|pp=318-319}}。富永は、大使館付の武官補佐官として、ヨーロッパ方面にいる[[白系ロシア人]]支援のためフランスに派遣されたり、関東軍の参謀時代にも対ロシア諜報や謀略に携わり、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の作戦部長のときには対ソ連攻撃計画[[関東軍特別演習]]にも深く関与するなど、対ソビエト連邦への謀略の最前線にいることが多かったため、戦後に[[満州]]で捕虜となると6年もの長きに渡って尋問を受けていたが<ref>1955年(昭和30年)5月12日(木曜日)第022回 参議院 社会労働委員会 第005号 </ref>、モスクワ近郊の『ダーチャ』と呼ばれていた監獄で一緒に尋問を受けていたソ連のスパイ組織「[[赤いオーケストラ]]」の[[レオポルド・トレッペル]]にゾルゲの話をしている。トレッペルは富永の話を聞くと、足手まといとなるゾルゲを助けるよりは、そのまま処刑された方がいいという判断をソ連中央が下し、その判断は自分たち「赤いオーケストラ」やヤン・ベルジンと同じように、ゾルゲが二重スパイだという嫌疑をかけられていたからであったと推測している{{sfn|レオポルド・トレッペル|1978|pp=318-319}}。このように、いわば見殺しにされる形で見捨てられ、戦後もソ連の諜報史からゾルゲの存在は消し去られていた。
[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]][[ドイツ陸軍 (国家人民軍)|陸軍]]の第1捜索大隊(偵察隊)は、名誉称号としてリヒャルト・ゾルゲの名を冠していた(Aufklärungsbatallion 1 "Dr. Richard Sorge")。また同じく東ドイツの[[シュタージ|国家保安省]](MfS)は功労章として、「リヒャルト・ゾルゲ・メダル(Dr.-Richard-Sorge-Medaille)」を制定していた。

[[1961年]]、映画『[[スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜]]』が日仏合作で作成され、[[スターリン批判]]をおこなった指導者の[[ニキータ・フルシチョフ]]の判断でモスクワで封切りされたのをきっかけに再評価される<ref name="kishi"/><ref name="spn">{{Cite news|url=https://sputniknews.jp/20190419/6152377.html|title=リヒャルト・ゾルゲと石井花子 死だけが二人を分かつ|newspaper=スプートニクニュース|date=2019-04-19|accessdate=2020-07-05}}</ref>。フルシチョフはゾルゲの資料を収集する指示を出し、情報総局に設置された委員会によって文書やオーラルヒストリーの調査がおこなわれた<ref name="spn"/>。[[1964年]]9月5日、ソ連共産党機関紙[[プラウダ]]に初めてゾルゲの記事が掲載される<ref name="spn"/><ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/1964/10/11/archives/again-the-sorge-case.html |title=Again The Sorge Case|newspaper=[[ニューヨーク・タイムス]]|date=1964-10-11|accessdate=2020-07-05}}</ref>。同年11月5日にゾルゲに「[[ソ連邦英雄]]」の称号が贈られた<ref name="spn"/><ref group="注釈">フルシチョフはこれに先立つ10月に失脚した。</ref>。ゾルゲの生まれたバクーの町にゾルゲの銅像が建つなど顕彰が進んだ<ref name="kishi">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO59332450Q0A520C2BC8000/ |title=[[私の履歴書]] 岸恵子 (20)復帰 ゾルゲ主人公の映画企画 フルシチョフ感動 ソ連でも上映|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2020-05-21|accessdate=2020-05-22}}</ref>。

以後、ゾルゲは「ソ連と日独の戦争を防ぐために尽くした英雄」として尊敬され、ソ連の駐日特命全権大使が日本へ赴任した際には多磨霊園にあるゾルゲの墓に参るのが慣行となっていた。ソ連崩壊後も[[ロシア]]駐日大使がこれを踏襲している。また、[[ロシア連邦大統領]]である[[ウラジーミル・プーチン]]はフランスが製作したゾルゲの映画<ref group="注釈">前出の『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』とみられる。</ref> を少年時代に見て[[KGB]]のスパイを志したとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fsight.jp/1553|publisher=[[新潮社]]|author=フォーサイト|authorlink=フォーサイト (雑誌)|title=ロシアでゾルゲがブームになる不気味な理由|date=2004-12|accessdate=2019-09-19}}</ref>。2020年、駐日ロシア大使館がゾルゲの墓所の使用権を取得したと報じられた<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20201225/k00/00m/040/313000c|title=露大使館がゾルゲの墓の使用権取得へ 相続人と承継で合意|newspaper=毎日新聞|date=2020-12-25|accessdate=2021-11-05}}</ref>。

2022年1月26日、ロシア[[セルゲイ・ラブロフ]]外相はゾルゲの遺骨を[[サハリン州]]南部([[樺太|南樺太]])や[[千島列島|クリール諸島]]南部(千島列島南部、[[北方領土問題|北方領土]])に改葬する構想を表明し日本側と協議していると発表した<ref name="hokkaido20220128">[https://www.hokkaido-np.co.jp/article/638718?rct=st_recommended 旧ソ連のスパイとして英雄視 ゾルゲ遺骨 ロシアが北方領土に埋葬? 日本側は否定「提案受けていない」]、北海道新聞、2022年1月29日閲覧</ref>。しかし、日本側の[[松野博一]]官房長官は翌日の記者会見でこのような提案は受けていないとした<ref name="hokkaido20220128" />。

[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]][[ドイツ陸軍 (国家人民軍)|陸軍]]の[[第1自動車化狙撃兵師団 (国家人民軍)|第1自動車化狙撃兵師団]]に属する第1捜索大隊(偵察部隊)は、名誉称号としてリヒャルト・ゾルゲの名を冠していた(Aufklärungsbatallion 1 "Dr. Richard Sorge")。また同じく東ドイツの[[シュタージ|国家保安省]](MfS)は功労章として、「リヒャルト・ゾルゲ・メダル(Dr.-Richard-Sorge-Medaille)」を制定していた。

== GHQの調査 ==
第二次世界大戦後の日本に、[[連合国軍最高司令官総司令部]]の[[参謀第2部]]の責任者として駐在したアメリカ陸軍の[[チャールズ・ウィロビー]]は、ゾルゲ事件に注目し、大掛かりかつ綿密な調査をおこなった<ref>チャールズ・A・ウィロビー『GHQ、知られざる諜報戦 新版 ウィロビー回顧録』[[山川出版社]]、 2011年、p.108</ref>。その中で保釈されたクラウゼンも後を追われ、翌年にソ連からの手助けを受けて日本を離れることになった。

ただし、実際にはクラウゼン夫妻が日本で[[アメリカ陸軍情報部]](MIS)から尋問を受けたことが、21世紀になって公開された[[アメリカ国立公文書記録管理局]]所蔵資料に記録されている<ref>[[加藤哲郎 (政治学者)|加藤哲郎]]『ゾルゲ事件 覆された神話』[[平凡社]]〈[[平凡社新書]]〉、2014年、p.93</ref>。


== 人物 ==
== 人物 ==
[[ファイル:Stamps of Germany (DDR) 1976, MiNr Block 044.jpg|right|thumb|ゾルゲの功績を称えて発行された[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の切手。左下には「ソ連邦英雄」の称号が書かれている。]]
[[ファイル:Stamps of Germany (DDR) 1976, MiNr Block 044.jpg|right|thumb|ゾルゲの功績を称えて発行された[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の切手。左下には「ソ連邦英雄」の称号が書かれている。]]
[[File:Могила_Рихарда_Зорге,_Токио.jpg|thumb|多磨霊園にあるゾルゲの墓。『ソ連邦英雄』とロシア語で刻まれている。]]
*スローガンは「ロシアと中国の革命を擁護せよ。帝国主義戦争を内乱へ転換せしめよ」であった。

[[File:Могила_Рихарда_Зорге,_Токио.jpg|thumb|多磨霊園にあるゾルゲの墓。『ソビエト連邦の英雄』とロシア語で刻まれている。]]
=== 家族 ===
*東京・[[銀座]]の[[ドイツ料理]]店「ケテルス」でウェイトレスをしていた[[石井花子]]と知り合い、同居するなど深い関係をもったものの、正式な結婚はしなかった。しかし死後石井によって建てられ、現在石井とゾルゲが眠る多磨霊園の墓には「妻石井花子」と彫られている<ref name="ishi">[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ishii_h.html 石井花子] - 石井大樹『歴史が眠る多磨霊園』(同名書籍[https://www.amazon.co.jp/歴史が眠る多磨霊園-小村-大樹/dp/4763409069]の著者によるウェブサイト)</ref>。
生涯に2度結婚している<ref name="watabe">[[渡部富哉]]「[http://chikyuza.net/archives/59759 ゾルゲ事件とヴケリッチの真実(2/2)] - ちきゅう座(2016年1月23日。ページ下方の「解説」の箇所を参照)2020年7月4日閲覧</ref>。最初の妻であるクリスティアーネとはドイツ時代に結婚していた{{sfn|三宅正樹|2010|pp=61-62}}。
*オットなどのドイツ大使館上層部やゲシュタポのマイジンガーのみならず、日本の通信社や新聞記者、ギランなどの敵味方両国の特派員とも良好な関係を保ち続け、逮捕までその素性を疑う者は皆無であった。

2度目の妻であるエカテリーナとは1933年に結婚した<ref name="watabe"/>{{refnest|group="注釈"|エカテリーナの旧姓については「マクシモブナ{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=58 - 59}}」「マクシーモワ<ref name="watabe"/>」と日本語で複数の表記がある。}}。エカテリーナは工場労働者だったが、ゾルゲらドイツ人にロシア語を教えていた{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|p=77}}。結婚から数カ月後にゾルゲは諜報活動のため極東に旅立ち、結婚生活は数カ月だった<ref name="watabe"/>。ゾルゲは日本からエカテリーナに手紙を送り、そのうち12通が[[ソ連国家保安委員会|KGB]]に保管されていた{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=73-74}}。エカテリーナはゾルゲの子を宿すも、[[水銀中毒]]により流産する<ref name="watabe"/>。さらに1942年9月にはスパイ容疑で逮捕され、1943年3月に[[クラスノヤルスク]]に流刑となり、同年7月同地で[[脳内出血]]により死去した<ref name="watabe"/>{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=252-254}}。この死去はゾルゲには知らされなかった<ref name="watabe"/>。エカテリーナは取り調べに対して、ゾルゲとの手紙のやりとりは1938年までだったと述べており{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=252-254}}、KGBに残っていた1938年2月のゾルゲの手紙には「必ず帰る」という言葉が綴られていた{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=131-132}}。

来日後に東京・[[銀座]]の[[ドイツ料理]]店「ラインゴールド」でウェイトレスをしていた[[石井花子]]と知り合い、1935年から逮捕直前の1941年まで深い関係を持った<ref>石倉一雄「 [https://www.foodwatch.jp/tertiary_inds/lqrhistory/11826/ スパイ・ゾルゲが愛したカクテル(3)]」 - Food Watch Japan(2011年11月30日、「洋酒文化の歴史的考察」第11回)</ref><ref>石倉一雄「[https://www.foodwatch.jp/tertiary_inds/lqrhistory/11831/ スパイ・ゾルゲが愛したカクテル(8)]」 - Food Watch Japan(2012年1月4日、「洋酒文化の歴史的考察」第16回)</ref>。石井とは正式な結婚はしなかった。しかし死後石井によって建てられ、現在石井とゾルゲが眠る多磨霊園の墓には「妻石井花子」と彫られている<ref name="ishi">[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ishii_h.html 石井花子] - 石井大樹『歴史が眠る多磨霊園』(同名書籍 [https://www.amazon.co.jp/歴史が眠る多磨霊園-小村-大樹/dp/4763409069] の著者によるウェブサイト)</ref>。ゾルゲは日本で雇っていた家政婦には「一度も結婚したことがない」と話しており{{sfn|石井花子|2003|pp=38-39}}、石井もゾルゲは(正式な結婚をしていないという意味で)独身であると考えていた{{sfn|石井花子|2003|p=104}}。

石井のほかにも複数の女性と関係があったとされ<ref name="ishi"/>、その一人(日本人)との間に娘がいたとの情報もあるが真偽は確認されていない<ref name="will"/>。

=== その他 ===
日本滞在中の1938年5月、夜間のオートバイ運転中に交通事故を起こして負傷、[[聖路加国際病院|聖路加病院]]で入院生活を送った{{sfn|石井花子|1995|pp=62-67}}。この負傷により多くの歯を失い、以降総[[義歯|入れ歯状態]]となった{{sfn|石井花子|2003|pp=62-67}}。

石井花子によると、ゾルゲは第一次世界大戦の従軍時に[[大腿骨]]を骨折し、その後遺症で左右で脚の長さが違ったという{{sfn|石井花子|2003|pp=89-90}}。

アヴァス通信社東京支局長で、ヴーケリッチの上司でもあった[[ロベール・ギラン]]は、英仏がドイツに宣戦を布告した直後の1941年9月4日、ゾルゲと偶然遭遇した際にドイツが再びフランスと戦争を始めた憤懣をぶつけたところ、ゾルゲはギランを食事に誘い、その席で戦争を嫌い憎むこと、自らが平和主義者であることを苦悩した姿で述べた{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=1159-161}}<ref>ロベール・ギラン『ゾルゲの時代』三保元訳、中央公論社、1980年、pp.48-52</ref>。ゾルゲをナチス党員だと思っていたギランはそれを意外な思いで聞いたという{{sfn|NHK取材班|下斗米伸夫|1995|pp=1159-161}}。


== 著書・回想 ==
== 著書・回想 ==
* {{Cite book|和書|author=「ゾンテル」名義|translator=不破倫三{{refnest|group="注釈"|[[益田豊彦]]の筆名とされるが、[[風早八十二]]という説もある<ref name="kato">[[加藤哲郎 (政治学者)|加藤哲郎]]「{{PDFlink| [http://netizen.html.xdomain.jp/KATOsorge.pdf ゾルゲ事件の残された謎]}}」(2007年11月、p.7「ゾンテル(ゾルゲ)著『新ドイツ帝国主義』」を参照</ref>。}}|title=新帝国主義論|publisher=叢文閣|date=1929-05-14|id={{NDLJP|10298793}}}}
* [[外務省]]編『ゾルゲの獄中手記』[[山手書房新社]]、1990年9月、ISBN 4841300163
* [[外務省]]編『ゾルゲの獄中手記』山手書房新社、1990年9月、ISBN 4841300163
* 『二つの危機と政治 1930年代の日本と20年代のドイツ』[[勝部元]]ほか訳、[[御茶の水書房]]、1994年11月、ISBN 4275015673
* 『二つの危機と政治 1930年代の日本と20年代のドイツ』勝部元ほか訳、[[御茶の水書房]]、1994年11月、ISBN 4275015673
** 著作目録、略年譜: pp367 - 383/重要参考文献
** 著作目録、略年譜: pp367 - 383/重要参考文献
* 『ゾルゲ事件獄中手記』岩波現代文庫、[[岩波書店]]、2003年5月、ISBN 4006030770
* 『ゾルゲ事件 獄中手記』[[岩波現代文庫]]、[[小尾俊人]] 解題、2003年5月、ISBN 4006030770
* みすず書房編集部編『ゾルゲの見た日本』[[みすず書房]]、2003年6月、ISBN 4622070448
* みすず書房編集部編『ゾルゲの見た日本』[[みすず書房]]、2003年6月、新版2017年、ISBN 4622086336
* アンドレイ・フェシュン編『ゾルゲ・ファイル1941-1945 赤軍情報本部機密文書』
* [[石井花子]]『人間ゾルゲ』新版角川文庫、2003年4月(日本人妻による回顧)
**[[名越健郎]]・名越陽子訳、「新資料が語るゾルゲ事件1」みすず書房、2022年、ISBN 4622095149

;以下は回想
* [[石井花子]]『人間ゾルゲ』[[角川文庫]]、2003年4月<ref group="注釈">新版で、角川版以前に4度刊行されている。詳細は石井の記事を参照。</ref>。のち[[電子書籍]]化
*[[ロベール・ギラン]]『ゾルゲの時代』[[三保元]]訳、[[中央公論社]]、1980年


== 関連作品 ==
== 関連作品 ==
=== 小説 ===
* [[伴野朗]]『ゾルゲの遺言』角川文庫ほか
*モルガン・スポルテス『ゾルゲ 破滅のフーガ』吉田恒雄訳、[[岩波書店]]、2005年。ISBN 4000237101
* [[太田尚樹]]『赤い諜報員 ゾルゲ、尾崎秀実、そしてスメドレー』講談社、2007年
:※研究書については「ゾルゲ事件」の項目を参照。

=== 映画 ===
=== 映画 ===
* 『[[愛は降る星のかなたに]]』([[1956年]]、[[日活]]/監督:[[斎藤武市]]/出演:[[森雅之 (俳優)|森雅之]]、[[山根寿子]]、[[浅丘ルリ子]]、[[ロバート・H・ブース]]
* 『[[愛は降る星のかなたに]]』([[1956年]]、[[日活]]/監督:[[斎藤武市]]/出演:[[森雅之 (俳優)|森雅之]]、[[山根寿子]]、[[浅丘ルリ子]]、ロバート・H・ブース)
* 『[[スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜]]』([[1961年]]、フランス・日本合作/監督:[[イ・シャンピ]]/出演:[[トーマス・ホルツマン]]、[[岸惠子]])
* 『[[スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜]]』([[1961年]]、フランス・日本合作/監督:[[イ・シャンピ]]/出演:[[トーマス・ホルツマン]]、[[岸惠子]])
* 『[[スパイ・ゾルゲ]]』([[2003年]]、日本/監督:[[篠田正浩]]/出演:[[イアン・グレン]]、[[本木雅弘]])
* 『[[スパイ・ゾルゲ]]』([[2003年]]、日本/監督:[[篠田正浩]]/出演:[[イアン・グレン]]、[[本木雅弘]])

=== テレビドラマ ===
* 『[[山河燃ゆ]]』(NHK[[大河ドラマ]]、1984年放送 出演:ロジャー・アレン)
* 『{{仮リンク|スパイを愛した女たち リヒャルト・ゾルゲ|ru|Зорге (телесериал)}}』(ロシアのテレビドラマ、2017年撮影、2019年放映 出演:[[アレクサンドル・ドモガロフ]]、[[中丸シオン]])
** 日本では2023年に映画で公開<ref>{{Cite news|url=https://realsound.jp/movie/2022/10/post-1157738.html |title=20世紀最大のスパイの半生を描く 『スパイを愛した女たち リヒャルト・ゾルゲ』公開決定|newspaper=リアルサウンド 映画部|date=2022-10-20|accessdate=2023-01-02}}</ref>。


=== ドキュメンタリー ===
=== ドキュメンタリー ===
* 『[[NHK特集]]「戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」』([[1979]]、[[日本放送協会|NHK]]製作)
* 『[[NHK特集]]「戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」』(1979年、[[日本放送協会|NHK]]製作)、担当者は[[中田整一]]
* 『歴史への招待 ゾルゲ国際諜報団逮捕 昭和16年』([[1981]]、NHK製作)
* 『[[歴史への招待]] ゾルゲ国際諜報団逮捕 昭和16年』<ref>「NHK 歴史への招待23 昭和編」日本放送出版協会、1982年)で書籍化</ref>(1981年、NHK製作)
* {{NHK放送史|D0009010631_00000|『プライム10 現代史スクープドキュメント 国際スパイ・ゾルゲ 秘密指令御前会議の決定を探れ』}}(1991年10月、NHK製作)
* 『NHK特集「ゾルゲ事件」』([[1990年]]、NHK製作)
* 『[[NHKスペシャル]]国際スパイゾルゲ([[1991]]NHK製作下記の書籍も刊行
::前・後編で放送、[[山崎努]]がゾルゲ役で朗読。後に『国際スパイ ゾルゲの真実(1992年、角川書店刊行
* 『[[ETV特集]] 私のゾルゲ事件』全2回(1998年、NHK製作)
*[https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010631_00000 『プライム10 現代史スクープドキュメント 国際スパイ・ゾルゲ』(1991年 NHK製作)-NHK名作選(動画・静止画)NHKアーカイブス]
* 『[[その時歴史が動いた]]』「ゾルゲ・最後の暗号電報・新資料が明かす国際スパイ事件の真相」(2003年、NHK製作)
* 『[[その時歴史が動いた]]』「ゾルゲ・最後の暗号電報・新資料が明かす国際スパイ事件の真相」(2003年、NHK製作)
* 『KGB シークレット・ファイルズ:スパイ・ゾルゲ 裏切りの特派員』(2005年、ロシア国営テレビ)
** コミックス版、『昭和史 戦争への道編』(ISBN 9784834273847, 発売日:[[2007年]]6月)収録「スパイ・ゾルゲ(画:[[虎影誠]])」
* 『わが心の「スパイ・ゾルゲ」 妻・岩下志麻が見た 監督・篠田正浩』(2003年、[[アスミック・エース|アスミック]])
* 『わが心の「スパイ・ゾルゲ」 妻・[[岩下志麻]]が見た 監督・篠田正浩』(2003年、[[アスミック・エース|アスミック]])


=== コミックス ===
=== コミックス ===
* [[手塚治虫]]『[[アドルフに告ぐ]]』文庫版4巻収録 第21章 - 第25章([[1985年]])
* [[手塚治虫]]『[[アドルフに告ぐ]]』4巻第21章 - 第25章([[文藝春秋]]、1985年
*「スパイ・ゾルゲ:最後の暗号電報」虎影誠画 - 『その時歴史が動いた コミックス版 昭和史 戦争への道編』(集英社、2007年6月)収録、ISBN 9784834273847


=== 小説 ===
== 注釈 ==
{{reflist|group="注釈"}}
* [[伴野朗]]『ゾルゲの遺言』
* [[モルガン・スポルテス]]著、[[吉田恒雄]]訳、『ゾルゲ 破滅のフーガ』、[[岩波書店]]、2005年、ISBN 4-000-23710-1


== 参考文献 ==
== 出典 ==
*[[海野弘]]『スパイの世界史』
*[[クルト・ジンガー]]『スパイ戦秘録』[[国際新興社]]、1953 年
*みすず書房編集部編『現代史資料 ゾルゲ事件(全3巻)』、[[みすず書房]]、1962年
*[[手嶋龍一]]・[[佐藤優 (作家)|佐藤優]]『インテリジェンス 武器なき戦争』[[幻冬舎]]新書、ISBN 978-4344980112

※研究書については「ゾルゲ事件」の項目を参照。

== 脚注 ==
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== 注釈 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書 |author1=NHK取材班|author2=下斗米伸夫|authorlink2 =下斗米伸夫 |year=1995 |title=国際スパイ ゾルゲの真実 |publisher=[[角川書店]]|series=[[角川文庫]] |isbn=4-04-195401-0 |ref=harv}}
{{reflist|group="注釈"}}
*{{Cite book|和書 |author=三宅正樹|authorlink=三宅正樹 |year=2010 |title=スターリンの対日情報工作 |publisher=[[平凡社]]|series=[[平凡社新書]] |isbn=978-4-582-85540-1 |ref=harv}}
*[[海野弘]]『スパイの世界史』[[文藝春秋]]、2003年([[文春文庫]]、2007年)
*クルト・ジンガー『スパイ戦秘録』北岡一郎訳、国際新興社、1953年
*みすず書房編集部(編)『現代史資料 ゾルゲ事件(全4巻)』、[[みすず書房]]、1962年(1 - 3巻)、1971年(4巻)
*{{Cite book|和書 |author1=手嶋龍一|author2=佐藤優|authorlink1=手嶋龍一 |authorlink2 =佐藤優 (作家) |year=2006 |title=インテリジェンス 武器なき戦争 |publisher=[[幻冬舎]]|series=[[幻冬舎新書]] |isbn=978-4344980112 |ref=harv}}
*{{Cite book|和書 |author=エルヴィン・ヴィッケルト|others=佐藤真知子訳|year=1998 |title=戦時下のドイツ大使館―ある駐日外交官の証言 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |isbn=978-4120027451 |ref=harv}}
*{{Cite book|和書 |author=石井花子|authorlink=石井花子 |year=2003 |title=人間ゾルゲ |publisher=[[角川書店]]|series=[[角川文庫]] |ref=harv}}
*{{Cite book|和書 |author=レオポルド・トレッペル|authorlink=レオポルド・トレッペル|title=ヒトラーが恐れた男|year=1978 |others=堀内一郎訳|publisher=[[三笠書房]]|asin=B01I5H7U4I |ref=harv}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{commons&cat}}
* [[日中戦争]]
* [[対日有害活動]]
* [[対日有害活動]]
** [[ヤン・ベルジン]] - ゾルゲ採用時の労農赤軍参謀本部第4局長。同時期、[[赤いオーケストラ]]を組織するなど、大規模なスパイネットワークを構築。1937年に逮捕、翌年銃殺。
** [[ボリス・グジ]] - 対日諜報を専門。1937年までゾルゲ・グループを監督。1937年に失脚。
** [[ボリス・グジ]] - 対日諜報を専門。1937年までゾルゲ・グループを監督。1937年に失脚。
* [[ニコライ・ブハーリン]] - ゾルゲが信奉・心酔していたソビエト共産党幹部(穏健派・戦時体制緩和主張)。ゾルゲ日本任地中に粛清・処刑。
* [[ニコライ・ブハーリン]] - ゾルゲが信奉・心酔していたソビエト共産党幹部(穏健派・戦時体制緩和主張)。ゾルゲ日本任地中に粛清・処刑。
* [[真珠湾攻撃陰謀説]] - ゾルゲが日本の真珠湾攻撃の情報を入手し、ソ連本国に送っていたとする説がある。ただし、現在までにゾルゲ研究者による本説支持を前提とする見解はない。
* [[真珠湾攻撃陰謀説]] - ゾルゲが日本の真珠湾攻撃の情報を入手し、ソ連本国に送っていたとする説がある。ただし、現在までにゾルゲ研究者による本説支持を前提とする見解はない。
* [[ホテル・ルックス]]
* [[ホテル・ルックス]]
* [[アルブレヒト・フォン・ウラッハ]] - 東京滞在時にゾルゲと親交があった。

== 外部リンク ==
{{Scholia}}
*{{kotobank|ゾルゲ(Richard Sorge)}}
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*{{kotobank|リヒアルド ゾルゲ}}


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[[Category:バクー県出身の人物]]
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[[Category:1944年没]]
[[Category:1944年没]]

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リヒャルト・ゾルゲ
Richard Sorge
Рихард Зорге
生誕 (1895-10-04) 1895年10月4日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国バクー県バクー郡サブンチ
死没 (1944-11-07) 1944年11月7日(49歳没)
日本の旗 日本東京都豊島区西巣鴨、東京拘置所
死因 刑死
墓地 日本の旗 日本東京都多磨霊園
国籍 ドイツ
別名 ラムゼイ、インソン
民族 ロシア系ドイツ人
出身校 ハンブルク大学
職業 ジャーナリスト諜報員
活動期間 1924年 - 1941年
雇用者 労農赤軍参謀本部第4局
団体 ゾルゲ諜報団
肩書きフランクフルター・ツァイトゥング』東京特派員[注釈 1]
駐日ドイツ大使館情報官
政党 国家社会主義ドイツ労働者党
ソビエト連邦共産党
罪名 国防保安法など
刑罰 死刑
配偶者 クリスティアーネ・ゾルゲ
エカテリーナ・ゾルゲ
非婚配偶者 石井花子
親戚 フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲ英語版(大叔父)
受賞 ソビエト連邦英雄
レーニン勲章
二級鉄十字章
テンプレートを表示

リヒャルト・ゾルゲドイツ語: Richard Sorge, ロシア語: Рихард Зорге, 1895年10月4日 - 1944年11月7日)は、ソビエト連邦スパイ1933年昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動をおこない、ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事していたが、ゾルゲ事件首謀者として日本の警察機関によって逮捕され、刑事裁判で治安維持法および国防保安法違反により死刑判決を受け、処刑された。

生涯

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生い立ち

[編集]

石油会社に勤めコーカサスで仕事をしていたドイツ人鉱山技師のヴィルヘルムとロシア人ニーナとの間に9人兄弟の1人として、ロシア帝国バクー県サブンチで生まれる。ヴィルヘルムは石油精製の知見を買われて招かれ、採掘機械工場を設立してこの地でニーナと結婚した[1][注釈 2]

父方の大叔父フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲFriedrich Adolf Sorge)はカール・マルクスの秘書であり、ハーグ大会後の第一インターナショナルニューヨーク本部の書記長であった。

3歳の時に父は工場を売却して、ゾルゲを含めた家族とともにベルリンに移住した[2]。ベルリンのリリエンタールギムナジウムドイツ語版(当時の名称はオーバーレアルシューレ)に1902年から1914年まで在籍し、途中1年の留年を経験している[2][3]。自身の「獄中手記」では、歴史や哲学、文学、政治学は得意だったが、他の教科は「通常以下」で、学校の規則を守らずめったに口をきかない生徒だったと記している[2][3]

スパイになるまで

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1914年10月に第一次世界大戦が勃発すると、学校の卒業を待たずにゾルゲはドイツ陸軍に志願した[3]。軍役中にゾルゲは3度負傷する[2][3]。1916年3月に西部戦線で両足に重傷を負う。この負傷は重く、野戦病院に入院(その後除隊)することとなった[4][3]。入院していた時にキール大学社会学を専攻する従軍看護婦から社会主義理論を聞かされる。向学心が芽生えたゾルゲに対し、この看護婦とその父親は、社会主義、革命、美術史、歴史などゾルゲが関心を示した分野に文献の提供を惜しまなかった[3]

1917年11月にロシア革命が起こり、ゾルゲは衝撃を受ける。第一次世界大戦の終戦前からベルリン大学で哲学書を読み、1918年1月に正式に軍を除隊になるとキール大学に入学した[3]。キール大学時代にドイツ独立社会民主党に入党する[3]

1919年にハンブルク大学に移る[3]。同年10月にドイツ共産党に入党する[5][6]。1920年に国家学の博士号を取得した[6]。論文のテーマは賃金問題だったという[7]

その後、アーヘンの高等学校で教員となるも、1921年末には政治論争をおこなったことから解職される[6]。炭鉱作業員に転じて、職場に共産主義組織を立ち上げる[6]。しかしアーヘンでの就職が困難となり、フランクフルト・アム・マインに移ってフランクフルト大学社会学部助手となった[6]。1922年にイルメナウで開かれた第1回マルクス主義研究集会に参加し、記念の集合写真では留学中だった福本和夫と一緒に写っている[6][8]

1924年4月にフランクフルト・アム・マインで開催されたドイツ共産党大会に参加した際、ソ連から派遣されたコミンテルン幹部であるオシップ・ピアトニツキードミトリー・マヌイリスキーソロモン・ロゾフスキーオットー・クーシネン[注釈 3] の警護と接待を担当した[9][10]。彼らは親しくなったゾルゲにコミンテルンでの勤務を勧誘した[9][10]。ゾルゲは同年末にモスクワに移り、1925年からコミンテルンに所属した[7][9]。コミンテルン勤務とともに、ピアトニツキーによりゾルゲの党籍はソビエト連邦共産党に変更された[9]

コミンテルンでは各国の党から送られてくる情報などを基にした報告・分析活動が中心であった[7][9]。ヨーロッパの現地視察をおこなったほか、作成した報告を書籍として刊行もしている[7][9]

1929年5月、ゾルゲはコミンテルンを離れ、軍事諜報部門である労農赤軍参謀本部第4局に所属を変更した[11][12]。この所属変更の理由として、ゾルゲ自身は日本の検察の訊問調書において、コミンテルンでは諜報活動ができないこと、世界革命の見通しが裏切られたこと、ソ連における一国社会主義路線への転換を挙げている[11]ヨシフ・スターリンの政権掌握後、コミンテルンはセクト主義に傾斜し、それに反対する人員は組織を追われたが、ゾルゲもその一人だったという指摘がある[12]

上海でスパイ活動開始

[編集]
尾崎秀実

赤軍に移ったゾルゲは、上司のヤン・ベルジンとの話し合いにより、中華民国上海に赴くことになる[13][14]。その使命は、蔣介石政権に派遣されていたドイツの軍事顧問団の情報収集のほか、中華民国の内政外交や中華民国に対する日本・イギリスアメリカ合衆国の外交政策など調査対象は多岐にわたっていた[14][15]。1929年末にモスクワを発ち、1930年より1932年まで上海で諜報活動をしながら自分に協力するグループを築いた[14]

なおこの頃「ラムゼイ」というコードネームを与えられている[注釈 4]

半年程度で現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つに至った。活動は漢口南京広東北京、そして1932年満州国として独立することとなる満州地方などを中心にして行われている。ゾルゲ自身も各地を巡り、中華民国および日本の政治、歴史、文化に関する書物を読み、両国の言葉も学習し、アジア問題に通じるようになった。上海におけるゾルゲ諜報団の日本人は、尾崎秀実鬼頭銀一川合貞吉水野成山上正義船越寿雄であった[17]

上海では、仕事を通じて当時中国共産党毛沢東に同行取材するなど活躍していたアメリカ人左翼ジャーナリストのアグネス・スメドレーと知り合う。スメドレーはゾルゲが中華民国を去るまで彼のスパイ組織の一人として活動した。朝日新聞記者だった尾崎秀実とは、アメリカ共産党から派遣された鬼頭銀一から紹介を受けて知り合った[14][注釈 5]。水野成をゾルゲに紹介したのも、尾崎ではなく鬼頭である[17]。ゾルゲは、ドイツの軍事顧問団長のハンス・フォン・ゼークト蔣介石から軍事情報を入手し、蒋介石軍の飛行機を爆破し、武器を略取するなど、中国共産党を支援した[17]。また、オットー・ブラウンゲアハルト・アイスラードイツ語版ら、コミンテルンから中国共産党に派遣されたドイツ人顧問とも接点を持った[18]。のちに核兵器情報をソ連にもたらしたことで知られる、ウルスラ・クチンスキーはゾルゲの助手かつ愛人であった[要出典]

ゾルゲは1932年1月には日中両軍が衝突した第一次上海事変を報道した。同年12月にモスクワに戻る。

上海共同租界の工部局イギリス警察は1932年1月頃から、ゾルゲをソ連のスパイではないかと疑い始め、その後捜査を進めた結果、1933年5月にゾルゲをソ連のスパイとほぼ断定した[17]

日本でのスパイ活動

[編集]
ゾルゲの外国通信員身分証明票
マックス・クラウゼン

1933年、次にゾルゲに出された指示は日本での活動だった[19]。その主な内容は日本の対ソ政策や軍備の動向、日独関係(ナチスが政権を握ったのはこの年1月だった)や日本の対中国政策などの調査だった[20]。ゾルゲはまずドイツに赴いてからアメリカ経由で日本に向かった[19][21]。ドイツでゾルゲは地政学者のカール・ハウスホーファーらから駐日ドイツ大使館員への紹介状を得る[19]。職業をジャーナリストとしたドイツのパスポートも入手した[19]

来日前に『フランクフルター・ツァイトゥング』の特派員となったという記述もあるが[19]、1941年の逮捕後に当時の日本支局代表者がドイツ外務省に出した書簡では、ゾルゲと正式な特派員契約を交わしたことはなく、ゾルゲを寄稿者として利用するようになったのも1936年2月にゾルゲからベルリンの本社に宛てた売り込みの手紙を受け取ってからであるとしている[22]。1933年9月6日にゾルゲはバンクーバー発のカナダ客船で横浜港に到着し、日本での活動を開始する[19]

ゾルゲは寄稿記者ながらジャーナリストとして駐日ドイツ大使館で信頼を得ていった[23]。来日間もない1933年秋に東京からナチスに入党申請し、1934年10月に正式なナチス党員となった[23]

日本におけるドイツ人社会で、日本通かつナチス党員として知られるようになっていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付陸軍武官補オイゲン・オットの信頼を得た。彼は来日前に『テークリッヘ・ルントシャウ』紙論説委員であるツェラーの紹介状を入手していた[24]。政治的逃避のため日本に派遣されることになった当時のオット中佐は日本に関する知識がほとんどなく、そのため日本の政治などに関して豊富な知識とコネクションを持ったゾルゲとの出会いを喜んだ。

一方、ゾルゲよりも先に来日していたユーゴスラビア人のブランコ・ド・ヴーケリッチ(当初はユーゴスラビアの新聞『ポリティカ』特派員、1935年にフランスアヴァス通信社東京支局に移籍)、ゾルゲより少し遅れて帰国したアメリカ共産党員の洋画家宮城与徳と接触を持って諜報団のメンバーとした[25]。ソ連との交信のための無線通信士としてブルーノ・ヴェントという人物があてがわれたが、ゾルゲはその能力や性格に問題があると判断し、上海でもともに活動したドイツ人無線技士のマックス・クラウゼンの派遣を要請、クラウゼンは1935年12月に来日した[26][注釈 6]

だが、ゾルゲは日本の政府や軍の最高レベルでの決定事項を探ることのできる人材を欠いていた(ヴーケリッチや宮城は諜報活動に未熟で人脈もなかった)[27]。そこでゾルゲは、当時大阪朝日新聞に勤務していた尾崎秀実をその任に充てることとし、1934年春に奈良猿沢池で尾崎と再会、尾崎はゾルゲの依頼を受け入れた[27]。尾崎は1934年秋に朝日新聞社の東亜問題調査会勤務となり、東京に転勤する[28]

こうしてゾルゲは少しずつ諜報網と情報源を築いていったが、来日から1935年までは「積極的な活動をするための土台を作るのに精いっぱい」であり、「任務を遂行するどころの話ではな」かったと後の手記に記している[29]

クラウゼン・尾崎以外のメンバーの役割は、ヴーケリッチは同盟通信社や外国通信各社[注釈 7] での検閲前のニュース収集と、集めた資料の写真撮影(マイクロフィルムに焼いた)、宮城は日本人協力者からの情報収集、資料の英訳、および尾崎とゾルゲの連絡だった[30]。集まった資料の分析と報告はゾルゲ一人が担い、短いものはクラウゼンが自作した無線機による無線通信、長文の報告書はマイクロフィルムにして駐日ソ連大使館クーリエに託された[30]。無線通信の場合は、文章を数字に置換の上、1935年版『ドイツ統計年鑑』を乱数表としてさらに加工した暗号が使用された[30]。日本の官憲は、怪しい無線電波が送信されていることを把握していたが[注釈 8]、クラウゼンが複数の拠点を転々としながら送信したために発信元を特定できず、また暗号も解読できなかった[31][32][33]

ゾルゲは1935年7月から9月まで、モスクワに戻った[34]。これがゾルゲにとって最後の帰国となる。その後、ゾルゲがソ連への帰任を希望した電報が複数残されている(1939年1月20日付、同6月4日付)[35][36]。しかし代わりの人員がいないという理由でゾルゲの希望は認められなかった[36]。その一方、ソ連本国では上司だったベルジンらが粛清され、「帰れば粛清される」ことをゾルゲは察してもいた[37]。同時期に日本で諜報活動を行っていたアイノ・クーシネンの回想では、1937年11月にゾルゲから彼女にソ連への帰国命令を伝えられた際に、ゾルゲは自分にも命令が出ているが組織維持のため今は帰れないと伝えるよう頼んだという[37][注釈 9]

1936年二・二六事件の際にはドイツ大使館内にいたことが、大使館と戒厳司令部の連絡将校として館内に出入りしていた馬奈木敬信によって戦後証言されている[38]。ゾルゲはこの事件を日本の対外政策と内部構成を理解する好機ととらえた。オットや大使ヘルベルト・フォン・ディルクセンドイツ語版にも協力を求めて情報収集に努め、事件を分析した報告書をドイツ外務省や所属先である赤軍第四本部、ドイツの雑誌に送っている(ドイツ外務省と雑誌では匿名)。これを契機に大使館側のゾルゲに対する信頼は向上した。なおドイツの雑誌に掲載された論文は、カール・ラデックがゾルゲの筆とは知らずに評価してソ連の新聞に転載した。ゾルゲはこれに抗議し、以後はこうした事態は避けられた。

馬奈木は陸軍の「ドイツ通」とされ、やはりドイツへの駐在経験のある山県有光西郷従吾武藤章らとともに、ゾルゲから手記で「陸軍省の情報源」として名を挙げられている[39]。松崎昭一は、日中戦争の状況打開を狙ってドイツとの関係強化を図る陸軍側が、ドイツ大使館を通じて(ギブアンドテイクの形で)情報をゾルゲに与えていたのではないかと指摘している[40]

1936年11月にオットの補佐官として駐在武官のショル中佐が着任、第一次世界大戦で同じ戦闘に参加したこともあり、ゾルゲはショルとも親交を深めた[41]。日中戦争(支那事変)が1937年に勃発すると、駐日ドイツ大使館ではオット(1938年4月に大使就任)がショル、ゾルゲとの3人で「支那事変に関する日本軍」という調査研究を始め、これにより収集された資料をゾルゲは撮影してソ連本国に送った[42]

一見順調な諜報活動だったが、ショルは1939年の始めに離任し[41]、前記の研究会も不活発になった[43]。ゾルゲは同年6月に送った報告で、「活動をつづける上での障害の増大」を訴え、その理由として駐日ドイツ大使館の増員によって新たな関係を作ることが困難になったこと、古くから残っている人物がオットのみとなった上にオットが大使に就任したことで個人的に面談・討議できる機会が激減したことを挙げている[44]。ゾルゲは後の手記において、日本の軍事情報に関しては1939年 - 1940年頃を境に駐日ドイツ大使館よりも尾崎や宮城が収集してくる情報の方が価値が高くなったと記している[43]。尾崎は1938年7月には第1次近衛内閣嘱託となる(1939年1月まで)とともに、近衛文麿のブレーンによる朝飯会のメンバーにも加えられていた[45]

日独の接近は、それが対ソ軍事同盟につながるのではないかという点で、ソ連の重大な関心事となった[46]。1939年前半にゾルゲはこの動きに関する情報を複数本国に送り、イギリスとの関係悪化を避けたい日本が同盟締結に消極的で、ドイツも対英戦を対ソ戦より優先していると分析した[47]。この後ソ連は同年8月に独ソ不可侵条約を締結、9月にドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発する[46]

ヨーロッパで戦争が始まるとオットはゾルゲを大使館情報官に任命し、ゾルゲはドイツ大使館の公的な立場を手に入れた。ゾルゲはドイツ大使館と彼の諜報網の両方から日本の戦争継続能力、軍事計画などを入手できる立場となり、1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟後にはより多くの情報が得られるようになった。

ゾルゲへの疑い

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一方、長い活動の間にゾルゲに対して行動や前歴を不審と感じる向きが出ていた。ヴァルター・シェレンベルク(当時国家保安本部海外情報部長)の回想『秘密機関長の手記』によると、シェレンベルクはドイツ通信社の総裁からゾルゲの調査を依頼された[48]。その理由は、総裁がナチス党方面からゾルゲの「不可解な」政治的前歴の情報を伝えられたことだった[48]

シェレンベルクは、ゾルゲを共産主義者とは裏付けられなかったが不審な印象を拭えず、保安警察長官のラインハルト・ハイドリヒの意向で、駐日大使館付警察武官として1941年5月に赴任することになった国家保安本部ヨーゼフ・マイジンガーにゾルゲを監視する任務を与えた[48]。しかしゾルゲはマイジンガーと酒席も通じて交友を結び、隙を見せなかった[49]

独ソ戦に関する諜報活動

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1940年12月29日にゾルゲが送った報告では、ドイツが東部国境に80個師団を配備しているというドイツ軍人からの情報を伝え、ドイツ軍がハリコフ・モスクワ・レニングラードの線に沿って領土占領が可能だと記した[50]。だが、この情報はソ連本国では疑問視された[50]

5月に入るとゾルゲはドイツの対ソ開戦の兆候があるという連絡を複数送り、さらにタイ王国への赴任の途中東京に立ち寄ったショル中佐から、「6月15日にドイツが対ソ開戦する」と伝えられ、6月1日付で送信した[51][注釈 10]。しかし、この通信に対してもソ連では「疑わしい、挑発のための電報のリストに入れるよう」という書き込みがなされ、6月20日付で送った「オットが対ソ開戦不可避と述べた」という通信に対しても重要情報として扱われた形跡はない[51]ソ連侵攻作戦が開始されると、ソ連赤軍は緒戦で大敗した[51]

他のスパイの情報やイギリスからの通報も独ソ開戦を補強していたにもかかわらず、スターリンはこれらを無視した[52]。その理由については、諜報機関の情報自体への不信、イギリスによる独ソ離間策という疑念、独露混血であるゾルゲに対する二重スパイ疑惑、赤軍への悪感情等が挙げられている[52][53][注釈 11]。また、ソ連本国でゾルゲの通信の翻訳を担当したシロトキンには「日本のスパイ」という疑惑がかけられており、ゾルゲが所属した労農赤軍参謀本部第4局のコルガノフ少将は「シロトキンとゾルゲはスパイ」とする報告書を同年8月11日付で記していた[53]

独ソ開戦後、ソ連からゾルゲには、改めて日本政府の対ソ政策やソ連国境への軍隊の移動について情報を探る指示が出された[16]。日本の対ソ開戦を恐れたためだった[55]。外務大臣の松岡洋右日ソ中立条約を破棄しても対ソ開戦すべきと主張したことはゾルゲにも伝わったが、ゾルゲは日本の関心は南方だとしてこれを疑問視した[56]。日本政府や軍部の多くは、ソ連への侵攻には消極的ではあったものの、まだ流動的であった[57]

諜報団は諜報活動以外の宣伝や謀略を禁じられていたが、ゾルゲはドイツ大使館で日本の対ソ開戦は期待できないという意見を説いて回り、尾崎は「朝飯会」でソ連は崩壊せず日本がソ連に開戦するのは無意味だと主張した[58][59]。もっともこれらの効果については両人とも限定的なものだったと後の訊問調書で述べている[58][59]

7月2日の御前会議決定(情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱)では、南進[注釈 12] を主眼としつつ、独ソ戦の形勢が日本に有利になれば参戦できるよう準備をする[注釈 13] という「両構え」の方針となる[60]。ゾルゲはオットと尾崎の両方からこの決定を入手する[61][62]。尾崎は、日本軍の矛先が南北いずれに向かうのかを政権中枢に近い筋から探った(西園寺公一田中慎次郎が主な情報源だった)[62]。ゾルゲは、対ソ戦準備を重視するオットの見解ではなく、南進が主眼だとする尾崎の分析を採用して、7月10日に本国に送った[61][62]

さらに、8月以降、日本の対ソ開戦の可能性が低下したことがオットや尾崎の情報によって確認され、ゾルゲは9月14日に送った報告で「オット大使の意見によると、日本の対ソビエト攻撃は今ではもはや問題外であり、日本が攻撃可能なのは、ソビエトが極東から軍隊を大規模に移動させた場合にだけだろう」と記した[63][64]。このゾルゲの情報に加え、内務人民委員部(NKVD)のセルゲイ・トルストイらによる日本の外交暗号電報(パープル暗号)の傍受解読情報、さらに日本政府内の協力者「エコノミスト」(コードネーム)の情報によって日本の対ソ開戦が低いことを確認したソ連は、ソ満国境に配備された部隊の一部を抽出してヨーロッパ方面へ移動させ、モスクワ前面の攻防戦でドイツ軍を押し返すことに成功した[65][64][注釈 14]

1941年10月4日付の最後の諜報報告[65][66]に対し、ソ連本国からは「皆さんの実りある仕事に感謝する。あなたとあなたのグループの東京での協力は円満に終ったものと考える」との返信がなされた[65]

逮捕と処刑

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特別高等警察(特高)はアメリカ共産党員である宮城やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリカ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。満州の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の『特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている[17]

前出のマイジンガーは、密かに内偵していた憲兵隊に「信頼できる人物である」と身分保証してゾルゲに対する尾行を中止するように依頼している[32][33]。マイジンガーからゾルゲの調査依頼を受けた警視庁特高部外事課も1941年夏にゾルゲを内偵したが、怪しい点を見つけることはできなかった[48]

これらにかかわらず、特高は外国の新聞の特派員に対する通常の任務の一環として、その後もゾルゲに対する尾行や調査を続け、これがゾルゲ事件の摘発につながることとなる[67]

1941年9月27日[注釈 15] の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕された[注釈 16]。北林の供述から10月10日に宮城が、10月中旬に尾崎が逮捕される(ゾルゲ事件[注釈 17]

ゾルゲは宮城や尾崎と連絡が取れなくなったことに不安を抱き、10月17日の夜、自宅にクラウゼンとヴーケリッチが集まった際にもそれを口にした[70]。ヴーケリッチの訊問調書によるとこの夜ゾルゲとクラウゼンはドイツに帰国する意思を示し、ゾルゲは本国にその可否を本国の本部に尋ねる電文の原稿も作成していた[70]。だが、翌10月18日朝にゾルゲは自宅で特高外事課と検察によって逮捕された[71]。ヴーケリッチとクラウゼンも同日逮捕されている[71]

これに対し、ゾルゲをナチス党員の記者だと信じ込んでいたオット大使やマイジンガーなどが外務省に対して正式に抗議をおこなったほか、ナチス党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した[72]。さらにマイジンガーは、ゾルゲの逮捕後にベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している[73]

逮捕されたゾルゲは当初特高外事課の警部補だった大橋秀雄によって取り調べを受けた[74]。ゾルゲは当初は容疑を否認し、ナチス党員・大使館嘱託で新聞記者であると主張して、検挙が日独関係を害すると訴えた[74]。だが、大橋が逮捕後の家宅捜索で押収したソ連への離日申請原稿や、クラウゼンの自供で発見された通信機の存在をゾルゲに告げると、ゾルゲは自らが「単なる新聞記者ではない」ことを自供した[74]。翌日(逮捕から一週間後の10月25日)、ゾルゲは大橋や検事の吉河光貞に対して自分がスパイであるとついに白状し「今までどこにも負けなかったけれど、今度はじめて日本の警察に負けた」と付け加えた[74]

オット大使の命を受けて外務省と折衝した大使館員のエーリヒ・コルトドイツ語版は、「ゾルゲはソ連のスパイ」と知らされ、オットとコルトは巣鴨拘置所の所長室でゾルゲに面会する[74]。その際ゾルゲはオットに「私はあなたにさよならを言います。奥さんやお嬢さんによろしく」とだけ述べ、沈黙したオットを残してゾルゲは退出した[74]

ゾルゲは警察や検察の取り調べに対して自らの所属を明確にせず、訊問調書には「モスコウ中央部」(文献によっては「モスコーセンター」)と記されている[75][76]。これについて取り調べを担当した大橋秀雄は「『国際共産党のために働いた』と言わせる目的で、ゾルゲと相談して作った架空の組織である」と戦後に証言している[75]。日本側には治安維持法で検挙するという事情があった[75][注釈 18]。ところがゾルゲは公判段階に入ると労農赤軍に所属していたことを認め、「モスコウ中央部」としたのは自らの策略と述べ、その理由として憲兵への引き渡しの回避、ソ連における複雑な組織が理解されづらいと考えたことなどを挙げている[76][注釈 19]

ゾルゲら20名は1942年国防保安法、治安維持法違反などにより起訴され、一審によって刑が確定し、ゾルゲの死刑判決が下された。同じく死刑が決まった尾崎とともに巣鴨拘置所に拘留され、1944年11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所で死刑が執行された。ゾルゲの死刑執行に立ち会った市島成一東京拘置所所長[注釈 20] は、「ゾルゲは死刑執行の前に、『世界の共産党万歳』と一言、そういって刑に服した。従容としておりました」と証言している[77]

処刑後のゾルゲの遺体は、引き取り手がない無縁仏として、巣鴨拘置所に近い雑司が谷霊園の共同墓地に埋葬された[78]。戦後、ゾルゲの処刑と埋葬を知った石井花子(詳細は後述)の奔走により1949年11月16日にゾルゲの遺体(白骨化していた)は発掘されて火葬され、約1年後の1950年11月8日に石井の手により東京都郊外の多磨霊園に埋葬された[79]。当初は墓碑がなく、「尾崎・ゾルゲ事件犠牲者救援会」と石井花子の手により墓碑が建立されたのは、1956年11月である[80]

ソ連邦英雄

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ゾルゲを顕彰したソ連の切手(1965年)
来日したショイグ国防相ロシア連邦軍 将官による墓参

ゾルゲは日本の警察に対してソ連のスパイであることを自白してしまったものの、当時日本との間で日ソ中立条約を結んでいたソ連政府は、日本との関係の悪化を恐れたこと、ゾルゲの上司だったヤン・ベルジン大粛清によって1938年に処刑されていたこと、ドイツとの二重スパイを疑ったことからゾルゲが自国のスパイであることを否定した。日本側からゾルゲと日本の将官との交換釈放を持ちかけられた際にGRUのイリショフ大将が無視したという指摘がある[81]

このときに陸軍次官であった富永恭次によれば、日本側はゾルゲと日本人捕虜の交換を何度もソ連大使館に要求しているが、ソ連側はその都度「リヒャルト・ゾルゲという人物は知らない」と回答しゾルゲを見捨てたとされる[82]。富永は、大使館付の武官補佐官として、ヨーロッパ方面にいる白系ロシア人支援のためフランスに派遣されたり、関東軍の参謀時代にも対ロシア諜報や謀略に携わり、参謀本部の作戦部長のときには対ソ連攻撃計画関東軍特別演習にも深く関与するなど、対ソビエト連邦への謀略の最前線にいることが多かったため、戦後に満州で捕虜となると6年もの長きに渡って尋問を受けていたが[83]、モスクワ近郊の『ダーチャ』と呼ばれていた監獄で一緒に尋問を受けていたソ連のスパイ組織「赤いオーケストラ」のレオポルド・トレッペルにゾルゲの話をしている。トレッペルは富永の話を聞くと、足手まといとなるゾルゲを助けるよりは、そのまま処刑された方がいいという判断をソ連中央が下し、その判断は自分たち「赤いオーケストラ」やヤン・ベルジンと同じように、ゾルゲが二重スパイだという嫌疑をかけられていたからであったと推測している[82]。このように、いわば見殺しにされる形で見捨てられ、戦後もソ連の諜報史からゾルゲの存在は消し去られていた。

1961年、映画『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』が日仏合作で作成され、スターリン批判をおこなった指導者のニキータ・フルシチョフの判断でモスクワで封切りされたのをきっかけに再評価される[84][85]。フルシチョフはゾルゲの資料を収集する指示を出し、情報総局に設置された委員会によって文書やオーラルヒストリーの調査がおこなわれた[85]1964年9月5日、ソ連共産党機関紙プラウダに初めてゾルゲの記事が掲載される[85][86]。同年11月5日にゾルゲに「ソ連邦英雄」の称号が贈られた[85][注釈 21]。ゾルゲの生まれたバクーの町にゾルゲの銅像が建つなど顕彰が進んだ[84]

以後、ゾルゲは「ソ連と日独の戦争を防ぐために尽くした英雄」として尊敬され、ソ連の駐日特命全権大使が日本へ赴任した際には多磨霊園にあるゾルゲの墓に参るのが慣行となっていた。ソ連崩壊後もロシア駐日大使がこれを踏襲している。また、ロシア連邦大統領であるウラジーミル・プーチンはフランスが製作したゾルゲの映画[注釈 22] を少年時代に見てKGBのスパイを志したとされる[87]。2020年、駐日ロシア大使館がゾルゲの墓所の使用権を取得したと報じられた[88]

2022年1月26日、ロシアセルゲイ・ラブロフ外相はゾルゲの遺骨をサハリン州南部(南樺太)やクリール諸島南部(千島列島南部、北方領土)に改葬する構想を表明し日本側と協議していると発表した[89]。しかし、日本側の松野博一官房長官は翌日の記者会見でこのような提案は受けていないとした[89]

東ドイツ陸軍第1自動車化狙撃兵師団に属する第1捜索大隊(偵察部隊)は、名誉称号としてリヒャルト・ゾルゲの名を冠していた(Aufklärungsbatallion 1 "Dr. Richard Sorge")。また同じく東ドイツの国家保安省(MfS)は功労章として、「リヒャルト・ゾルゲ・メダル(Dr.-Richard-Sorge-Medaille)」を制定していた。

GHQの調査

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第二次世界大戦後の日本に、連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部の責任者として駐在したアメリカ陸軍のチャールズ・ウィロビーは、ゾルゲ事件に注目し、大掛かりかつ綿密な調査をおこなった[90]。その中で保釈されたクラウゼンも後を追われ、翌年にソ連からの手助けを受けて日本を離れることになった。

ただし、実際にはクラウゼン夫妻が日本でアメリカ陸軍情報部(MIS)から尋問を受けたことが、21世紀になって公開されたアメリカ国立公文書記録管理局所蔵資料に記録されている[91]

人物

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ゾルゲの功績を称えて発行された東ドイツの切手。左下には「ソ連邦英雄」の称号が書かれている。
多磨霊園にあるゾルゲの墓。『ソ連邦英雄』とロシア語で刻まれている。

家族

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生涯に2度結婚している[92]。最初の妻であるクリスティアーネとはドイツ時代に結婚していた[6]

2度目の妻であるエカテリーナとは1933年に結婚した[92][注釈 23]。エカテリーナは工場労働者だったが、ゾルゲらドイツ人にロシア語を教えていた[93]。結婚から数カ月後にゾルゲは諜報活動のため極東に旅立ち、結婚生活は数カ月だった[92]。ゾルゲは日本からエカテリーナに手紙を送り、そのうち12通がKGBに保管されていた[94]。エカテリーナはゾルゲの子を宿すも、水銀中毒により流産する[92]。さらに1942年9月にはスパイ容疑で逮捕され、1943年3月にクラスノヤルスクに流刑となり、同年7月同地で脳内出血により死去した[92][95]。この死去はゾルゲには知らされなかった[92]。エカテリーナは取り調べに対して、ゾルゲとの手紙のやりとりは1938年までだったと述べており[95]、KGBに残っていた1938年2月のゾルゲの手紙には「必ず帰る」という言葉が綴られていた[96]

来日後に東京・銀座ドイツ料理店「ラインゴールド」でウェイトレスをしていた石井花子と知り合い、1935年から逮捕直前の1941年まで深い関係を持った[97][98]。石井とは正式な結婚はしなかった。しかし死後石井によって建てられ、現在石井とゾルゲが眠る多磨霊園の墓には「妻石井花子」と彫られている[99]。ゾルゲは日本で雇っていた家政婦には「一度も結婚したことがない」と話しており[100]、石井もゾルゲは(正式な結婚をしていないという意味で)独身であると考えていた[101]

石井のほかにも複数の女性と関係があったとされ[99]、その一人(日本人)との間に娘がいたとの情報もあるが真偽は確認されていない[81]

その他

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日本滞在中の1938年5月、夜間のオートバイ運転中に交通事故を起こして負傷、聖路加病院で入院生活を送った[102]。この負傷により多くの歯を失い、以降総入れ歯状態となった[103]

石井花子によると、ゾルゲは第一次世界大戦の従軍時に大腿骨を骨折し、その後遺症で左右で脚の長さが違ったという[104]

アヴァス通信社東京支局長で、ヴーケリッチの上司でもあったロベール・ギランは、英仏がドイツに宣戦を布告した直後の1941年9月4日、ゾルゲと偶然遭遇した際にドイツが再びフランスと戦争を始めた憤懣をぶつけたところ、ゾルゲはギランを食事に誘い、その席で戦争を嫌い憎むこと、自らが平和主義者であることを苦悩した姿で述べた[105][106]。ゾルゲをナチス党員だと思っていたギランはそれを意外な思いで聞いたという[105]

著書・回想

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以下は回想

関連作品

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小説

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  • 伴野朗『ゾルゲの遺言』角川文庫ほか
  • モルガン・スポルテス『ゾルゲ 破滅のフーガ』吉田恒雄訳、岩波書店、2005年。ISBN 4000237101
  • 太田尚樹『赤い諜報員 ゾルゲ、尾崎秀実、そしてスメドレー』講談社、2007年
※研究書については「ゾルゲ事件」の項目を参照。

映画

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テレビドラマ

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ドキュメンタリー

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前・後編で放送、山崎努がゾルゲ役で朗読。後に『国際スパイ ゾルゲの真実』(1992年、角川書店)が刊行
  • ETV特集 私のゾルゲ事件』全2回(1998年、NHK製作)
  • その時歴史が動いた』「ゾルゲ・最後の暗号電報・新資料が明かす国際スパイ事件の真相」(2003年、NHK製作)
  • 『KGB シークレット・ファイルズ:スパイ・ゾルゲ 裏切りの特派員』(2005年、ロシア国営テレビ)
  • 『わが心の「スパイ・ゾルゲ」 妻・岩下志麻が見た 監督・篠田正浩』(2003年、アスミック

コミックス

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注釈

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  1. ^ 新聞社側は正式な特派員契約を結ばなかったとしている(本文参照)。
  2. ^ ニーナについては再婚説があり、それによればゾルゲの兄弟のうち5人がニーナの連れ子だったという[1]。一方で兄弟全員が両親の実子という説もある[1]
  3. ^ 後述するアイノ・クーシネンの夫。
  4. ^ 後に1941年頃からは「インソン」というコードに変更された[16]
  5. ^ ゾルゲは日本での取り調べの過程で尾崎との接触がスメドレーによるものであると供述を変更し[14]、長らくそれが定説化していた。
  6. ^ ヴェントは日本で「ベルンハルト」という偽名で活動しており、ゾルゲらは警察や検察での取り調べでもその名を使用したため、「ベルンハルト」と記載する文献がある。
  7. ^ これらはいずれも電通銀座ビルに入居していた。
  8. ^ 1937年以降、傍受した記録がある。
  9. ^ 帰国したクーシネンは、実際に逮捕されて収容所に送られた。
  10. ^ ゾルゲは日本の訊問調書ではショルから入手した開戦予定を「6月20日」と述べているが[41]、ゾルゲが実際に送った通信ではこの日付である。
  11. ^ 手嶋龍一佐藤優らは実際に二重スパイであったという説を主張している[54]
  12. ^ この時点では南部仏印への進駐
  13. ^ 満州国のソ連国境に70万人を動員する関東軍特種演習が実行された。
  14. ^ 「エコノミスト」の「年内に日本の対ソ開戦がない」という情報(情報源は左近司政三)は1941年9月9日にラヴレンチー・ベリヤからスターリンとヴャチェスラフ・モロトフに報告されており、これはゾルゲの報告よりも5日早い[64]
  15. ^ 特高資料では「9月28日」とされているが、上記「褒賞上申書」や和歌山県で北林の逮捕に立ち会った元和歌山県警刑事の証言により実際の逮捕日は9月27日であることが渡部富哉によって確認されている [1]
  16. ^ 戦後の長期間、「伊藤律が北林の名を供述していたことが検挙の発端である」という内容が通説化していたが、現在はほぼ否定されている。詳細は伊藤の項目を参照。
  17. ^ 尾崎の逮捕日について、尾崎自身の手記や『特高月報』では「10月15日」となっているが、渡部富哉は10月14日であると主張している[68][69]
  18. ^ 治安維持法は「国体を変革することを目的」とした「結社」への関与を対象としており、外国の軍隊や国家ではなかった。
  19. ^ 公判に先立ち、ゾルゲが吉河光貞の前で作成した『手記』において、その途中から労農赤軍からの指示で動いたことを明記していた[76]
  20. ^ 当時、巣鴨拘置所の正式名称は東京拘置所だった。
  21. ^ フルシチョフはこれに先立つ10月に失脚した。
  22. ^ 前出の『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』とみられる。
  23. ^ エカテリーナの旧姓については「マクシモブナ[13]」「マクシーモワ[92]」と日本語で複数の表記がある。
  24. ^ 益田豊彦の筆名とされるが、風早八十二という説もある[18]
  25. ^ 新版で、角川版以前に4度刊行されている。詳細は石井の記事を参照。

出典

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  1. ^ a b c NHK取材班 & 下斗米伸夫 1995, pp. 34–36.
  2. ^ a b c d NHK取材班 & 下斗米伸夫 1995, pp. 36–40.
  3. ^ a b c d e f g h i 三宅正樹 2010, pp. 60–61.
  4. ^ NHK取材班 & 下斗米伸夫 1995, pp. 41–42.
  5. ^ NHK取材班 & 下斗米伸夫 1995, p. 43.
  6. ^ a b c d e f g 三宅正樹 2010, pp. 61–62.
  7. ^ a b c d NHK取材班 & 下斗米伸夫 1995, pp. 47–49.
  8. ^ NHK取材班 & 下斗米伸夫 1995, p. 45.
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参考文献

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  • 三宅正樹『スターリンの対日情報工作』平凡社平凡社新書〉、2010年。ISBN 978-4-582-85540-1 
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  • クルト・ジンガー『スパイ戦秘録』北岡一郎訳、国際新興社、1953年
  • みすず書房編集部(編)『現代史資料 ゾルゲ事件(全4巻)』、みすず書房、1962年(1 - 3巻)、1971年(4巻)
  • 手嶋龍一佐藤優『インテリジェンス 武器なき戦争』幻冬舎幻冬舎新書〉、2006年。ISBN 978-4344980112 
  • エルヴィン・ヴィッケルト『戦時下のドイツ大使館―ある駐日外交官の証言』佐藤真知子訳、中央公論社、1998年。ISBN 978-4120027451 
  • 石井花子『人間ゾルゲ』角川書店角川文庫〉、2003年。 
  • レオポルド・トレッペル『ヒトラーが恐れた男』堀内一郎訳、三笠書房、1978年。ASIN B01I5H7U4I 

関連項目

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外部リンク

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