ヤン・ベルジン
ヤン・カルロヴィチ・ベルジン Ян Карлович Берзин | |
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1937年の逮捕時の写真。 | |
生誕 |
1889年11月13日 ロシア帝国リフリャント県 |
死没 |
1938年7月29日(48歳没) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ |
所属組織 |
ロシア帝国陸軍 赤軍 |
軍歴 | 1917年-1937年 |
最終階級 | 二等陸軍委員 |
ヤン・カルロヴィチ・ベルジン(ロシア語: Ян Карлович Берзин, 1889年11月13日 - 1938年7月29日)は、ソ連共産党の活動家ならびに政治家、軍人(主に軍諜報機関の指導者)、諜報員、強制収容所(ラーゲリ)の創設者、二等軍政治委員。民族名はヤーニス・ベールジンシュ(ラトビア語: Jānis Bērziņš)であり、本名はペーテリス・キュジス (Pēteris Ķuzis / Петерис Кюзис)。ラトビア人。
人物・経歴
[編集]リフリャント県グスタフスベルク地方(Густавсберг мест,現:ラトビア、アマタ市・ザウベ教区)の小作人一家に生まれる。1905年、ロシア社会民主労働党に入党。1905年~1907年の革命に参加。1907年、警察官殺害の罪で逮捕され、この件に対して懲役8年を言い渡されるも、1909年に釈放。1911年、再逮捕され、イルクーツクに送られたが脱走した。第一次世界大戦開始と共に軍に召集されたが脱走し、ペトログラードの工場に入った。
1917年、ロシア社会民主労働党(ボリシェビキ党)ヴイボルグ及びペトログラード委員会委員。同年12月から、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の内務人民委員部で働き、レーニンと政府閣僚の個人警護を指揮した。1919年1月~5月、ソビエト・ラトビアの副内務人民委員。1919年~1920年、第15軍特別課を指揮。
1920年12月、労農赤軍情報局の仕事に移り、課長(1920年~1921年)、副局長(1921年~1924年)となった。1924年3月から1935年4月まで、労農赤軍参謀本部第4局長として軍諜報機関の基礎を作った。特に彼の在任時、リヒャルト・ゾルゲやレオポルド・トレッペル等の優秀な諜報員が採用された。1932年、極東の強制収容所領域の初代所長を兼任。1935年4月から1936年6月まで、独立赤旗極東軍副司令官。1936年、スペインの共和国軍の主任軍事顧問に任命される。1937年7月、ソ連に帰国し、再び情報局長となった。しかし、当時のソ連は大粛清の最中にあり、諜報機関員も例外ではなかった。ベルジンは1937年11月27日に逮捕され、1938年7月29日に死刑を言い渡され、コムナルカ射撃場で銃殺された。
1956年、名誉回復がなされた。のちに「強制収容所の創設者である」としてマガダンに記念碑が立てられたが、1991年に撤去されている。