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[[正応]]6年([[1293年]])6月24日、従五位下に叙せられる。[[永仁]]2年([[1294年]])1月7日、従五位上に昇叙。永仁5年([[1297年]])4月15日、正五位下に昇叙。永仁6年([[1298年]])7月21日、従四位下に昇叙。[[正安]]元年([[1299年]])12月30日、[[侍従]]に任ぜられる。正安3年([[1301年]])1月6日、従四位上に昇叙。正安4年([[1302年]])2月28日、[[近衛府|左少将]]に任ぜられる。[[嘉元]]4年([[1306年]])1月5日、正四位下に昇叙。同年4月14日、左中将に転任。[[徳治]]2年([[1307年]])1月29日、肥後権介を兼ねる。


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== 季雄と公脩の母について ==
== 季雄と公脩の母について ==

2020年7月3日 (金) 22:36時点における版

 
小倉季雄
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正応2年(1289年
死没 建武3年/延元元年9月9日1336年10月14日
官位 正二位権中納言
主君 伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇光明天皇
氏族 小倉家
父母 父:小倉実教
兄弟 季孝、季雄富小路公脩、公煕、教子、洞院公賢室、園基成室、女子、
忠房親王
実遠[1]、女子[2]
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小倉 季雄(おぐら すえお)は、鎌倉時代後期の公卿権大納言小倉実教の子。官位正二位権中納言

経歴

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

正応6年(1293年)6月24日、従五位下に叙せられる。永仁2年(1294年)1月7日、従五位上に昇叙。永仁5年(1297年)4月15日、正五位下に昇叙。永仁6年(1298年)7月21日、従四位下に昇叙。正安元年(1299年)12月30日、侍従に任ぜられる。正安3年(1301年)1月6日、従四位上に昇叙。正安4年(1302年)2月28日、左少将に任ぜられる。嘉元4年(1306年)1月5日、正四位下に昇叙。同年4月14日、左中将に転任。徳治2年(1307年)1月29日、肥後権介を兼ねる。

延慶元年(1308年)11月14日、従三位に叙せられる[3]。同年12月10日、改めて左中将に任ぜられる。延慶3年(1310年)5月11日、正三位に昇叙。応長元年(1311年)3月30日、山城権守を兼ねる。10月8日、参議に任ぜられる。正和元年(1312年)3月15日、左兵衛督を兼ね検非違使別当に補される。10月13日には右衛門督に移り従二位に昇叙。正和2年(1313年)9月6日、権中納言に昇進。11月24日は右衛門督と検非違使別当を辞した。正和5年(1316年)11月18日、正二位に昇叙。文保元年(1317年)2月5日、権中納言を辞した。元応2年(1319年)、本座を許される。建武3年/延元元年(1336年)9月9日、薨去。享年48。

季雄と公脩の母について

『公卿補任』には母が季雄の娘とあるが、季雄と公脩は5歳違いのため、公脩の母が季雄の娘ということはあり得ない。母が季雄と同じであると記述すべきところ、誤記で季雄母となったと推測できる。

歌人として

『増鏡』[4]によれば、十五夜の歌合に父実教、弟公脩と共に召されて詠出している。

脚注

  1. ^ 権中納言
  2. ^ 富小路公脩の妻か。小倉家を継いでいったのが公脩の子孫であったことを考えると季雄の娘を娶った可能性がある。
  3. ^ 玄輝門院御給。
  4. ^ 『増鏡』、第13「秋のみ山」。

参考文献